37.ラム酒
37. Rum
「それじゃあ…この出会いを祝して。」
控えめにグラスを合わせてそんな口上の祝辞を述べると、薄幸とはこうであるべきだと言う感じがふとする。
彼女が用意してくれた料理とは、期待したものとは違っていた。
決して悪く言おうというのではない。腕を振るうとなれば、恐らくは郷土料理の類であろうと踏んでいたのが間違いだっただけだ。
御馳走してもらうものだから、食材の足しになってくれればと差し出したものは、日常的に口にするようなものではないことは、いくら料理と無縁な自分でも否応なしに理解できた。役に立たないとまでは行かずとも、こんな時期だからこそもっと実のあるものを用意するべきと言うことだ。
そんな商人が持ち込んだ珍品を適切に、そして瞬く間に調理してみせる彼女の技は、自分にとってそれこそ魔法のようなものだった。
干し鮭は噛み千切るには甚だ固く、また味も保存が効くようにと塩辛くしてあったから、お世辞にもそれを主食とする気にはなれなかったのだが、彼女は逆にしっかりと味付けがしてあるのを活かし、それをほぐして少し薄いシチューの具材としてくれたのだ。
なるほど乳分を吸ってくれて、口触りも良くなるのか。酒のつまみだけではないのですね、これ。
しかし、自分の心に何より沁みたのは、鼻をくすぐる旨そうな匂いでも、ランプに照らされた艶のある汁でもなく、暖かい料理がそこにある、という到底一人では成し得ない実感だった。
そもそも、椅子に座って食事をしたのが、いつ以来だろうかというぐらいだ。
食卓を挟んで遅れて座る彼女を見ているだけで、吸い込まれてしまいそうな眠気に襲われる。
疲れているんだな、ここ数日は色々なことがあったから。
それがこうして気を緩められているのは、それだけリフィアさんの人柄が良いと言うことだ。
彼女がどう思っているのであれ、安心してしまう。
「どうぞ、召し上がってください。こんなものしかご用意できませんが…。」
「いえいえ、とんでもない!…ありがとうございます、いただきます。」
口元で漂った、蒸留酒のきつい甘さを指で拭って追いやる。
俺は窶れた表情を隠せずに笑って、彼女が腕を振るってくれたその料理をもう一度見つめ直した。
グラスを音を立てぬようゆっくりと卓に置き、スプーンを手に取っては光の当たり具合なんかに興味を惹かれてみる。
「ああ…私が、やりますよ!」
少し顔をしかめて腰を上げたのは、彼女が柳編みの籠からパンを取り出し、自分に切り分けようとしてくれたのに気が付いたからだ。
ここぞとばかりに、俺は食事に手を付けるのを先延ばす。
固いパンを切り分けるのは骨が折れるでしょう。刃物をお借りしても?任せてください。
そうしたら、彼女のほうも気を使って、台所でその数切れを軽く火で焙り、焼き目を付けて温めてくれる。
「私が火の番は致しますから。冷めないうちに、どうぞお先に。」
「そんな、私にもそれくらい…。」
しかしながら、立ち上がろうとするのを制されてしまい、それを断れない。
俺は精一杯言葉を選んで食い下がった。
「…料理を作ってくださる方は、いつもそんなことを言います。でも私は貴女と…リフィアさんと一緒に食事がしたいんです。ですから、今宵からは、…そうしませんか?」
自分がどこから来たのかだとか、身寄りはあるのかだとか、そんな穿鑿は一切せずに。
見ず知らずの商人を名乗る男に遅い夕食をこしらえる彼女の姿は、何故かこの上なく楽しそうで。
俺がその様子を見つめていると、それに気づいて笑うのだ。
分かっている。彼女はもう、自分のことを、テュールという男として見ていない。
「ええ…。それじゃあ、もう少し、待っていてくださいね。」
彼女はおずおずと頷くと、自分に背を向けた。
手を後ろで結んでみたり、時折宙を仰ぐような仕草でこちらに気を向けてくれているのだと教えてくれてはいたが、終ぞ焼き上がるまで、一度もこちらを振り返ってはくれなかったのだ。
「お待たせしてしまってごめんなさい…。私としたことが、パンの用意を忘れちゃうだなんて。」
「仕方ないですよ、きっとそんなこともあります。」
普段は、口にしていなかったんでしょう?困窮していた証拠だ。
とっておきの食事だっただろうに。きっと、帰ってきてくれるその人のために、食べずにずっと残しておいたんだろう。
勿論、そんな確信に近い憶測は言い出せなくて、笑ってその話題をやり過ごす。
心の底で疼く良心を掻き毟り、再び出来上がった食卓を見渡す。
ああ。これでもう、二人の間は満ちて、何一つ足りないものは無いのだろう。
「…本当に、頂いて良いんですか?」
どうしたんですか、急に。
彼女は驚いたと言うよりは、自分が不安に思っていることを推し量ろうとしているような風だった。
それで、やがてわかったように微笑むと、乾杯の後に手を付けなかったグラスを、今度は自分から手に取った。
「大丈夫ですよ。怖がらなくても。」
「…私だって、怖かったんですから。」
そんな夕食のひと時は、他愛のない会話と共に流れ、そして何事もなく終わった。
考えられる限り、幸せなそれとはこうあるべきだと思う。
良かった、彼女も元気そうだ。
「こんなに強いお酒、私飲んだことなかったんです。なんだか、とっても不思議な気分…。」
「はは…。これは凄いですね。私も、そんなにお酒に強い方ではないので…。」
海を渡ってやって来た、サトウキビから作った蒸留酒とだけしか、商品の知識を持ち合わせていなかったものだから、いざ自分が飲むとなった時に、こんな強い度数の酒だったのかと眩暈がした。
一体何が良くて、こんなにきつい思いをして喉に流し込まなくてはならないのだろう。これじゃあ何を飲んでいるかもわからないぐらいだぞ。そう訝しまずにはいいられなかったが、やがて水で割るという結論に達してからは、いくらか美味しく頂けたのだった。
しかしこれでは、せっかく作って貰った料理の味も分からなくなってしまう。持て成された側として、楽しむべきはこちらだと言うのに。
俺と彼女は、結局この癖の強い飲み物を最後に回し、互いに苦い顔を見合わせながらせめてコップに注いだ分は飲み干そうと頑張っていたのだった。
「どうか無理しないでくださいね?俺が…私が余った分飲みますから…。」
「いいえ、せっかく勇気出して飲んだんです…!ゆっくりでも頂きます。」
顔をぽっぽさせながら頑張る彼女のことを、俺は頬杖をついて眺めていた。
時折ふぅ、と息を吐いてさも辛そうにきつく目を瞑ったり、手で火照った顔を扇いだりるのがなんだか可愛らしくて、にこにこしながらそれをずっと見守っていたくなる。
肩肘を張って奮闘する必要なんてないのに、持ち込まれた手前、口に合わないと残してしまうのが申し訳ないと思っているのかな。そうだとしたら、自分もこんな酒飲めたものではないと、数口で止めてしまえば良かったなと空のグラスに残った雫を回す。
どうしよう、ここらでもう良いですよと止めようか。
あんまり無理させて、ひっくり返りでもしたら困るしな。
「はぁ…はぁ…。テュールさんっ…私、もうだめみたいです…。」
止めに入る頃合いを迷っているところで、彼女は額に手をやり、喘ぐようにしてそう報告する。
ちょうどよかった、もうここらで諦めて貰おう。
「大丈夫ですか?リフィアさん、そんなになっちゃうまで飲まなくても…。」
気分が悪くなりでもしたら、明日にも響きますし大変ですよ。
どうしてそこまでして?ひょっとして、横取りされるのが、嫌なんですか?
俺は半笑いで立ち上がり、遠ざけるようにして置かれたグラスを受け取ろうと手を伸ばす。
さあ、これを飲み干して、素敵な晩御飯を用意してくれた彼女にご馳走様を言おう。
どうかな、少しは旦那さんっぽく、いられたのかな。
わからない、けれどどうでも良いや。
彼女が願ったのは、きっと俺ではない自分との何気ない、幸せな生活の続きでしかなかったのだろうけど。
きっとそれは、愛し合った神様どうしが願う日々と、何ら変わらない。
だから今晩あったことは、求められて演じたその割には、想い人らしく胸が詰まるようだったよ。
ありがとう、リフィア。
カランッ…。
「あっ…。」
殆ど手渡されたかに思われたグラスは、途中で倒れ、僅かに残ったラム酒が強烈に甘ったるい匂いを放って机に広がる。
「リフィア? さん…?」
彼女は何も、答えない。
その代わりに、ゆっくりと机の上に突っ伏して、肩を震わせる。
「……?」
本当に、飲みすぎちゃったみたいだと、一瞬笑顔を滲ませそうになる。
けれども、そうはできなかった。
次の瞬間にはそれが、痙攣の類だと気が付いたからだ。
和やかな雰囲気とは一変して、病的なまでに机に横たえた左手を引きつらせる。
「うあっ…!?」
転がったコップを拾い上げる余裕もない。
釘付けになった彼女の異変に、寒気よりもぞわりと鳥肌が立つ。
ビクッ、ビクッと引き攣るような動きは、小刻みに収まったかと思うと、やがて体中へ伝搬していった。
な、なんだよ、これ…?そんな…。
異様に収縮する背中に、様子を見ようとした手が触れて良いのか宙を迷う。
おぞましい人間の成れの果てを見るような、そんな感想を、あろうことか彼女に対して抱いたのだ。
「う、そだ…。」
強烈な眩暈と、吐き気が同時に自分の脳髄を掴んで回す。
唾の味が、急に固まって腐ったようだ。得も言われぬほど不味い。
恐る恐る、右手で抱えた頭の感覚が、無い。
その時わかった、彼女は”当たり”を引いてしまったんだ。
もう、逃れられない。
…ああ、なんてことだ。




