混沌の誘い、あるいは観測者の沈黙
リミニス・ベースを包囲する湿気は、夜になると鉄錆の匂いをより鮮明にする。
共同キッチンの蛍光灯が瞬き、不規則なリズムを刻んでいた。
僕はその下で、メイプルシロップを微かに加えた炊き出しの鍋をかき混ぜていた。
甘く、どこか中毒性のある香りが、グレーの吹き付け塗装が施された壁に染み込んでいく。
守屋忍が二階から降りてきたのは、そんな時だった。
彼は退廃的なカリスマを纏い、まるで世界の終わりを予見しているかのような冷ややかな笑みを浮かべていた。
彼の視線の先には、リビングのソファで無防備に丸まっている律さんがいた。
「おい海。律を少し借りるぞ。こいつは、こんな静かな聖域に閉じ込めておくには惜しすぎる音を持っている」
守屋の声は乱暴だが、その底には低体温な標準語の鋭利さが潜んでいた。
彼はサイバー空間で弄んでいる莫大な富と同じように、律さんという存在を一つの極上なノイズとして消費しようとしている。
僕は手を止め、自分を突き放した淡白な敬語で返した。
「……だと思います。でも、彼女がそれを望むかどうかは別の話です。別に、僕はいいんですけど」
「お前はいつもそうだな、海。観測者の席から一歩も動こうとしない」
守屋は鼻で笑い、律さんの隣に座った。
律さんは、まるで光の粒子を数えているかのように、瞬き一つせず守屋を見つめた。
彼女にとって、守屋忍という男は、調和を乱す不規則な波形そのものなのだろう。
「律。お前のその、正解の音を定着させる力。それを、もっと混沌とした場所で鳴らしてみたくはないか。情報の海が荒れ狂い、誰もが実在を見失っているような、そんな場所でだ」
守屋の誘いは、毒を含んだメイプルシロップのように甘く、重たい。
彼は律さんを、自分たちの側、つまり予測不能な混沌へと引き込もうとしていた。
最新のガジェットで管理された志摩さんの生活や、岸本さんが作り出す過保護な隔離とは対極にある、剥き出しの現実。
律さんは、少しだけ首を傾げた。
「……忍の音。うるさい。でも、光ってる。赤い」
短文で断定を避ける彼女の言葉。
彼女の眼には、守屋の背後に広がる膨大なデータの奔流が、色として見えているのかもしれない。
守屋は満足げに身を乗り出した。
「そうだ。そこには、おじさんが守ろうとしているような、純粋な音楽なんて一つもない。あるのは、欲望と絶望が混ざり合った、圧倒的な実在だ。お前なら、その濁流さえも調律できるはずだ」
僕は、二人の会話を情報の外側から見守ることしかできなかった。
調律助手として、録音助手として、僕は常に音の境界線に立っている。
弦の物理的な摩擦に固執する僕にとって、守屋の言う混沌は、あまりに眩しすぎて、直視できない。
キッチンで鍋がコトコトと音を立てる。
律さんが守屋の提示する自由、あるいは破滅に手を伸ばそうとする瞬間。
僕は、このリミニス・ベースという避難所が、音も立てずに崩壊し始めているような違和感に襲われた。
志摩巧が二階の廊下から、冷徹な眼鏡の奥で僕たちを見下ろしていた。
彼のスマートウォッチは、この部屋の不穏な静寂をどのように記録しているのだろうか。
彼は理花さんという動かない過去に縛られながら、今ここで起きている変化を、冷ややかに拒絶している。
「守屋。彼女をそそのかすのは、合理的な行為とは言えません。彼女の天才性は、静止した空間でこそ真価を発揮するものです」
志摩の声が、キッチンの甘い空気を切り裂いた。
守屋は振り返りもせず、中指を立てて応えた。
「合理性なんて、ドブ川に捨てちまえよ、眼鏡。お前が理花のデジタルフットプリントを必死に追いかけているのも、非合理の極みだろうが」
日常の足元が、ゆっくりと、しかし確実に崩れていく。
僕は、出来上がった炊き出しを器に盛り、律さんの前に置いた。
メイプルシロップの香りが、一瞬だけ守屋の毒を和らげたように見えた。
「……海、ごはん。あまい。……すき」
律さんは、それまでの混沌とした会話など忘れたかのように、スプーンを手にした。
彼女が現実の肉体を取り戻すのは、こうした極めて個人的で、泥臭い食事の瞬間だけだ。
守屋は舌打ちを一つして、ソファに深く沈み込んだ。
「ちっ。お前のその飯、メイプルシロップが足りねえよ、海」
僕は何も答えず、ただ自分の器に視線を落とした。
調和と混沌。
保護と搾取。
その狭間で、僕はただの観測者として、消えていく音を記録し続ける。
武蔵野の地価高騰を象徴する高層ビルの明かりが、グレーの外壁を冷たく照らしていた。
リミニス・ベースの夜は、誰の救いにもならない沈黙を深めていく。
僕は、明日にはもう、このキッチンの温度さえ変わっているだろうという予感だけを、胸の奥に閉じ込めた。




