空虚な凱旋、あるいは演算の果て
リミニス・ベースの廊下を、守屋忍は意味もなく徘徊していた。
築数十年の湿気を含んだ空気が、数千億を動かした後の肺には酷く重たく感じられる。
外壁のグレーの吹き付け塗装は、西陽を浴びてひび割れた皮膚のように見えた。
巨大企業フロイド・エレクトリック社を解体し、父を裏切った者たちをサイバー空間の塵へと変えた復讐は、たった数クリックの演算で完了した。
けれど、手元に残った莫大な富は、この建物の鉄錆の匂いひとつ消すことができない。
忍は、1階の共同キッチンの扉を乱暴に開けた。
そこには、浅葱海が調律の合間に作る、いつもの炊き出しの残りがあった。
「おい海、この飯、メイプルシロップの甘さが足りねえよ」
低体温な標準語で、彼は誰に聞かせるでもなく呟いた。
海は今、地下の防音室で律さんのピアノと向き合っているはずだ。
情報の真空地帯。
5Gの電波さえ届かないあの場所には、忍が動かしたビットレートの嵐も、資本主義の狂騒も、一切干渉することができない。
忍は、スマートフォンの画面を眺めた。
そこには、彼がSNS的な道化として演じてきた虚像が、情報の残骸として浮遊している。
律さんへの情愛も、そのノイズの中に巧妙に隠蔽したつもりだった。
けれど、買収という名の破壊を終えた今、彼の目に宿る光は、ただの空虚な反射に過ぎない。
「忍さん。……終わったんですか」
背後から、海が静かに現れた。
自分を突き放したような淡白な敬語。
彼は忍が何をしたのかを正確には知らないはずだが、その空気の変化だけは、調律師の鋭い耳で聴き取っているようだった。
「終わったよ。世界の一部をゴミ箱に捨ててきた。……笑えるだろ、海。数千億あっても、このキッチンのカビ臭さすら愛おしく思えるんだからな」
忍は、歪んだ笑みを浮かべて壁に寄りかかった。
海は、困ったように眉を下げ、ただメイプルシロップのボトルを冷蔵庫にしまった。
「別に、僕はいいんです。忍さんが何を手に入れても。……ただ、律さんは、今日の夕方の音が一番きれいだと言っていましたよ」
その言葉が、忍の胸を鋭く刺した。
彼が世界の経済バランスを弄んでいる間、律さんはただ、空間に定着する正解の音だけを観測していた。
忍が手に入れた富は、律さんの「無音の打鍵」一回分の価値にも届かない。
その残酷な事実が、静謐な論理となって彼の足元を崩していく。
忍は、再び廊下に出た。
2階へ上がる階段の途中で、志摩巧とすれ違う。
志摩さんは相変わらず、理花さんのデジタルフットプリントを追うストーカー的な献身の中にいた。
最新のガジェットで管理された彼の生活は、忍の空虚とは対極にある、執着という名の秩序で満たされている。
「おめでとうございます、守屋。これであなたの復讐という名の演算は、すべて完了したわけですね」
志摩さんの冷徹な敬語は、相手の心の傷に土足で踏み込むような精度を持っていた。
忍は、鼻で笑ってそれを聞き流す。
「ああ、完了だ。次はハリウッドにでも行って、もっと大きなノイズに紛れるとするよ。……志摩、お前もいつまでその死んだ過去にしがみついてるんだ?」
「過去が死んでいるかどうかは、僕が決めます。……失礼します」
志摩さんは一度も目を合わせることなく、自室へと消えた。
誰もが、自分だけの聖域で、何らかの依存に沈んでいる。
メイプルシロップの甘さ、亡き柳さんの影、あるいはピアノの弦の物理的な摩擦。
忍は、自室の窓から武蔵野の夜景を見下ろした。
光の奔流は、すべてが演算可能な情報の塊に見える。
けれど、彼の手の中には、もう壊すべき城壁も、守るべき場所も残っていなかった。
買収完了。
それは守屋忍という怪人が、自らの実在を喪失した瞬間でもあった。
夜風が、建物の隙間を抜けて不協和音を奏でる。
忍は、ポケットの中で、一度も使われることのなかった律さんへのプレゼントを握りつぶした。
数千億の資産を持ってしても、彼は彼女を「ただの女の子」にすることさえできないのだ。
その絶対的な敗北感を抱えたまま、彼は意味もなく、再び廊下を徘徊し始めた。




