不透明な修復、あるいは不在の残像
金沢の冬を思わせるような、湿った冷気が部屋の隅に溜まっていた。
志摩巧は、倉田デザインの事務所の片隅で、古いハードディスクの駆動音を聴いている。
それは彼にとって、調律された楽器の音色よりもずっと、切実な意味を持つノイズだった。
彼はバイトとして、柳が遺した壊れたデジタルデータの修復を任されている。
モニターに流れるエラーコードの羅列は、死者の思考の断片だ。
志摩は眼鏡の奥の瞳を動かさず、慎重に、まるで外科手術を行うような手つきでキーを叩く。
最新のガジェットで管理された彼の日常において、この場所だけが唯一、論理では制御できない情念の領域に繋がっていた。
「志摩くん。……そこまでにしておいて。もう、夜が深いわ」
倉田理花の声が、静寂を塗り替えた。
彼女は事務所の奥から、不自由な左半身を庇うようにして現れる。
最新の義肢や再生医療を拒み、亡き夫との唯一の繋がりとしてその後遺症を抱え続ける彼女の姿は、志摩にとって、神聖な静止画のように映った。
けれど、理花の視線は常に、志摩の数ミリ右側、存在しない誰かの残像を追っている。
「あと一工程で、柳さんの遺した3Dモデリングの基礎構造が復元できます。これを投げ出すことは、僕の論理が許しません」
志摩は丁寧な標準語で答えるが、その言葉には、理花の心に土足で踏み込むような冷徹な執着が混じっていた。
彼は、自分が理花の視界に入っていないことを理解している。
だからこそ、柳の影を修復することで、彼女の瞳の中に自分の居場所を捏造しようとしていた。
リミニス・ベースの地下では、律さんが無音の打鍵で正解の音を空間に定着させている。
一階のキッチンでは、海がメイプルシロップを隠し味にした炊き出しを作っているだろう。
そんな平和で閉塞した場所とは異なり、この事務所には、時間の止まった人間たちの腐敗した香りが漂っている。
「柳は、そんな風に完璧に直されることを望んでいないかもしれない」
理花が窓の外を見つめながら呟いた。
武蔵野の地価高騰を象徴するネオンの光が、彼女の横顔を無機質に照らす。
「望みは関係ありません。データは正しくあるべきです。そして僕は、不完全なままのあなたを、正しく管理したいと思っているだけですから」
志摩の言葉は、告白というよりも、呪いのような宣戦布告だった。
彼は理花という動かない過去に自分を縛り付け、彼女の「足」になることで、社会的な死さえも厭わない覚悟を固めていた。
それは、瀬戸亜弓がスマートウォッチで心拍数を計りながら抱いているような、健全で幼い恋とは程遠い、歪んだ献身だった。
志摩は作業を中断し、理花の左手に視線を落とす。
動かない指先。
彼は、その不自由さにさえ、柳という男の圧倒的な不在を感じ、激しい嫉妬を覚える。
デジタルフットプリントを追い、亡き男の思考をトレースし、いつかその影を自分に塗り替えること。
それが志摩巧という男の、静かな狂気だった。
「……明日は、雪になるそうよ。金沢のように」
理花の言葉に、志摩は短く「そうですね」とだけ返した。
彼はすでに、明日の気象データと、彼女の移動ルートをスマートフォンの予測変換に登録していた。
事務所を出ると、鉄錆の匂いを含んだ冷たい風が吹き抜けた。
リミニス・ベースへと戻る道すがら、志摩は自分の指先を見つめる。
そこには、柳のデータを修復した際の、微かな静電気の感触だけが残っていた。
日常の足元が崩れるような違和感を、彼は快楽として受け入れながら、情報の海へと沈んでいった。




