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安価な輪郭、あるいは正解の音

地下防音室の重い扉を閉めると、情報の奔流は唐突に途絶える。

5Gの電波さえ透過させないこの場所は、現代におけるもっとも純粋な空白だ。

数10分前まで、地上のリビングでは守屋さんが数千万のキャッシュをテーブルに積み上げ、退避的な祝祭を繰り広げていた。

シャンパンの泡が弾ける音と、メイプルシロップの甘い匂い。

それらはすべて、現実という名の演算から逃れるための緩衝材に過ぎない。


僕は、手元の小さな箱を見つめた。

駅ビルの雑貨屋で買った、丁寧だが安価な包み紙。

律さんに贈るための、ささやかなプレゼントだ。

彼女は今、防音室の隅で、ピアノの鍵盤に触れることなく座っている。

無音の天才。

打鍵する前に、空間に正解の音を定着させてしまう彼女にとって、物理的な振動はむしろノイズに近いのかもしれない。


「律さん。これ、……もしよかったら」


僕は自分を突き放した淡白な敬語で、その箱を差し出した。

律さんはゆっくりと顔を上げ、感情の省エネを体現するような静かな瞳で僕を見た。

彼女の視界には、僕の声も一つの波形として映っているのだろう。


「海。……なに、これ」


「別に、大したものではありません。ただ、あなたの音が、もう少しだけこの世界に繋ぎ止められればいいと思ったんです」


箱の中身は、古い形式の指先を保護するクリームと、小さな硝子の細工だった。

最新の再生医療やAIによる補正がすべてを均一化していく中で、僕は弦の摩擦や、指先が鍵盤に触れる際の不完全な物理性に固執したかった。

父が鉄道模型のデジタル制御に没頭し、情報の果てに消えていったあの日から、僕は手触りのない幸福を信じられなくなっている。


律さんは、細い指先で慎重に箱を開けた。

彼女の動作は、大型台風がすべてを奪い去る前の、嵐の前の静けさに似ていた。


「きれい。……音が、青い」


彼女の短文での断定を避ける物言いは、この情報の真空地帯では、何よりも透明な論理として機能する。

彼女にとっての「青」が何を意味するのか、凡人である僕には届かない。

けれど、彼女がその安価なプレゼントを掌に乗せた瞬間、世界の構造がほんの一ミリだけ、正しく調律されたような気がした。


リビングからは、守屋さんの乱暴な笑い声が微かに響いてくる。

志摩さんは今も階上で、理花さんのデジタルデータを修復しながら、戻らない過去という名のアーカイブに浸食し続けているだろう。

亜弓さんのスマートウォッチは、報われぬ恋の鼓動を冷徹にトラッキングし続けているはずだ。


「海。……ありがとう」


律さんの言葉は、僕の胸を鋭く刺した。

それは感謝というよりも、単なる現象の肯定に近い。

彼女にとって、僕はまだ心地よい音の一つに過ぎないのだ。

調律師の助手として、僕は彼女という完璧な楽器を維持するパーツでしかない。


僕は、リミニス・ベースの湿った鉄錆の匂いを吸い込んだ。

SNSのノイズに疲弊した若者たちが、メイプルシロップのような甘い依存に沈むこの聖域。

ここでは、誰もが自分を偽りの平和で塗りつぶしている。


「……いいえ。喜んでもらえたなら、それでいいんです」


僕は再び、淡白な自分へと戻る。

律さんが指先で硝子をなぞる。

その微かな摩擦音こそが、僕にとっての唯一の実在だった。

扉の向こう側で資本主義の狂騒や絶望的な恋が渦巻いていても、この数10センチメートルの間にある静寂だけは、誰にも演算できない。


僕は、地下室を出てキッチンへ向かうことにした。

メイプルシロップをたっぷり使った炊き出しの残りを片付けなければならない。

日常の足元が崩れるような違和感は、いつもこうした何気ない瞬間に、静かに、そして確実に、僕たちの実在を削り取っていく。

情報の真空から、情報の海へと戻る。

僕は扉に手をかけ、最後に一度だけ、音のない正解の中に佇む彼女を振り返った。

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