不自由な聖域、あるいは残像の愛
リミニス・ベースから少し離れた場所にある倉田デザインの事務所は、常に一定の湿り気を帯びている。
志摩巧は、その重たい空気の密度を、肌で正確に観測していた。
窓の外では、地価高騰の象徴である無機質なビル群が、夕闇に溶け始めている。
彼は今、倉田理花のすぐ後ろに立っている。
彼女の左半身は、柳という男が遺した決定的な不在を証明するように、今も静止したままだ。
最新の再生医療や高性能な義肢を導入すれば、その不自由さは数パーセントの誤差にまで軽減されるはずだった。
けれど、理花はそれを頑なに拒んでいる。
志摩には、その頑迷さが、死者との回路を遮断させないための、聖域への供物のように見えた。
「志摩くん。……もう、いいのよ。このデータの修復も、あなたの仕事ではないわ」
理花の声は、古びた調律が狂った弦のように、微かな震えを伴っていた。
志摩は眼鏡のブリッジを指先で押し上げ、冷徹な標準語で答える。
彼の瞳は、理花の不自由な腕ではなく、その背後にあるデジタルの残滓を見つめていた。
「いいえ。データの整合性を保つことは、僕の存在理由の一部です。柳さんの遺したアーカイブが崩れていくのを、黙って見過ごすことは僕の論理が許しません」
志摩の献身は、純粋な善意とは程遠い場所にある。
彼は理花を追ってこの事務所に移籍し、彼女の生活のすべてをデジタルフットプリントとして追跡している。
彼女が何を買い、どこへ行き、誰の面影を探しているのか。
志摩はそれをストーカー的な精度で把握し、管理することに、歪んだ充足感を覚えていた。
事務所の隅にあるサーバーが、微かな駆動音を立てる。
それは、リミニス・ベースの地下防音室で律さんが奏でる、あの正解の音とは対照的な、濁った現実のノイズだった。
律さんが打鍵の前に音を空間に定着させる天才なら、志摩は起きてしまったエラーを執拗に修復し続け、過去を捏造しようとする凡人だった。
「理花さん。あなたは、柳さんの不自由さを愛している。だからこそ、その呪いを解こうとしない」
志摩の言葉は、相手の心の傷に土足で踏み込むような、鋭利な敬語だった。
理花は、わずかに肩を震わせる。
志摩は確信していた。
理花にとっての左半身の麻痺は、柳という男がこの世界に実在したことを示す、唯一の物理的な手触りなのだと。
「……そうかもしれないわね。不自由であることでしか、私は彼と一緒にいられない」
理花の視線は、事務所の壁に掛けられた、柳が遺した未完成のデザイン案に注がれている。
志摩はその視線の動きを、冷たく観測していた。
理花の瞳の中に、自分が映ることは決してない。
彼女が見ているのは常に、志摩の背後に重なる、死者の残像だけだ。
「ならば、僕はその不自由さを一生、管理し続けましょう。あなたが柳さんの影を追うのなら、僕はあなたの影の影になればいい」
それは献身という名の、静かな浸食だった。
志摩は、理花が義肢を拒むのなら、自分が彼女の「左手」になればいいと考えていた。
彼女の歩行を支え、彼女の食事を介助し、彼女の生活のすべてを自分の支配下に置くこと。
柳が遺した「壊れた日常」を、自分が上書きしていくこと。
それが志摩巧の選んだ、愛という名の服従だった。
一階の共同キッチンでは、海がメイプルシロップを加えた炊き出しを完成させている頃だろうか。
あちら側の世界には、まだ甘い依存の匂いが残っている。
けれど、この事務所に漂っているのは、鉄錆と、古びた紙と、そして修復不能な愛の腐敗臭だけだ。
志摩はキーボードを叩き、柳の遺した3Dデータの破損箇所を一つずつ埋めていく。
画面上で柳の思考が鮮明に蘇るたび、理花の瞳に光が宿り、同時に志摩への関心が薄れていく。
志摩はその皮肉な構造を、静謐な論理で受け入れていた。
「志摩くん、あなたは、どうしてそんなに優しいの」
理花が、不意に志摩の方を向いた。
その瞳には、一瞬だけ困惑の色が混じっていた。
志摩は、表情を変えずに答える。
「優しいのではありません。僕はただ、あなたが正しく壊れたままでいるのを、特等席で眺めていたいだけですから」
外壁に吹き付けられたグレーの塗装が、街灯の光を鈍く反射している。
志摩巧の日常は、こうした足元が崩れるような違和感の上に、精緻な論理を積み上げることで成り立っていた。
彼は、自分がどこまでも凡庸で、どこまでも執拗な観測者であることを誇りに思っていた。
理花が静かに椅子から立ち上がり、不自然な歩調で窓際へ移動する。
志摩はすぐさまその背後に回り、彼女が転倒しないように、けれど決して触れない絶妙な距離を保って寄り添った。
そこには、音楽の神殿も、情報の真空も、救済もなかった。
ただ、二人の止まった時間が、武蔵野の夜の中に静かに沈殿していくだけだった。




