38.蛇熱
38. Snake Fever
“Teus…様…!? Teus様っ!?”
扉の前でひと吠えするまでもなく、不穏な空気は部屋から漏れ出していた。
明らかに、今朝に寄ってみた時とは様子が違ったんだ。
…なんだ、この臭いは?
甘いのだけど、美味しいリンゴの匂いじゃないぞ。
上手く言い表せないけれど、頭が痛くなるような感じで、とにかく鼻を近づけて嗅ぎたいとは思わなかったんだ。
あれから僕は結局、すっかり日も暮れ、人気も家の中へと吸い込まれてしまってから、ようやく重い腰を上げてTeus様の家を訪ねることにした。
正直、明日の朝でも良いんじゃないかと先延ばしにしたくなるほど億劫に思っていた。子供たちの相手をして疲れてしまっていたから。
少し親ばかに付き合ってもらうと、とうとうあの子たちも、走り回ると言うことを覚えだしてしまったようなのだ。
ついこの間まで、突発的に走り出せば制御できずにこてんと転がるのを微笑ましく思っていたと言うのに、一丁前に四肢で踏み出す様子は僕らの面影を見出さずにはいられない。
そしてそのそれぞれが思い思いの方角へ小さな冒険に行こうとするので、いちいち首根っこを咥えて連れ戻さないとすぐさま迷子になってしまう。
そろそろ本格的に、かわいいかわいいと口元が緩んでいる場合じゃなくなってきている。
父さんと一緒に行こうな、と長老様の庭を散歩するだけでもこうだから、狩りの仕方を教える段になると、これはもう手に負えないぞと先が思いやられる。
気が付いたら、着いてくるのが一番大人しい子一匹だけだったときは流石に驚いて跳び上がった。
え、え? みんなは? さっきまで後ろで転がるように遊んでたのに…。
因みに、子供たちの名前はまだ決めて貰ってない。人間の皆さんと関わるのでなければ、僕たちの間で呼び訳は着くからね。
ああ、なんて元気いっぱいなのだろうと嬉しい溜息をつきながら、なんとか全員を集め終わったときの疲労感と言ったら無かった。
これを僕のお嫁さんは、自分が留守の間軽々とやってのけていたのだから凄い。
周囲を見渡す力は狩りに於いてずば抜けていると自負していたけれど、子供たちに目は行き届かないようでは父親としてはまだまだ、と言うことなのだろうか。頑張らないと…。
けれども、一線を退いただけで、実はそうした能力は彼女の方が遥かに上であることは知っていた。
周囲が聞けばびっくりするかもしれないけれど、自分の眼に狂いは無いと思う。彼女は足が少し遅いことを除けば、僕よりも狩りが上手いんだから。流石は自慢のお嫁さんだ。
僕と彼女が一緒に狩りに出かけたなら、仕留められない獲物なんていなかった。並走していて一番気分が良いと思うのは間違いなく彼女だし、自分が止めを刺すのに、陰ながら最善のサポートをしてくれたものだ。
また、子育てが終わってこの子たちが独り立ちできるようになったら、一緒に狩りが出来るかな。
そんな幸せな日々をそうだと確かめるには、まだまだこんなもんじゃあ足りない。
とにかく、今日の午後はお父さんとして忙しかったのだ。
どれだけ楽しかっただろうか、Fenrirさんには想像もつかないんだろう。
決して悪く言おうとしてるんじゃない。
でも、こういう風に生きては駄目ですかと、僕は思うんだ。
ああ、もうくたくただ。
もうこのまま、僕のお嫁さんにくっついて眠る子供たちの間に割って入りたいぐらいだったんだけどと、家族の寝顔をうっとりとした眼差しで眺める。
別れる名残惜しさに、彼女を起こさぬよう、額に鼻を優しく押し当てる。
いつもありがとう、もう少しだけ、子供たちのことを見守っていてくれるかな。
…そうしたら、また一緒に。
いいや、何でもない。
その時の思い付きは、またFenrirさんにTeus様と会いに行く日が来たら、実行することにしよう。
“さて…”
けれども、胸騒ぎと言うにははっきりと自覚してしまえた。
良からぬ企てが、僕の知ってはいけない距離を保って進んでいる。
それに首を突っ込みたくないと、目を瞑って過ごした平和は、なんとも居心地の悪いものだったと告白しておきます。
もう、我慢ならないぞ。
助けに行くんだ、Teus様のこと、Fenrirさんのことを。
窓際に前脚をかけて中を覗いてみるが、明かりはつけられていないようで、内観はよく分からなかったものの、確かに誰かいるようだ。
“ウッフ…ウォッフ…!”
あんまり大きな声で吠えることはできない。村はずれとは言え、聞きつけられでもしたら面倒だ。
しかし返事も、反応として動いた音も聞きとれない。
いつもだったら、これだけでTeus様は扉を開いて、玄関前で僕の頬をびよんと伸ばして、それからめちゃくちゃに撫でて挨拶をしてくれるのに。
もうお眠りになってしまったのだろうか。確かにもう月が大きく見える刻だけど、それにしてもちょっと早すぎやしないだろうか、周りのお家には煌々と明かりが灯っているのに。
この時点で異変は察知していたが、ますます疑りが深くなる。
中の様子をもっと探る必要があるな。
侵入経路について左程考える必要は無かった。あちらから働きかけてくれる様子は無かったが、僕にだって扉を開けることぐらいはできる。
鍵なんか掛けてなければいいけど…どうかな。
裏手からすぐさま玄関の方へ戻ると、首を伸ばしてドアノブに噛みつき、ゆっくりと回す。
キィィッ…カチャッ。
おっ、開いたぞ。
口からノブを離し、頭を扉に押し付けて進路を開く。
ゴッ…。
え…?
なんだろ、何かにぶつかったぞ?
開かないよう塞がれている、という訳でもないらしい。まあ、そうする意味が分からないけど。
もう少し体重をかければ、その隙間から潜り込めそうだ。
よいしょっと、お邪魔します…。
尻尾の先を扉の隙間から滑らせて、行く手を塞いでいたものが何かと目を凝らす。
思ったよりも小さくて、重くて丸いボールのようだけれど…。
…?
“うゎぁあ゛あ゛っ!?”
そうしたら、Teus様が倒れているのを見つけたんだ。
“うああっ、ごめんなさいっ…!”
しまった、僕が無理やり押しのけたのは、Teus様の頭だったのだ。
不自然な方向へ曲がった首に気が付き、慌てて扉を戻す。
辺りは月明かりだけが差し込む、深い森のように包まれた。
“ティ…Teus、様…?”
床に横たわるその人物が、別の誰かで、本人がベッドの上で眠っていたならどれだけ良かっただろう。
仮にそうだとしても、異常であることは確かだが、それでも知っている人がこうして倒れているだけで、どれだけ幸せな気持ちを奪われたかわからない。
そ、そんな…。
どうしちゃったんですか? 一体何が…?
そ、そうだ。まずは無事かどうか確かめなくちゃ…。
必死でほとんど失われた冷静さを保ち、舌でTeus様の顔をそっと舐め、僅かでも反応があるかを窺う。
ぴくりとも動かない、けれど頬には温もりがあった。息も落ち着けばちゃんとしているぞ。
良かった、死んではいないみたいだ。
…ただ、僕の鼻みたいに湿ってるようだけど、どうしたんだろう。何だか濡れてるみたいだぞ。
他に手掛かりは無いかと、鼻に意識を集中させる。
念のために、Teus様が怪我とかをしていないか確かめてみたけれど、血の匂いは一切入って来ない。
この人がこうして倒れてしまっている理由は、何処か別にあるんだ。それを探さなくっちゃ。
部屋の中に足を踏み入れた瞬間に、あの甘ったるい匂いは益々強烈になっていた。
正直、こうしているだけでも気持ち悪くなってくる。
くらっとするような、この匂いが充満している理由は何だ?
暗がりに目を凝らし、すぐに鼻が捉えた匂いの強さを視界に重ねる。
机の上から、してきてるみたいだぞ。
恐る恐る、椅子に前足を乗せ、卓上にある物体の正体を探ろうと鼻をひくつかせる。
うっ…間違いない、これの匂いだ。
すっごい甘くて、臭いぞ…何だこれ?
どうやら、倒れた瓶から零れた液体がその正体だったらしい。
同じ形をしたやつが、もう何本か置いてある。
きっと、これをTeus様は飲んでいたんだ。
わかったぞ、これ…
こんなに強烈な匂いは初めてだけど、その奥にある、鼻につく臭さは覚えてる。
長老様たちが、みんなで集まって食事をするときに呑んでいたやつだ
お酒、だな?
確かにあれを飲んだ後の人間の皆の口からは、こんな感じの匂いがしてた気がする。
あんまり好きな匂いじゃなかったけれど、楽しそうにみんな飲むし、美味しいのかな、これ?
椅子の上に飛び乗り、机に零れて干乾びた跡を、恐る恐る舐めとる。
“う゛…!?”
舌にびりびりとした感触が走る。
慌てて離すが、それは全身の毛を逆立てるのに十分な威力だった。
思わず飛び退ってしまい、椅子が倒れて体勢を崩して着地する。
こ、これって…!?
はやる動悸を抑え、急いでTeus様の元へ駆け寄り、口元に自分のそれを近づける。
やっぱりだ…同じ匂いがするぞ…。
震えが止まらない。嫌な予感は、僕の尻尾を不安に、そして頼りなく揺らす。
Teus様の唇を、同じようにしてそっと舐めてみる。
いや、触れるだけでもう十分だった。
“…!!”
まさか。
これは、不味いことになったぞ。
少なくとも、扉は閉めておいて正解だったようだ。
血を流しているでもなく、苦しんでいるでもない姿を見降ろし、呆然とその場に立ち尽くす。
たった今から、迂闊に動けなくなってしまった。
無理だ、とても僕一匹でどうにかできる問題じゃない。
“Teus様…。”
彼が死んではいないことを確かめたくて、ぎゅっと額を押し当てる。
怖くて、甲高い声が漏れた。涙腺がじわりと痛む。
そんな…どうしたら良い?
…でも、でもこのままだとTeus様の命が危ない。
信じられる人間が、一人もいないなんて。
じゃあ僕は、誰に助けを求めたら良いんだ…?
“…。”
Fenrirさんしか、いない。
あんなことがあった昼前の出来事が、どれだけ他愛もなかったか思い知らされる。
会話を思い返そうとするのも恥ずかしくて、それが僕を億劫にしてしまう前に記憶の隅に押し込めたい。
僕は全然Fenrirさんのことを酷いと思ってないし、もう会いたくないんて、きっと思ってないはずなんだ。
そして何よりFenrirさんは、Teus様のことを安心して任せられる、唯一のお友達でしょ?
…行こう、手遅れになる前に。
“待っててください、必ず助けます…。”
僕は頭の先をTeus様の胴の下に潜り込ませて、どうにか自分の背中に負うと、
足先を引き摺るのを気にする余裕も無いまま、彼の待つヴァン川に向かって這うように連れ立ったのだった。




