36.昏睡 1
36. Coma
昼寝の真最中であったと相手に示したい一方で、俺は自分が眠っている姿を見て欲しくは無いとも思っている。
彼らがどのような感情で俺の寝顔を眺めるのか、想像するだけでも恐ろしいし、その最中で仮に目を醒ましてしまったならば、そこには腹の内を垣間見てしまったような、なんともぎこちない空気が流れるからだ。
お前は狸のように寝入っていたのかという不信感、あちらこそ自分を窺っていたのではという疑念が、無垢に寝ぼけ眼をして見せる表情を刺す。
だから、俺はあいつに歓迎の意を全身で示さぬよう、お前が来なかったならば、延々と惰眠を貪り続けていたであろうと言いたげに、それでいてなるべく素早く身を起こすのだった。
それがもうすぐであることは、耳で捕えずとも気がついていた。
思うに、彼の生活は仲間と共にあるが故に規則正しい。想像に過ぎないが、うんうん唸りながら気怠い朝を乗り越える奴とは違って、私用をきちんと済ませてから自分の元へ赴くのだろう。昼時のよりも前に、彼とは少し違う道のりでやってくる。
それはやりやすくもあって、楽しみと履き違える不安が無いとも言えた。
いいや、そんな言い方は贅沢だ。あいつが来てくれると言うのだから。
とは言え、こちらも準備が捗るのは間違いなく有難い。
そろそろ林檎の実の生る場所を探すのにも苦労し始めたところだったから、今朝は起き抜けにまだ暗い森の中を走り回ってきた。
決して寝覚めの良い狼ではなかったが、一段と寒気を纏った空気を吸いたく思い立ったのだ。
嫌な夢を見てしまったから、というのもあったはずなのだが、生憎その話を覚えていない。
とにかく、彼の好物とやらがまだこの森に残っているのなら、まだ来てくれる理由が残ることになるんじゃないかと、俺は馬鹿らしく必死だったのだ。
もちろん、肉だって用意してあるし、また焼き芋だって作ってやるぞ。狩りに誘う勇気は二度と無かったが、甘いものは大歓迎だろう。
両前脚の間に鼻面を挟み込み、眠い目をそうするように髭の生え際を擦る。
最近になって、自分の毛皮の厚みが増した。そのせいで、こうしたちょっとした仕草の感覚までもが変わるようになってきて、そうした季節の変わり目の感じ方もあったかと気づかされる。
身体を丸め、ぴったりとその冬毛に埋もれていると、その暖かさは抜群で、思わず昼寝も長引いてしまうほどだ。何と言っても自慢の毛皮だからな、立派にそれを纏えることは、冬の訪れを待ちわびる理由の一つでもあった。
とは言え、今日は幾分か暖かい。今朝の散策では感じなかった陽射しが、昼寝をより一層質の悪いものにする。小春日和であるとは、どこか安堵のような響きがあるが、これが春であったならば、俺はたちまち眩暈を覚えて、洞穴の中へと逃げ込んだことだろう。まだ冬であってくれと、寝言を呻きながら。
そうせずにいられるからこそ、束の間の平穏を心から楽しめると言うものだ。横たえていた身体を労りながら、俺は笑って季節の錯誤を受け流せる。
陽だまりで温められた毛先はなんだか痒く、何度か顔を引っ張ることを繰り返していると、毛皮に埋もれて黒い線になってしまっていた目が、段々と開いてくる。
身を伏せるのを止め、立ち上がるとしようか。
ちょうど、頃合いのようだからな。
“…Fenrirさん、こんにちは!”
「おお…。おはよう、Ska。」
ああ、間違えたなと口を噤む素振りを俺は忘れない。
“もうお昼ですよ…。すみません、起こしてしまいましたか?”
“そのようだ。しかし構わないぞ。”
“えへへ…。僕、また来ちゃいました。”
“ふん…。”
いつも通りのやり取りだ。それなのに、何故かこいつは嬉しそうな顔をする。
俺はそれには答えず、ちらと森の奥の闇へと目をやる。
“つまり、あいつは今日も来ないと言うのだな。”
言葉に棘を含んだことを謝りたい。しゅんとした表情を見るのは予想より応えた。
“はい…そうみたいです。”
尾を垂れて、そのように同情を代弁してくれるのは、本当にありがたく思う。
何でもないようにしているのは声だけで、自分自身が狼狽えずにいるのがやっとであることを、Skaは内心感じ取ってくれているからだろうか。
少なくとも不憫ぐらいには思われているのは確かだった。
もしかすると、彼が俺の元へ足を運び続ける理由の一つに、そうしたものがあるのかも知れない。
Teusは俺をこの狼犬と引き合わせた日を皮切りに、忽然と姿を現さなくなった。
始めこそ、俺の話し相手を増やすなどという、余計な思い付きを実行に移しやがったのだと思っていた。
自分の代わりだと伝えてこいつを俺のもとへ赴かせる任務の内容も、全て彼が直接話をすれば済むような取るに足らないものだったから、わざわざそうする理由を設ける口実に過ぎないのだ、と。
長い道のりを走らずに済むことはあっても、それ以上に彼があの村に留まる理由もない。
しかし、既に彼が警告した、あの‘ヘンキャクキゲン’から、裕に1週間が過ぎている。
穏やかではない読書が好きだったから、感情を揺さぶられる恐怖を乗り越えるのはとても勇気がいるものだ。それでも俺は、そのように告げられてはたまらなく名残惜しくなって、もう一度借りた本を読み直す。気分が脆くなるのを感じながらも、彼と話すころには立ち直ることが出来ているだろうと信じて。
こうして二度と読むこともないだろう物語に出会えるのも、全てあいつのお陰なのだ。
それが今回は、一度や二度では効かないぐらいに主人公の足跡を追うことが出来たのだ。
季節にしてみれば、既に冬を超えたような気でさえいる。
ちょうどそのような話だったのだ。
Skaのような風貌を備えた犬を連れて、飼い主が1月ほどの旅行に赴く。
羨ましい想像に浸ることのできる、悪くない設定だった。こいつが何を考えているかを知る手掛かりにもなったと思うし、もし自分の図体が怪物的でなかったならばと傷ついて満足も出来たから。
言うまでもなく、この話を手に取ったのは彼と出逢う前だ。偶然に感謝するよりも、Teusは俺の何を知っているのかと心底驚いたのを覚えている。
あいつが題名だけで心情を盗み見たであろう、前の図書館への来訪からどれだけの日にちが経ったかを数えてはいないが、彼が猶予のぎりぎりまで俺に本を読ませようとしてくれているのは知っていたから、恐らくは今までよりもその期間はだいぶ長い。
“Teus様、どうしちゃったんでしょう?”
“さあな…。”
不安げにSkaが呟き、俺はそのお陰で平静を保つ。
俺ができる推論とは、彼が何らかの理由で意図的に延滞を生じさせている、と言うことぐらいだ。
いや、そんな遠回しにすることも無いだろう。馬鹿らしい話だがな。
それは何故だろう、考えたくもないが、話題はそのようにしか進みそうにない。
“Teus様、最近は顔すら見せてくれなくなっちゃって…。”
“お前にも会う気が無い、というのは随分舐めた態度だな。”
今度あいつに会うことがあったなら、少し痛い目を見て貰う必要があるな。
軽く噛みついてやるまで行かなくとも、前脚で地面に叩き伏せるぐらいのことはしても足りない。
話によると、SkaはTeusの家を一度訪ねて命令を聞いてから、こちらの森へ出動することになっているらしい。今日は用事が無いから、ゆっくりしていて良いよとそのまま戻る日もあれば、あいつの言伝を預かって一走りさせられる時もあると言う訳だ。
“はじめは、僕が帰ってTeus様のお家まで報告に行けば、いっぱい褒めてくれて中々返してくれないくらいだったんです。”
それが今は、あいつの家の前で吠えても返事の一つすらよこさないと言う。
俺はお前の耳を信用している。居留守を使われているのなら、本当だろう。
彼が口にする不安を聞いていると、Teusには心配よりもこいつを杜撰に巻き込んだ怒りのようなものさえ湧いてくる次第だった。
だが、それ自体が妙なのだ。不都合なことに、そのような物語ではあってはならない。
それに、あいつが蒔いた種を投げ出す筈がない。少なくとも、Skaに関しては責任があることは自覚して貰えているとこちらは了解しているからこそ、俺はこいつの来訪を歓迎していると言うのに。
ありがとう。まあ、だいたい状況は分かったよ。
彼は分かる範囲での報告を終えてくれると、すっかりしょげ返った様子で耳の先を崩す。
それが可哀想でならない。
しかし、俺に正しく言葉をかけられる自身もまた無いのだった。
“僕もう…お役御免、なんでしょうか?”
そんなことを考えていたのか。
とことんお前は主人に従順だな。
“…そうかもな。”
“ごめんなさい。”
俺が一応の同意を示すと、彼はなんと謝った。
“そう思うのなら、じゃあなんで来るのだ。”
“え…?それは…。”
びくっと反応すると、恐る恐る俺のことを見上げる。
“それは、僕がFenrirさんに会いたいからです。”
“…そうかい。”
それが彼なりに言いつけを守っているだけなのであれば、俺はSkaに本当にもう来なくて良いと言い放つつもりだったのだが。代わりに来てやっているのだと言うつもりが無いのなら、俺には拒む理由が無かった。
“しかし、お前が用済みであると考えるのは間違いだ。何故なら、思うにあいつが興味を失ったのはお前ではなく、この俺なのだからな。”
“そう、でしょうか…?”
同意し難いだけあって、Skaはそのように返す。
“Teus様、Fenrirさんのこと凄く心配されてましたよ?本当なら自分が行かなくちゃならないのにって…。”
それが急に、どうでも良くなるようなことなど有り得ないと言うのだ。
あいつが何と言及していたのかは気になるところだが、実際こうして俺達は放っておかれているのだから、彼の中で心境に変化があったのは否定の仕様がない。
それを紐解こうとは、思わない。
問題なのは、どうして俺に会いたがらないのか、だ。
確証はあった。それだけに厄介だった。
“お前、あいつのいる村に住んでおきながら、そう言う話は聞かぬのか?”
“そうですね…Teus様と行動を共にしている訳ではないので。”
だとしてもだ、何かあるだろ?
“そう言われましても、いつものTeus様、と言うのはFenrirさんにしか分からないんじゃないかと思います。”
俺だって、あいつとの付き合いはそんなに長くは無いが…。
“でもそれって、Teus様に何か心当たりがあるってことですよね!教えてください、何があったんですか?”
“…。”
俺が答え倦ねているのを、余程深刻な事態だと受け取ったらしい。Skaは勇気を奮って立ち上がると、あろうことか俺に向かって一つ吠えた。
“お願いです、Fenrirさん!僕、Teus様のことが本当に心配なんです!”
“うるさいっ!”
眉間に皺を寄せると、彼は忽ち黙り込んで尾を股下に挟み込んだ。
しまった、苛立つあまりつい…。
“ご、ごめんなさい…。”
萎縮させるような真似をしたことを心の底で詫び、ゆっくりと話すことでなんとか語気を弱めようとする。
“お、お前が気にかけるような大ごとではない、というだけだ…。”
“あいつに、俺以上に大切な存在が出来た。”
ああ、それだけのことだ。
“…?”
彼の目線を、俺は合わせない。
自分の面目をこいつが気にしているのなら、俺は少しでも気にしていなよう振舞わなくてはならなかった。
さもどうでも良いように言って見せたつもりだが、はてさてどうだろうか。
予感は成就した、と言うことになる。
俺がTeusを連れ立って森中を闊歩した、あの旅の序章で姿を現した、あの女。
名前は確か…。
“Freyaさん、ですか?”
“聞かぬ名であるか。”
Skaは利口そうな表情で少し首を傾げると、やがて心当たりがないと仕草で示す。
まあ良い。俺だって知らぬわ。
とにかく、彼女はどうやらTeusに心を許したらしいのだ。
きっとTeusは、俺と共にした旅の果てに手に入れた幸せの絶頂にあるのだろうと、経験の乏しい俺は想像をする。あいつが思い詰めるぐらいだ。きっと破局は耐え難いものだったに違いない。
それを乗り越えて、新たに二人で歩む道に、俺は必要ではない、と言うことを、最も分かりやすい方法で彼は示したのだ。
一度、何の気なしに持ち掛けた彼女に関する話題に、あいつは憎たらしいまでに酷く狼狽えたな。
口論に持ち込んでは勝手に僻むほどだった。
当然、あの喧嘩に非があるのは俺の方であったから、それを悪いことだと抜かすつもりは毛頭ない。
彼女が大切な存在であると危惧するには十分だったとだけ、言っておこう。
それが弄り倒されるのが堪らなく嫌だ、と言うのなら俺はそれを尊重するし、そうでなくとも心から祝福したいと思っている。
付き合う相手は選んだ方が良いからな。
こんな怪物と戯れるなど、まともな人間がすることではない。
ああ、そうだとも。化け物の劣等感を、どうか笑うが良い。
“そ、それじゃあTeus様は、そのFreyaさんという方に夢中で…?”
“ああ、そうだと言ったつもりだが?”
やめろ、こいつに食って掛ってどうする。
“まあ、仕方のないことだ。俺からどうこう言えるようなことではない。あいつがそのつもりなら、俺は粛々と受け入れるだけだ。”
込み上げてくるのは、怒りに似ているようで、訳の分からない嫉妬ばかりだ。
それをこいつにだけはぶつけぬよう、語尾のその端で吐き捨てる。
鼻を鳴らして、身体を丸め込んで組んだ前脚に顎を乗せる。
“俺が知ったことではない。”
そう、あいつと愛しの彼女のことなど、どうでも良いのだ。違うか?
Skaは難しい話を飲み込めずにいるような表情をしていたが、やがてまた口答えをしようと顔を上げた。
“でも、それって…。”
何か面倒なことを言いたげだな。
“それって、おかしいです。僕にだって、お嫁さんはいますし、仲間の狼もいます。確かに、僕にはお嫁さんが大好きで、一番大切ですけれど…それでも家族のように思っている狼を放っておいた入りしない。”
“それは律儀なことだ。だが人間もそうであると、何故言える?”
“僕のまわりの皆さんは、優しい方ばかりです…。”
“あいつは、あの村の出身じゃないだろ。飼い主にそれぐらい言われていないのか。”
“そ、それは…。”
“でも、僕そのFreyaさんて人知らないです。ほとんど毎日Teus様の家に窺ってるのに、見たことないですよ?お家にいる時も一人でいるようですし…。”
“じゃあ、そっちの家に転がり込んでるんだろ。復縁した途端に大胆だな、あいつも。”
“復縁?どういうことですか?”
“俺に聞くな。お前の愛しのTeus様は大層おモテになるんだよ。”
笑い方が皮肉たっぷりで、我ながら嫌気が差す。
“わ、分からないです…僕。”
“Teus様がFreyaさんといる時間がいくら幸せでも…。それはFenrirさんに会いたくない理由にはならないと、思います。何か、一言でも言ってくれても良いのに、なんで…?”
“…。”
それは、それは俺にも分からない。
“何か理由があるんでしょうか?Fenrirさんと一緒にいてはいけない理由が…。そんなことないですよね?”
俺が、先までとは違う黙り方をしたので、Skaも耳の間隔を広げて、しまったと言う顔をする。
それは、恐らくは核心であるな。お前は頭が良い。少なくともTeusよりは。
だが、俺の気を使いたいならそれ以上は口を噤むべきだ。優秀なお前なら理解できると期待しているぞ?
秋風は冷たいな。毛皮が揺れるのがなんとも心地よい。
Skaも立派な毛皮を首の周りに蓄え始めていた。同じ血を引くものどうし、という訳だな。
Teusはこいつが俺にそっくりだと言うが、果たしてそうだろうか。
俺が、こいつのような大きさに留まっていたなら。それが、違いだと言うのに。
それも怪しいか。こんな結末を迎えてはな。
怪物の威圧すら乗り越え、小さな現身とやらが勇気を振り絞ったのは、そんな言葉がためだった。
“ぼ、僕…どうしたら良いんでしょう?”
お前がどうか、だと?
“…。”
俺であってもどうしたら良いか分からぬと言うのに、こいつは。
俺の威風など、疾うに崩れていたのだろう。内心では俺が取り乱しそうである様を笑っているのかもな。
ここぞとばかりに、その一言は俺を都合よく意地悪い狼にさせた。
揚げ足取りも良いところだ。自分に出来ることはないかと言っているだけなのに、俺はそれがまるで自分のこと自体はどうでも良いと示しているように曲解したがったのだ。
何でも良いから、こいつを非難する口実が欲しいぞ、と。
俺はわざとらしく目を瞑って、頭痛を堪えるように思案すると、やがて呻くように、一つの答えを示した。
“…そうだな、帰ってくれるか?”
“…え?”
聞こえなかったか?絶望に打ちひしがれたような顔をしやがって。
“立ち去れ、Teusの遣い犬よ。”
そう言い放ってやると、彼はぽかんと口を開けてしまった。
もう一度言ってやろうか?いいや、何度でも答えは変わらぬぞ?
心にもないことを言っても許されるときがあるのだとは思わない。
しかし、今はお前をあやすような気分じゃないんだ。そんな余裕はない。
“あいつが俺にそうしたように、俺を放っておけと言ったのだ!”
“…っ。”
唸り声に気圧され、思わず立ち上がって顔を低く下げる。
それで許してもらえると思っているのかは知らないが、そもそもこちらはお前を負かそうなどと考えておらぬ。
ただ、俺がお前を用済みだと言って満足してしまう前に、俺の眼の前から姿を消して欲しいのだ。
それも、今だけ。今だけで良い。
気持ちの整理が済んだら、またお前を迎えることができるだろう。
また来てくれるなんて、虫の良いことがある訳がないのに。
今だけは、一匹にして欲しいだなんて。
ああ、どうだ。どうか食い下がってはくれぬか。
“…分かりました。”
“…そうか。”
彼はもう一度だけ俺に媚びるような目つきで尊重の意を示して見せたが、俺はそれを冷たくあしらう。
“さようなら。Fenrirさん。”
“…。”
ああ、また来い。
そう呟きそうになったほど。
あいつはしつこく俺のもとを訪れていたのだった。




