40.暗殺者の戦利品 1
40. Assassin’s Trophy
僕は、幸運なことに狼だった。
“もうちょっとの辛抱です、Teus様…。”
長い道のりだったけれど、ようやくヴァン川の岸辺まで連れてくることが出来た。
大の大人を運ぶこと自体は、釣り合うだけの体格をしているのでそこまで苦にはならなかったのだが、ぐったりとして意識のない彼が簡単に背中からずり落ちてしまうのは厄介だった。右腕を口に咥え、やはり足先をひきずりゆっくり進む他無いようなのだった。
あの狼であれば、平たく大きな背中で、容易く攫ってくれたに違いない。
とは言え、日が暮れるのも早くなり、底冷えもするようになったからか、人気は完全に絶え、幸い誰ともすれ違うことなくここまでたどり着けたのは、恐らくでかしたことだと思う。
枯れた茂みから這い出ると、僕は水面の位置を暗がりから確かめ、そこで一度負ぶっていたTeus様を降ろした。
耳を立てて周囲の気配を視覚に写し取ると、警戒の糸を緩める。
さて、ここからどうするか。
あまり残されていないであろう時間の砂ばかりが気にしても仕方がないのだが、僕がこの川を渡って、Fenrirさんの眠る洞穴までTeus様を運ぶのは現実的でない。予感などせずとも間に合わない。
誰も頼れなかったからとはいえ、此処まで来るのにもだいぶ時間を食い潰したんだ。一刻すらもう惜しい。
今ここでTeus様を置いて、自分が全力で暗闇の中を駆けてFenrirさんに事件を知らせるのだって、往復にかかる時間を考えればだいぶ厳しい。命取りになりかねないと、皮肉にも捕食者としてわかる。
Teus様、だいぶ、衰弱してきてるみたいなんだ。
そうなればもう、Fenrirさんに、今すぐ此方へ来てもらうしかない。
彼を呼ぶしかないんだ。
…僕は、何の疑いもなくFenrirさんのことを最高の狼だと尊敬してる。
大丈夫、彼ならばきっと応えてくれる。
“よし…”
僕は、狼の群れの統率者としてそうしてきたように、背をすっと伸ばして顔を大きく仰け反る。
…。
“アゥオオオオオオオオオオオーーーーーーーーー…………。”
虫の音も冷気に殺されて弱々しく、辺りは川のじゃぶじゃぶと流れる音だけが騒がしい。そんな晩秋の月夜だった。
お陰で、僕の遠吠えも澄み渡った寒空へと良く通るはず、そう思う。
…どうだろうか?
息を潜めて、向こう側から返してくれるのをじっと待つ。
僕の遠吠えが完全に吸い込まれてから、ゆっくり時間を数え始める。
一秒、二秒、三秒……。
うー…Fenrirさんも眠っちゃったかな?
もう一度、やってみるぞ。
“…ゥオオオオオオオオオオオーーーーーーーーーン…………。”
“だめか…。”
耳と尾をだらりと垂らして、僕はがっくりと項垂れる。
距離的には、届いていてもおかしくないはずなんだけど。
応えてくれない以上、聞こえてないんだろうな。
それがまるで、自分の遠吠えをFenrirさんが狼のそれと認めてくれなかったからなような気がして、何だか僕は無性に悲しかった。
“ゥォォォオオオオオオオーーーーーーー…。”
“っ…!?”
しまった、後方で仲間の狼たちが目を醒まし、遠吠えに応えてしまったのだ。
そこまで頭が回っていなかった、そりゃあこの距離なら僕らは絶対に気づいてしまうよな…。
仮にもリーダーの遠吠えだ、どれだけ眠くても応えない訳には行かないと、警戒心の強い一匹が気づいて呼びかけたのだろう。
何があったのかと尋ねる数匹の狼たちが織り成す合唱があの村中に響き渡るのはあまりよろしくないことだった。すぐに止めさせないと。
“何でもない!悪かった、気にしないでくれ…!!”
ごめんと心の中で詫びながら、狩りを終えて子供たちに知らせるような音色の遠吠えで安全だと伝えると、あちらの遠吠えも次第に数が減り、やがて寝静まってくれたようだった。
“ふぅ…危ないところだった。”
仲間たちを騒がせてしまった申し訳なさよりも、彼女に無用な心配をかけてしまってはいないかという心配よりも、これがTeus様に纏わる人間に聞かれてしまった可能性を考えてしまい、空恐ろしかった。
僕の存在を嗅ぎつけられていないことを願うばかりだけれど、自宅に本人がいない以上、全貌の見えない相手が動くのに、これは下手すれば十分な契機になり得ると思った。
何よりも、長老様の庇護にある狼の群れが騒がしいと言うのは良くない。
誰に従うか、僕の答えはもちろんはっきりしている。けれど、僕の直感が正しければ、この事件の差し金となっているのは…。
いや、止めよう。
今は長老様の、“Teus様にお仕えする” 責務を果たすことだけを考えるんだ。
それは、現状を打開することにそのまま繋がる。
冷静に考えると、返事が無い以上Fenrirさんを当てにするのは望み薄だと言って良かった。
けれど、人間の皆様のうち、誰を信用して良いのか、正直もう僕にはわからない。
もしTeus様を長老様のお家に運び、無事預けることが出来たとして、僕はそこでお役御免になってしまわないか?そうなってしまってから、無防備なTeus様を守るのは誰になる?
あの臭いお酒をTeus様に飲ませた張本人がどこに潜んでいるのかわからないんだ。
…駄目だ、一番よさそうに見えるけど、危険な匂いがぷんぷんする。
やっぱり、頼れるのは同じ狼しかいない。
Fenrirさんは、誰よりもTeus様のことを心配してるはず。きっとこんな状態のTeus様を見たら、彼に向ける言葉だって様変わりして、僕に親身になって、良い助言をくれるに違いないんだ。
僕一匹ではとてもどうしようも無かった以上、人語を喋れる狼には、見えているものが違うはずだと言う期待を拭い捨てきれなかったし、きっと解決の糸口を見出してくれると思う。
それに、何とかして僕の遠吠えに応えて欲しいと言う、ちょっとした意地も張りたかった。
別に、無視されてるとか思っている訳じゃないけど、Fenrirさんが返してくれて初めて認めて貰えるような気がするんだ。
もう一度呼びかける必要があるんだ。でも、それは此処じゃない。
また川瀬で空に向かって吠えたなら、今度こそ仲間を全員起こしてしまう。下手したら何匹かが様子を窺いにこっちへやって来かねない。
だからこそ迂闊に動けないのであったし、あまりことを荒立てたくない以上、僕は口を噤んでいなきゃならなかった。
…ヴァン川の向こう岸まで、一度泳いで渡る必要があるな。
僕は水面で形もなく揺らぐ三日月に目を凝らすと、視線をゆっくりと足元へと滑らせて砂利の淵を前脚で確かめた。黒くて底の見えない液体は、おおよそ水に思えない。
“行ける、よな…。”
昼間であっても長閑な風景を割るような奔流は、暗闇だとまるで何かの生き物の抑揚のない寝息かいびきのように聞こえてくる。
何度もTeus様のお遣いで往復してきたけれど、止まっているかのような水面に反して、実は流れは強く絡んでうねるので、初めて入水したときはちょっと慌てたぐらいなのだ。
あちら側で少し森の深くへ入ったなら、多少は僕の遠吠えもうるさくないだろう。
そしてFenrirさんには、より聞こえやすくなるはずだ。
でも、そのためには、Teus様を置いて行かなきゃならない。
僕は、仰向けになったままピクリともしない人間の顔を覗き込む。
“…すぐに戻ります、待っていてください。”
もう少しの辛抱ですよ、Teus様。きっとFenrirさんが何とかしてくれます。
だから、お願いだから、冷たくなんかならないで。
鼻面をそっと顔に押し当てると、僕はもう一度淡い三日月を仰ぎ、意を決して黒い川に飛び込んだ。
そのとき、月明かりが少しだけ、異様にぎらついたのを覚えている。
入ってみるまで分からなかったけれど、川の流れも深さも昼間と変わらないはずなのに、周囲が真っ暗で、水も透明でないというただそれだけで、途端に不気味なまでに恐怖が込み上げてくる。
口の中に水がちょっと流れ込むだけでもの凄く不安になって、身体を包むのは僕を水底へ引きずり込もうとする怪物の大きな舌、そんな想像が未来を悪い方へと運ぶ。
流されて川下に辿り着かないようにという意味も込めて、中間地点は、水面にぼんやりと浮かんだ月のつもりだった。それも、頭と前脚だけが水から出ているだけではどこにあるのかさっぱりわからない。
ひょっとして、川の怪物に隠されてしまったのではという疑念さえ僕を蝕むほど、狼の群れの統率者としての威厳だけが縋る綱だったのだ。
波打つ水面のせいで、向こう岸さえ遠ざかってしまったかと本気で青ざめ出したから、ようやく前足が確かな地に触れた時の安堵は、それだけでやったぞと僕を褒めたくなるのに十分過ぎた。
恐れを知らないあの可愛い子狼たちであったなら、短い尻尾をぶるんぶるんと振って、我が偉業を勇ましく父さんと母さんに報告するんだろうな。
幸せの塊を母の元に置いてきてしまった、駄目な父さんであることに心が痛む。顔をしかめて身震いすると、毛皮に纏わりついた黒い水を振り払った。
陸に上がって冷静になれば、川の真ん中には、変わらず月が泳いでいる。
それを見て、怪物も此処までは追って来れまいと悪い夢を振り払うことができたが、向こう岸で倒れているTeus様のことを思うと笑ってなどいられない。
さあ、一刻も早くFenrirさんに知らせなくては。
もう少し森の深くへ入り込んでからにしようかと逡巡したが、僕は此処でもう一度遠吠えをしてみることにした。今は時間が惜しい。明日何事も無く帰って来れたなら、群れ仲間に怪訝な顔で見られるのには目を瞑ってやろう。
軽く鼻を鳴らしてくしゃみをすると、再び夜空に放たんと息を吸い込む。
さあ、お願いだ。届いてくれ!
“アゥオオオオオオオオオオオーーーーーーーーー…………。”
………。
どうしてか、やはり自分の遠吠えは森に吸い込まれるようで、それでいて尾を引いて耳に木魂する。
声の大きさが足りていなくて、息が続かなかったのではと言う不安に駆られるのは、まだまだ未熟で地位の低い狼であるような気分だった。
でも、もう一度やってみる気にはもうなれない。
彼からの返事はやはり、変わらなかった。
悔しい。
項垂れた頭に浮かんだのは、結局は狼の否定に対する敗北。
…失敗だ。
Teus様を助けることまでもが、叶わないような気が、今はしている。
ここから彼の洞穴まで辿り着く頃には、もう手遅れであると想像しただけで震え上がるはずなのに。
そうする力すら、僕は奪われてそこに佇んでしまった。
どれくらい、そうして動けずにいただろう。
冬が近づいている。長くて出口の見えない夜では見当もつかなかった。
月はどれほど、空を泳いでいただろうか。
もうそうする気はないのだけれど。
口から洩れた吐息が、白く霞むようになったなと感じる寒空を仰ぐ。
その刹那だった。
“……?”
ぴくりと右耳が思わず弾かれる。
向こう岸からでは聞き取れなかった、獣の足音が僕の耳へ僅かに届いたのだ。
ドサッ、ドサッと、重く響き、それでいて俊敏に刻まれるそれは、凡そ僕の獲物じゃない。
これは…もしかして?
狼の耳に、果たして僕の声は響いていたのだ。
その力強い走りは、闇に包まれた森の中であっても迷いなく、僕の方へと向かっていた。
間違いなく、その狼とは彼だ。
“やった…やったぞ…!”
失いかけていた火が、突如として揺らめくように、僕は尻尾を緩く立てた。
僕の遠吠えは、ちゃんとFenrirさんにまで届いていたんだ。
“良かったぁ…。”
思わず、それ自体が目的であったと前脚を浮かせ、喜びを表現しそうになり、僕は慌てて頭を振る。
い、いや…まだこの事件は解決してないんだぞ。気を引き締めなくちゃ。
そ、それにどうしてFenrirさんは、僕の助けを求める叫びに、遠吠えで返してくれなかったんだろう?
僕はそこに強く拘り、疑心暗鬼にならずにいられなかった。
低く淀んだ一匹の音色は、狼であれば必ずや同胞の身を不穏に感じるに違いないはずなのに。
ひょっとして、やっぱり僕の遠吠えは犬の声真似でしかなくて、けど何かあったのだろうとだけは感じて、こうして今駆けつけてくれている。そう言うことなのだろうか?
余計なことを考えてしまって、せっかく上向いた尾が元気を失ってしまう。
それじゃあ、まだFenrirさんが眠ったままで気が付かなかった方が矜持は損なわれなかったまである。俺はお前を認めないぞと、あの大きな眼を離さず睨まれて、はっきり告げられているようなものだったから。
いや、もし面と向かって言われたら、そうしたら僕、ショックでその場にお尻からぺたんと座り込んでしまうかも。
でも、遠回しにそう示される方が、もっと傷ついてしまう。
そんなこと、ないよね…?
Fenrirさんが返事をしなかったのには、何かちゃんと理由があるに違いないんだ。
ほら、たった今僕が遠吠えを控えようとしたばかりじゃないか。
きっとFenrirさんは、こんな時間に呼び掛けた僕のただならぬ事件の深刻さを読み取って、自分の存在を知らしめることなく僕への接触しようと試みているんだ。
迂闊な振る舞いの一切を選ばない、賢明なFenrirさんならそう判断してもおかしくないじゃないか。
どうやってかは、知らない。けれど、そう考えると何となく、頼もしいことにFenrirさんはこの事態を予測していたような気さえしてくる。
そうだ、きっとそうに違いない。
無理やりそう結論付けようと葛藤するうち、足音からでも容易に想像できる巨大な主は、迅速にその距離を詰めてきた。
轟々と風を切る音、足音に一定のリズムが伴わないのは、森の中を殆ど縫うようにして走り抜けているからだ。きっと、僅かな月明かりで十分なほど縄張りを大切に思って使っているんだろう。
溜め息をついてうっとりと憧れるだけなほど、それは狼を超越していた。
あんな芸当、とても僕には真似できない。流石はFenrirさんだなあと思う。
それでも待っている側は、ちょっとばかりじれったく感じるものだ。両前脚を交互に踏んで落ち着きの無さを隠せず、ようやく姿を現した救世主を認めるが早いか、開口一番に僕は叫んだ。
遅れてぶわりと巻き上がる風。
殆ど瞬間移動のようにして、息一つ切らさずに僕の目の前に姿を現すのは、こんな時でなければカッコいいなあと毛先を膨らませて、後でこっそり真似してみるぞと息巻くような登場の仕方だったと言うのに。
“どうしてっ…遠吠えで返してくれなかったんですか? 僕もう駄目かと…!!”
驚くのも無理は無いだろう。僕の安堵とも苛立ちともとれる詰問に酷く面食らった表情を見せると、目を瞬かせて言い訳もなく謝った。
“あ、ああ…済まない。悪かった、遠吠えができなくて。”
特に申し開きをしなかったことが、僕の縋った仮説と自尊心を酷く損なったのは言うまでもない。
危うく彼に意味もなく喰って掛かるところだった。
“本当に悪かった。それで、何があったのだ。”
本題を促され、僕はようやく我に返り、自分の置かれている状況と死に瀕している主人のことを思いだした。
“そ、そうです…。Teus様が、Teus様がぁっ…!!”
僕は、今日Teus様の家に伺った時のこと、感じた異変と嗅いだ臭い、本人が倒れていたこと、そしてこのままでは命が危ないことを説明した。
“あいつは、今どこにいる?”
“此処まで連れてきてます、もうあの村は危険です…!!”
僕は顎で川の向こう岸を指し示すと、一緒に行きましょうと顔を傾けて同意を求めた。
“よし、乗れ。”
一切の動揺を示すことなく、瞬時に状況を把握してくれたFenrirさんは、自分に真正面を向いて腹這いになった。
それの意味するところは、顔から背中へよじ登って、自分の船に乗れと言うことなのだろう。
“はいっ、失礼します!”
僕も頭が回って理解の早いところを見せて、ちゃんとFenrirさんについて行かなくては。
一言詫びをいれて、彼の意図する通りに大きな背中へ飛び乗った。
“掴まっていろ。爪は立てて構わん。”
向きを変えて対岸を睨んだのを確認すると、彼は何の予備動作を示さずに大河の真ん中へ飛び込んだ。
“うわっ…!?”
ちらとだけ、それは朧げな記憶を僕に開かせると、感傷もろとも僕を一瞬の間に攫って行った。
小さい僕が、身を伏せた群れの大人たちがつくる小高い山によじ登る。
やっぱりお気に入りはお母さんだった。それを見て、彼女は嬉しそうに立ち上がり、突如として広がった視界に、僕は甲高い鳴き声をあげるのだ。
ああ、待って。
顔も、匂いも覚えてないのに。
しかと掴まっていなければ振り落とされる。それすら忘れて川に飛び込み、沈む前にと探し回りたい。
踏みとどまることが出来たのは、僕と彼女の子供たちが大きくなる前に、そんな遊びをしてあげれば良かったなという後悔がじわりと目から溢れ、あんなに元気に走り回られてはもう出来ないなと頬が緩み、そして今…
僕が今こうして、背中に乗ることを許してくれる狼がいるじゃないかという期待があるからだった。
それだけで、僕の毛皮は大きく広がって尾は自信に満ちた。
きっと忘れないだろう。いつもよりも近くに見える、消えかけの月と、走ってもいないのに感じる、川面を滑る冷たい風と、こんな思い付きを。
束の間の感動だったけれど、僕はFenrirさんにとっても良い思いをさせて貰ってばかりだったことを思いだしたんだ。




