35.貴方の毒で 2
35. Of Your Venom
「大丈夫ですよ、これぐらいの傷。四肢が繋がっているだけ、私は幸運だ。」
マントを脱ぎ、肩に積もっていた雪屑を払っていると、露わになった腹部の汚れへ吸い寄せられた眼差しに、俺は笑顔で心配ないと伝える。
「そんな、すぐに取り換えないと…。」
包帯から染み出した、変色した血の部分を指で確かめると、まだ湿っていて触りがたい。
「そうですね…。すみません、お湯を頂いても良いでしょうか?」
「すぐに用意します!」
彼女は、急いで自分のことを部屋の中へと案内すると、俺が休めるように、彼女が羽織っていたと思しき上着の掛かった椅子に座らせてくれた。
「ありがとうございます…。」
良い人だなあ。負傷した自分のことをとても気遣ってくれる。
平和な毎日を過ごして来なかったのだろうとは想像できたが、こんな容態の人間に対して、一体どうしてあげれば良いのか分からないのが普通だと思う。
突然倒れたりした人に対して、驚き慄いてしまって、まずそもそも声を掛けることのできる人間の方が圧倒的に少ないのだ。そのような経験もなければ無理もない。だからこそ、そうした備えのある彼女は動揺こそしても毅然としていて、本当に心強い。
上裸になるには流石に腹部が痛むので、無理な姿勢は取らずにシャツを捲って包帯を外す。
彼女に傷を晒さぬよう、膿をお湯で濡らした布で軽く拭き取ると、なけなしの包帯を使い切って応急処置を済ませた。
その様子を不安げに見守る彼女に、何か伝えておかなくてはと、考えていた言い訳を話の種に口にする。
「こう見えて一時は、傭兵をやっていたこともあるんです。人生何が起こるか分からないですね、こんな所で役に立つだなんて。」
自分だけが生き残ることが出来たのには、そういう理由があったのだ。
嘗ては戦場を駆け巡っていたというのも、嘘ではない。
痛みにもさして動じずにいられるのは、決して彼女のために気張っているからという訳でもない。
もっと酷い傷に苦しめられ、死の淵を鎖につながれて歩かされたことだってあるのだから。
「まあ、そうだったのですね…。」
兵士、という言葉に彼女は僅かに反応を示したが、とにかく無事で良かったですと、自分の旅路を守ってくれたであろう、聞いたこともない神の名を呟いた。
ふうん、こうして俺の名も、戦場の何処かで、呟かれていたりするのかな。
その地に根差した神様には理解がないのが行商人であるとはいえ、郷に入っては郷に従うのが常だ。
自分もそれに倣って感謝の意を述べると、少し傷の痛みが和らいだような気がした。
「そう言えば、テュールさんのお名前って…。」
目を伏せかけていた彼女は、少し首を傾げて、やはり最初から気になっていたであろうことを俺に訪ねた。
やっぱり来るか。まあ、仕方がないよな。
不意にちくりと傷んだ内心を誤魔化すように苦笑すると、実はそうなんですと弱みを切り出した。
「ええ…よく言われます。軍神だなんて、大層な名前を貰っちゃいましたよね…。名前だけで傭兵やっていたと言っても過言ではないんです。」
俺はさぞ不本意で他人事のように頭の後ろに手をやって笑った。
良い笑い話だ。この時だけは、隠さず本名を名乗っておいて良かったと思う。
「素晴らしいお名前だと思います。」
「いやいや、名前負けも甚だしい。きっと当の本人は、こんな奴に名前を当てられて、相当な不名誉を喰っていると思います。とんだ無礼者だってね。」
「そうですか?私はそうは思いませんけど…。」
「とにかく、私は武人から足を洗ったんです!もうその名を誇る理由もありませんよ。」
俺はその話題を早々に切り上げたくて、半ば強引に自虐して見せると、傷の様子を確かめる素振りを見せて、それ以上の穿鑿から弱々しく逃げ出した。
手当ても終わってひと段落すると、互いが相手のいる世界を具に観察する余裕が生まれて、会話は途切れた。
目の前には、ランプが置かれていたであろう丸机と、それを挟んで向こうにも、もう一つの席が用意してある。
本来、自分がそちらに座るべきだったんじゃないかな。
揺らめく暖炉の炎に近づきたい欲望に駆られながら、椅子で縮こまっていた俺は、ふとそんなことを思った。
座った時には、僅かに温かみを感じていたし、彼女は何故か背もたれにかけた上着を引き取らなかったからだ。
けれども、卓上にある縫い物と毛糸が入った籠は、向こうの机へと寄せられていたのだった。それが示すことは変だとは思わなかったけれど、或いは、普段はこちらに座っていなかったのかも知れない。
「リフィアさんは…こちらの住まいに、お一人で…?」
「…。」
お湯を汲んでくれた桶と綺麗なタオルを片付けて貰っているところで、俺は魔が差したように彼女に尋ねた。
彼女が口を結んだ直後にそれは失言だと気が付いた。当たり前だ、世間話にしては、相手の間合いに迫り過ぎている。不穏な日々に幸せを見出すのは、こうも難しいのだ。
それを承知で、敢えて切り出してみたのかもしれない。愚かにも、自分に対する悪口が少しは聞けるかもしれないと期待したからだ。
「うふふ…。おかしな人。」
「…?」
彼女は肩をすくめ、想定に反して、笑った。
濡れた手を前掛けで拭き、自分の目の前に座って、ほっとしたように溜め息を吐く。
屈託のない、寂しい笑顔だった。
「不思議だったでしょう?こんな寂れたお家にだけ、煌々と明かりが灯っているだなんて。」
まるで聞いてくれる人をずっと待っていたかのように、彼女は俺に喋りたがっているようだった。
「ええ…まあ…。」
実際、自分はそれに吸い寄せられたのだから、否定のしようがない。
「ご近所さんは不用心だから止めておけって言うんですけど、別に良いんです。泥棒が来たって、この家にはお金になりそうなものなんて何も無いし…。」
そうだろうか、このご時世にしては、驚くほどに何でも揃っているように見えるけれど。
もしも俺が大胆な盗人だったなら、堂々と家へあがり込んだ上で、好きなものを悠々と物色しているところだ。きっと夢中で、彼女の話など碌に聞いていない。
そうでないだけ、自分はまともと言えるだろうか。
「それに、いるのは私ひとりですもの。」
「…。」
そして更に、卑劣で狡猾だったなら。ここで何をしでかすかは容易に想像できるほどだった。
いや、卑劣だったから、俺はそうと知って、この家だと決めたのだ。
喩えどんな家であろうと、いるのは非力な女子供だけなのだから。
傲慢なことに、自分を脅かすに足る男どもは、兵士に駆り出されて枯れていると、頭の中では冷たく安堵している。
「あのね、出来るだけ、眠るまでは明かりは灯しておくようにしてるんです。」
彼女の言葉に苛まれていた俺は、はっとして自分の表情を確かめる。
暗い顔を、していなかっただろうか。嫌いなのに。
「それは…どうして、ですか?」
続けて貰えるよう促すと、声が上手く出なかった。
もしかすると、自分は黙りこくっていたのかもしれない。
けれども彼女は特に訝しんだ様子もなく、やはり静かな笑みを湛えたまま話す。
「できるだけ、普段通りの生活をしていた方が、良いと思うんです。」
こんな時ですから、それって贅沢なぐらいの暮らしになっちゃいます。明かりに使う油だって、もうあんまり残っていません。食料だって、私そんなに食べないからなんとかやって行けてますけど、もし…。
そこで彼女は一度口を噤み、おかしな人は、自分かも知れませんねとやはり笑う。
「でもね、できるだけその時のことを忘れずにいたいなって。」
「だってね、もしあの人が帰って来た時に、明かりが灯いてないと、私がいるって分からないでしょ…?」
「…。」
その夢を見るような目に耐えられず、俺は視線を落とす。
飲み込む唾もなくて、一切の気を逸らす動作が間に合わない。
「ずっと、待ってるんです。…もしかしたら、こんな寒い夜の日に、扉を叩いてくれるんじゃないかって、思ってしまうんです。」
「…。」
得体の知れない誘惑に負け、俺は彼女が今どんな表情をしているのかが知りたくて、顔を上げてしまった。
「そうしたら、貴方が来た。」
彼女は表情を変えず、俺に微笑んで見せたけれど、
その眼差しは、暖炉の火で揺らめいて、妖艶に自分を誘惑して見せた。
まるで、吸い寄せられるようにこの家に訪れてしまったことが、名も知らぬ神の思し召しであるかのように、恐ろしい寒気が鳥肌を立たせる。
本気でこの家の扉を叩いたことを後悔した程だ。
そう言って、彼女は、ありえない言葉を口にしたのだった。
「…いいえ、貴方のような人だったら、私は神様が来てくださったと思っても驚きませんよ。」
…俺は、彼女のことを、知っているだろうか。
何処かで、貴女に、会っただろうか。
或いは、俺が知らないだけで、彼女も人間の皮を被っただけの存在なのか。
疾うに見破られているのに、気付いていないだけなのかも。
そうでなければ、そんな言葉は簡単には出てこないからだ。
俺が、神様だなんて。
きっと、呆気に取られていたに違いない。
それは、彼女の言っていることが信じ難いほど、突拍子もないからだと思われているに違いないと、そう言える確証が持てぬほどに、俺は動揺を隠せなかった。
思わず口を開いて、打ち明けてしまいそうになる。
彼女の名前を、呼んでしまいそうになる。
ああ、貴女の名前を。
俺は知っている気がするから。
「…やだ、私ったら失礼なことを。今のはどうか忘れてくださいね、テュールさん。」
「…。」
喉元まで出かかった言葉をどうにか飲み込む。
それは、もし俺が本当に彼女の望む存在だったなら、絶対にあってはならないことだった。
世界の交わりは、常に必ずそこから綻びるのだから。
「ああ…。いえ…。」
頬を紅潮させて無垢に恥ずかしがる彼女のことを、俺は固い表情を崩せぬまま笑った。
俺に対して期待していた何かに、気が付かない道化の振りをするので精一杯だったからだ。
そう、俺は本当に来る家を間違ってしまったのだと後悔した。
彼女が待ち望んでいた人間とは、余りにも程遠い。
まるで恋人たちが、折角二人で作りあげた談笑の間に感じた冷めた空気を嫌がるように俺と彼女は物語の展開を同時に望んだ。
「あの、ですからどうかテュールさんのことを歓迎させてください…!
さぞかし大変な目にあったのだと思います。きっとお疲れでしょう?お食事、用意しますね…。」
「え…?ええ…そんな…。悪いですよ。」
「良いんです。私の料理の腕も、鈍ってしまいますから、たまには誰かのために作らせてください。少しでも傷を癒すためにも、今晩はゆっくり休んでくださいね。」
「…すみません。」
ぎこちないな。これじゃあ、彼女の望む関係とは遠く及ばずと言ったところか。
「じゃあ、せめて…!」
それで俺は、自分が身を窶していた役割のことを思いだして、椅子に立てかけていた荷袋に手を駆けたのだった。
「せめて、これぐらいのお返しはさせて下さい。」
祈りを込めて、震えた手で、机の上に置いた荷包みを恭しく開く。
俺は曲がりなりにも、そのために来たんだから。
「まあ…!」
「…ぜひ、使ってください。」
持ち出したのは、港で仕入れたとされる干し鮭が丸々一尾と、一瓶ばかりの葡萄酒だった。
「ここらでは、余り口にしないものかもしれません。が、味は保証しますよ。」
「こんなに良いもの、頂けませんわ…。」
こんな雪国に留まっていてはまず手に入らない高級品だ。自分がお目にかかることすらない、貴族が挙って欲しがると言うのも頷ける。用意していた商品の中でも高値で取引されるだけあって、荷車に置き去りにした残りが惜しい。両手に抱えられるだけのこいつらで精一杯だったのだ。
まあ、彼らには、これが金目になるかとかはどうでも良くて、口にできるものだと言うだけで奪う理由になったのだけれど。
「本当は、もっと沢山仕入れておいたんですけどね。こればっかりは仕方がない、命には代えられませんから。」
あの時だけは、狼の群れに襲われた方がまだ良かったと思った。
全部を欲しがって、尚身包みを剥ごうとする貪欲な人間とは違って、彼らは仲間を養うだけの食糧を差し出しさえすれば、敬意を以て侵入者を見逃してくれただろう。無用な殺生を、こちらもせずに済む。
「ですが、これはテュールさんの大事な…。」
「良いんです、どうせ買い手もつかないでしょう。大した儲けにならないなら飢えを満たすのに使います。
それに、先ほど言った通りです。これは宿代だと思って、こんな私を家に入れてくれたお礼だと思って、受け取ってくれませんか?」
実際に、彼女には心から感謝しているし、出来ることならこうして出逢わなければ良かったとさえ思っているぐらいなのだ。
「ええ、お察しの通りです。…行く当てはありません。しかしそれが行商人と言うものです。行く先は、モノが決める。自ずと決まる…なんて、駆け出しの私が言っても格好つかないかな。」
行く当てがない、とはっきりと言ったのは、彼女に勘違いをさせるためだった。
口説くなんてとんでもない。先に言った通りだ。
でも、そうでもしないと、受け取って貰えないとも思ったのだ。
俺は、上がり込んだ立場でありながら、客人のように振舞って微笑む。
「私、料理の仕方を全く知らないんです。リフィアさん。」




