36.昏睡 2
36. Coma 2
お腹、空いたなあ…。
別に当てにして遊びに来たわけでは無いのだけれど、喰いっぱぐれた帰り道ほど、どっと疲れが顕在化するものは無い。
しかしながら此処はFenrirさんの縄張りだ。流石に道中の獲物を狩るのは怒られそうだな、止めておこう。
帰ったら、長老様にお腹いっぱい食べさせて貰うんだ。
“ほんとにもう、Fenrirさんってば…。”
俯きがちに小走りで茂みを抜けると、枯れ草と落ち葉が足元で子気味良く割れる。
本気であの狼さんが僕のことを見たくもないなんて、そう受け取るつもりは無いのだけれど。
きっとFenrirさんが一番悲しみに打ちひしがれているから、ね。
でも、彼の一言はいつもよりも重く応えたのだ。
“犬じゃ、ないもん…。”
どうしてFenrirさんは僕のことを悪く言う時は、犬呼ばわりするんだろうか。
人間と一緒に生きていることの何が気に喰わないと言うのだろう?
僕が狼であると認めたがらない理由がそこにあるのか、はたまたそれが痛点であると知っているだけなのか。
いずれにせよ、止めて欲しかったな。僕だってFenrirさんに凄いと思われたくて頑張っているのに。
立ち振る舞いだって、ちょっと真似してみたんですよ。
彼の動物らしからぬ、尻尾の先まで気を使っているような勿体ぶった所作に惚れたのだ。
彼はその姿を示す時、いつも必ず立ち上がって僕に自分の側面を見せてくる。僕から見ていつも左向きだ。
自分のことを大きく見せ、獲物を威嚇する時にそうすることがあるのだけれど、前脚をこちらに向けないし、こちらを低く窺わないから、それとはちょっと違う。
Fenrirさんは僕に、その姿を如何様にも認めることを許すために、敢えて視線を伏せているのだ。代わりに、彼が向いた先にある存在を、物悲し気に見つめる。
それに見惚れてじっくり眼に焼き付ける前に、もう良いだろうか、と再びゆっくりと動き出す。
それが、物凄くかっこいいのだ。真似したくなるのも当然でしょ?
他にも、僕の話を聞いてくれているときの反応は、僕が取り入れたがる仕草の筆頭だった。彼の僕に対する大きさが、ちょうど自分に対する僕の子供たちになっているから、僕に示す優しい仕草は参考になるとさえ言えたし、やっぱり単純に羨ましい。
話を聞き終えるまでは一心に僕の方を向いて、顔色一つ変えず聞き入ってくれるのに、それが終わる途端に首を傾げて左耳を逸らし、お前を尊重すると示すと、表情を和らげて言葉を返してくれるのだ。
とまあ、挙げればきりがないんだけれど。少しでも意識していると、Fenrirさんは僕の動作から気づいてくれたりはしてないよね。
“…。”
今日の心ない言葉が、Fenrirさんへの熱を冷ますようなことはない、とは思う。
でも、このままじゃあ、駄目なんだとはわかった。
…残念ながら、僕は良い子だって皆さんからよく言われるんです。
此処は僕だって、Fenrirさんらしく落ち着いて立ち回らなくっちゃ。
決して自棄になっているわけではない。初めからそのつもりではあったのだから。
次に僕が起こすべき行動は、Teus様の家に向かうことだ。
それも、必ず本人にお会いしなきゃならない。
お家の中にTeus様がいるのは分かっているのだから、何としてでも開けて貰うぞ。
言葉を介さずとも、Fenrirさんのことを伝えるんだ。それで、Teus様がなんて思ってるのかを知ることが出来たら、きっとこの物語は展開する。
思うに、Fenrirさんの憶測は、ある一点を除いて間違ってる。
Freyaさんという人物が関わっているのは確かなのだろう。けれど、僕がTeus様にめちゃくちゃにお腹をなでなでして貰ったり、ぎゅってしてくれたりしたどの時も、Teus様が、その方と一緒にいた匂いを嗅いだことが無いんだ。この僕が、別の人の臭いが分からない訳無い。
だからきっと、何か誤解があるに違いないと、僕は踏んでいる。あとはその答え合わせをするだけで、きっとそれは解けるんだ。
FenrirさんとTeus様の板挟みというか、間柄を取り持つと言うか、損な役回りをさせられてしまった訳だけれど、僕はこういう事件のために奔走するの、けっこう好きなんです。
なんだか、人間ではない自分だからこそ出来ることは、自分をより特別な存在にしてくれたからだ。
命令されて何かをするのが犬らしいと言うのなら、僕は僕のやり方でそれに反駁してみます。
それから、これは僕の勝手な物言い何ですけど。
願わくば、僕はお二方が心の底からいがみ合っているのを、側であたふたしながら聞いていたいな。
“でも、流石に腹ごしらえが先かなあ…。”
辛うじてお腹は鳴ってないけれど、そろそろガス欠だ。ヴァン川を目前にというところで、ほっとする。
走っている最中であっても、空腹を覚えるあまり、お腹に空気しか入っておらず、ぽこぽこと揺れている感じがしていた。これでは全然集中できないぞ。
うん、一度長老様の元へ戻るのが先かな。腹が減っては狩りは出来ぬって言うしね。
それに、珍しく早帰りだからって、お嫁さんも子供たちもきっと喜んじゃうなあ。久しぶりに、一緒に過ごせる時間がたっぷりあるのは、それはそれで魅力的なことだった。
…やっぱり、いつも僕が帰ってくる時間までは、今日はゆっくりしちゃおうかな。
Teus様のお家へ伺うのは夕方で良いや。たまには、お仕事さぼっちゃっても良いよね?
このまま赴いてもあれだし、一応は嫌なことがあったのだ。
良い気分転換になる。もっと前向きに、これは休暇だと、思うことにしよう。
そうせざるを得ないほど鬱屈していた訳ではないけれど、僕は直感的にこの判断が正しいことを理解した。
仮に今、Teus様がFreyaさんと一緒に過ごしてたとしよう。
Teus様のお家を訪ねたとして、そこにいないならそれで良い。
きっとFreyaさんと言う人のお家にいるのだろうし、残念ながら僕はその家を知らない。探すだけ無駄と言うものだろう。問題なのは、Teus様のお家に二人がいる場合だ。
Teus様は、Freyaさんに僕のことをなんて説明する?あの方に仕えている以上、不都合極まりない場面に自分を登場させるのは、気が引ける云々の前に、まずやってはならないことだった。
仮にも、Fenrirさんと会う暇がないのだから、きっと僕と会う気もさして無いのだろう。意中の相手との大事な時間だ、あっちへ行けと追い払われて終わる。印象の悪いままに、自分はそれに従わざるを得ない。
僕は、あの人に必ず会わなくてはならない以上に、あの人に話を聞いてもらわなくちゃならないんだ。
疎らになっていく樹林を抜けて帰投すると、ちょうど昼休憩を終えた村人たちが出てくるところだった。
すれ違う人達をびっくりさせないよう、出来るだけ距離を置きながら大きな通りの端に沿って歩く。
犬呼ばわりされているので、僕は簡単に全身をなでなで出来るような大きさだと思われているかもしれないけれど、後ろ足で頑張って立ち上がると、実は普通の人間よりも、僕の方がちょっと大きい。
ああ、長老様のところの、あの評判高い狼かと皆知っているので、とやかく言われることは無いにしても、こうして野良犬よろしく歩き回っているだけでも結構目立つのか、割と視線を感じるのだ。
こうなると、益々動きずらいなあ。あまりおおっぴろげにTeus様にお仕えしていることを悟られないようにと、言いつけられているから。
…だから、ここはいったん出直そうか。
念のために、様子だけ見てみようかと向けかけた脚を宙に浮かせて思いとどまると、僕は最初の決意の通り、踵を返して、足取りもどこか軽く、家族の待つ長老様のお屋敷へと戻って行ったのだった。
それが、あの方を此処まで追い詰めることになってしまうだなんて。
逆説的に、最善の選択であったと後悔したのは、言うまでもない。




