第219話 百物語
「……記憶がない?」
ティバルトから告げられた信じられない言葉に、劉兎は思わず目を丸くする。
しかし、少し逡巡させると、一人の人物が脳内に浮かんできた。
「いや、ウチにも居たな……」
劉兎の脳内に過ぎったのはカナデの顔。
当時は、生前の記憶がないという事実を「そういうもの」と軽く受け止めていたが、よく考えたらおかしい点である。
「レヴォルテには複数の構成員が居るが、俺ともう一人以外は皆生前の記憶がない……『聖域』の幽霊も無いものばかりだ。そういうものかと思っていたが、どうやら君の反応を見る限りそうではないようだな」
嘆息しながら劉兎を見つめるティバルトに、思わず頷く。
日本霊界に居るほとんどの幽霊は生前の記憶を持って生きている。カナデこそ記憶がない幽霊ではあったが、むしろ日本では珍しい部類に入る。
特に気にすることもなく、理由を聞いてこなかった劉兎だが、日本とドイツの相違点から、あることを察した。
「やはり、霊界の有無はそこまで関わってくるんですね」
「そうみたいだな……」
眉を落とすティバルトを見て、劉兎も少し悲哀を抱く。
彼の左耳のみ装着された複数のピアスが鈍色に輝き、淡く光を反射させていた。
そんな光すら鬱陶しく感じた劉兎は、自然と視線を逸らしてしまう。
「これは推測だが……記憶の有無も悪霊化に関わってくるのだろう。記憶がないゆえに悪意に染まってしまう……そう考えれば『聖域』の幽霊が悪霊に変わるのも、必然と言えるな」
「……悪霊に変わる?」
「ああ、ここは『聖域』なんて呼んでいるが、実態は悪霊化を遅らせるために隔離しているだけに過ぎない。地上に居ると物凄い速度で黒い霊力が身体の中を蝕んでくるんだ……霊力を使える我々でさえ、いつかは自我のない悪霊になってしまう」
霊界がない世界での幽霊という存在について、劉兎は真に理解する。
そもそも、以前仁志がやった通り、生界に幽霊が行く場合、悪霊の結界内を除いて全身を霊力で保護していないと飲み込まれてしまう。
『聖域』に居る者たちはもちろん、レヴォルテの者たちも、霊力を扱うことは容易ではない。いくら隔離空間といえど、空気穴がある限り黒い霊力は入ってくる。
導かれる答えはひとつだった。
「一体、バルさんは何代目のリーダーなんですか?」
「……もう何代目になるかも覚えていないよ、ただ、我々レヴォルテは、百年にわたって地上を取り返すために戦っているのは事実だ……状況は悪化していくばかりだがな」
から笑いするティバルトに心が締め付けられる。
考えてみれば当然のこと、霊界がないというのは、言わば幽霊と悪霊を隔絶する空間がないということ。
幽霊より悪霊の方が生まれやすい状況と、悪霊は幽霊を襲うという構造上、霊力という自衛の手段すら知らない彼らは蹂躙されるのみ。
事態は、劉兎が予想するより何倍も逼迫していた。
「俺達は、あなた方の状況を全く知りませんでした……本来であればこの壁に囲われたネルトリンゲンを使って、擬似的な結界を創り出し、ここをドイツ霊界とするつもりでしたが……その前にもっと安全な場所に転居しましょう」
「それはできない」
「何故!?」
「……ついてきてくれ、見せたいものがある」
劉兎がしかめ面するのと同時に、踵を返すティバルト。
彼の鋭い視線に刺された劉兎は、唾を飲み込みつつその後を追う。
酒場スペースを抜け、バックヤードらしき場所へと入る。薄暗く埃っぽい臭いが充満する部屋を抜けると、場所にそぐわない鉄扉が姿を表した。
大きなハンドルで厳重に施錠されているその扉は、いつかドラマで見た銀行の金庫と同じだった。
相違している点は、扉が錆び始めていることと、肌を刺すような威圧が中から放たれていることだけ。
「……一体、何があるんですか? すごい嫌な感じがしますが」
「『何』かは俺も分からない……しかし、我々レヴォルテが代々守ってきた物が、ここにはある」
ハンドルを回すと、扉が泣く。
痛々しい金切り音が響き渡り、ゆっくりと中身を見せてくる。
開いた先に現れたのは、またもやコンクリートで舗装された無骨な階段だった。
「降りるぞ」
松明に炎を灯し、辛うじて足元が見えるようになった階段を下る。
そして開けた場所に降り立つと、仄暗い空洞が待っていた。
その中心に、地面から生える岩の台座。削って創り出したかのような跡が特徴的なソレの上には、一冊の本が置かれていた。
「何ッだ……コレ!」
本を見た直後、劉兎は即座に刀を抜く。
横目で睨むティバルトを他所に、冷や汗を拭いながら琥珀色の霊力を放出した。
「バルさん……! 一体なんですかこれは!」
「……これが、我々が代々守ってきた手記だ」
「そんなこと聞いてねぇよ!」
激高しながら身を翻す。
共に振るわれた刀がティバルトの首に寸止めされた。
琥珀色に輝く視線に刺され、ティバルトは据わった眼で見下ろす。
「この本にはとてつもない黒い霊力が付与されている……! 漆黒と言ってもいい! それを守っているだと!? ティバルト・シュウェーグラー! 貴様は……貴様らは! 一体何者だ!」
刀が命を刈り取らんと鈍く光る。
今にでも刃が食い込もうとするのを防ぐべく、ティバルトは両手を上げながら顔を逸らしていた。
「……やはり、コレはそんなにおかしいのか」
「しらばっくれるな!! いいか、俺の質問に答えろ、お前にしていい返事はそれだけだ!」
「いいや、聞いて欲しい――」
「質問に答えろ!!」
「聞けェ!!」
口論が苛烈する。
黒く淀んだ空気の中で、二人の霊力が渦巻き始めた。
琥珀色と灰色、本来相容れることのない二色が、反発しながら混ざり合う。
劉兎の刀はティバルトの首へと食込み血を流させ、ティバルトの両手が劉兎の双肩を掴む。
両者一歩も引かぬ中、次の瞬間にはどちらかが致命傷を負う、そんな一触即発の空気の中で、突然劉兎は刀を引かせた。
「……話を聞いてくれるのか」
「いや……そうじゃない」
刀を鞘へとしまう。
安堵したティバルトに対し、劉兎の視線は既に逸れていた。
向けられたのは手記、注目すべきはその表紙。
「……この文字は」
「ああ、我々には分からない文字で書かれている……何語かも分からない……もしや、日本語なのか?」
首の傷を霊力で治しながらティバルトが近寄る。
台座の前までやってきた二人の視線が、手記の表紙へと集中した。
黒い霊力を放っていることを除けば、それはただの本。
深緑のハードカバーが特徴的な、糸で綴じられた少し古い和本。
そして右上に備え付けられた空白には、日本語でこう書かれていた。
「『百物語』……」
それは、江戸時代から続く日本の怪談会の名。
怨念を溜め、漆黒を溜め、負の力で悪霊を呼ぶとされていた降霊術の一種。
綴られた名前に、劉兎の眉間が彫り起こされた。




