35.貴方の毒で 1
35. Of Your Venom
暗がりの中であっても、ちらつく粉雪が冬の訪れを静かに告げていた。
震える白い息を恨めし気に睨み、外套を肩にきつく巻き付ける。
寒いのは嫌いだった。早いところ宿を見つけなくては。
ようやく辿り着いた城下町の膝元は、検問の類が敷かれていない様子を見る限り、籠城を決め込んだ都心に見捨てられ、その守りから疾うに締め出されてしまったらしい。
ぼんやりと山の影のように映るあれが、マールボロ公の治めるウルヴェンワルド城郡だろう。
あの尖塔、まるで獄庫だな。趣味が合わないのは良いことだったけれど。
…それにしても、この寒気は拭い難い。
街道に人気の一切は絶え、家屋の中に灯りを見出すことにも難儀しているところだ。
それもそのはず。戦争に振り回される国民たちは、こうして困窮した日々をひっそりと耐える他無い。
窓の類は板で塞がれ、明かりにはランプに布を垂らして光を抑えてある。そうして人が住まぬよう繕わなくては、夜盗に物資を奪ってくれと誘っているようなもの。このご時世、生きるために手段を択ばない者たちから身を守るための処世術という訳だ。
当然、そんな状況だから宿屋なんて営業している筈もない。看板こそ取り払われていたが、それらしい家屋の扉をもう何件も戸を叩いていると言うのに、返事の一つだって得られずにいる。
ここも、駄目か。話し声は、聞こえていたのだけれど。
呆然と暫くその場に立ち尽くしては、また旅馬に跨りのろのろと歩み続ける。
そんなことを、俺は眠気が襲うまで繰り返していたのだった。
「ごめんください…。」
掠れた声をせめて張り上げ、悴んだ拳を痛いと弱めてぶつける。
手袋の一つだって用意しておくのだった。冬支度も碌にしなかった自分を逆恨む。
でも、こんなに寒いだなんて聞いていなかったのだ。
…この家が駄目なら、諦めて今晩は命懸けの野宿を決め込むことにしよう。
そうであれと願って叩いた、最後の扉だった。
この家を最後の望みと決めつけた理由は至極簡単だった。
とても客を迎え入れる部屋があるように思えない、小さな家だったにも拘らず、そこには部屋の明かりが煌々と窓から溢れていたからだ。
驚いたことに窓は、板で塞がれていなかったのである。カーテンで中の様子は見えなかったけれど、それは何よりも人が暮らしていることの証だったのだ。
些か不用心であるがために、俺のような奴が転がり込みたがる格好の的になってしまった訳だけど、見出した救いの手に縋らない理由もなかったのだ。
当然、居留守を決め込まれれば俺にはどうしようもない。
先の光は明らかに住人の存在を示していたが、それを問いただすなど何様のつもりだ、と言うことになる。
だから返事がなければ、止めにしようと思った。
3回だ。3度ノックをして、それで駄目なら、諦めよう。
「こんばんは!ごめんください!…。」
「すみません、誰かいませんか…!?」
「開けてくれませんか?お願いです…。」
「…。」
うん、どうやら無理そうだな。
扉を叩いていた拳をずるずると擦って落とし、溜め息をつく。
それで良いんだ。今宵は冷たい。
さあ、本当に凍え死んでしまう前に、寒さを凌げそうな空き家を探そう。
忍び込むのは気が引けるし、先客がいたらと思うとぞっとするが、この家に押し入るよりは遥かにましだと言えた。
安堵とも、呆れともとれる笑顔を繕うと、名残惜しそうに最後まで扉に触れた右手の先を静かに離そうとする。
「…?」
その時だった、扉の向こうで、何か人の動く気配を感じたのだ。
椅子を引き摺り、調度品を机から拾い上げる音。
程なくして、その気配は壁一枚まで近寄った。
これは…。
息を殺して、あちらから働きかけてくれるのを待つ。
程なくして、か細い女性の声が、地に沁みる雪片のように囁いた。
「どなた、でしょうか…?」
「あ…。」
何と言うことだ、玄関前まで来てくれるだなんて。
やるしないぞ、覚悟を決めるんだ。
俺は軽く咳払いをすると、舌に刻み込まれた言葉を、顔もわからぬ彼女に向かって語りかけた。
「夜分遅くに申し訳ありません。私、行商人をしております、テュール・アズガルドと言うものです。」
意味もなく商用の笑顔を繕いながら、声を明るく保って張り上げる。
「道をお尋ねしたいのです。今宵の宿を探しているのですが、私の知る限り、生憎どちらも空き部屋が無いようでして…。何処か良い宿屋をご存知ありませんでしょうか?」
遠回しな物言いだ、俺が言われたらさぞかし不快だな。
「…こんな時に、ですか…?」
訝しげな声が、彼女の困惑した顔を想像させる。
ここぞとばかりに、俺は自分の身分が疑うに値しないことを示そうと、一歩前に出た。
なぜならもう、彼女の心は傾いているから。
でなければ、話も聞かずに追い返す。
とんだ悪人だ、相手の良心に嫌らしく漬け込むだなんて。
それでも、先ほどの野宿などという無謀な賭けを実行せずに済むのなら、取引きを生業とする商人の顔で、
喜んで縋りついてやる。
「毎年、この時期には大規模な祭りが行われていませんでしたか?ええと…確か、ケッシグ祭です。
この通りは大市で、もの凄い人だかりが出来ていたと記憶していたのですが…?」
自分は一介の行商人で、毎年この国には足を運んでいたのだと、安心の材料を売りつける。
それでたまたま、何も知らずに、この戦禍に足を踏み入れてしまったのだと。
「一体何があったのです? 夜更けであるとはいえ、酒場の一つだって開いていないではありませんか。
必ず寄っていた友人の店も…頼みの綱の商館も、もぬけの殻でした!
…私は、祭りの日を間違えてしまったのでしょうか? いいえ、そんな筈はありません。雪のちらつく寒さも感じぬほど熱気に包まれた、あの街道の賑わいを忘れる訳がない!」
ああ、神様。自分は一体どうすれば良いのかと喚き散らす。
旅人の心を押し潰そうと苛んでいた不安を一頻り吐き出すと、俺はそれから一言も言葉を発さず、押し黙った。
「…。」
…どうだ、ろうか?
果たして、冷たく錆びついた扉のノブが、軋んだ音を立ててゆっくりと回った。
「…本当に、今晩お泊りになるところを探していらっしゃるのですか…?」
栗色の長髪を下ろし、その隙間から覗かせる雪肌と薄緑色の瞳。
人間としては、自分と同年代か、少し年下ぐらいだろうか。
奇麗な方だな。お世辞じゃなくて、そう思った。
怯えた様子で、手に持ったランプ越しに、不審な来訪者の正体を窺う。
慌てて俺は、首回りのマフラーを片手で押し下げて、自分の笑顔を良く見せた。
「今晩は…お寒い夜ですね。」
「…。」
お相手は、当然愛想良く返せるはずもない。失礼のないようにと頷く素振りだけはしてくれたものの、不安げな表情は隠せなかった。
「ええと…旅のお方、なのですよね?」
「はい。独り身ですが、行商人を営んでいます。」
暗がりの姿の中から、出来る限り肯定的な情報を得ようと目を泳がせるのがわかる。
けれども、扉を開いた時点で何もしてこなかったのだから、名乗った身分は信じても良さそうかなと、顔には書いてあった。
「こちらには、お一人で…?」
「ええ、連れもおりませんので。強いて言うなら、この荷馬ぐらいですかね。」
こういう仕事を長年やっている人間が、自虐の種にと口をそろえて言う冗談だ。
良く知らないが、別に笑ってもらうためと言うよりは、儲け話に群がるがめつさを少しでも憐れんでもらうための言い訳のようなものなのだろう。
この場でそんなことを言う必要もなかったかなと、少し気まずく思ったが、あちらもそうと心得てくれているなら、信用の加点になってそれで良い。
どうせ、本当のことだし。
それをどのように受け取ったのかは測りかねたが、彼女はとても神妙そうな面持ちで、言いづらそうに本題を尋ねた。
「…ご無事、だったのですか…?」
「…。」
貴方が、追剥ぎをする方ではないのなら、それでは貴方はされる側だ。
行商人ともなれば、商談のための品々は荷馬車に山と積んである。腹を空かせたならず者の格好の的になる。
喩え偶然戦地を潜らずに済んだとしても、何も知らずに迷い込んで、その命を狙われなかったはずがない。
俺は大きく溜め息を吐くと、視線を彼女から落として自らの嘘を白状した。
「ええ…。旅仲間を、二人。」
「…。」
「偶然行く先を同じにしただけの連れ合いでしたが、此処に来るまでに…。」
そう言って外套の方布を捲り、切り裂かれた上着から覗かせる、腹部の包帯を彼女に晒す。
「まあ…。」
「…酷い人間です。これで済んだのなら、俺はまだ見捨てる以外のことができたはずなのに。」
思わず口元を抑える素振りをしたのを見て、そっとマントの中に身体をしまう。
「…ごめんなさい。」
「いいえ、謝るのは私の方だ。」
俺は後ろめたさを声に隠さずそれを制した。
「…。」
互いに次の一言を、冷たく吹く風に失ってしまう。
まるでそこには何の邂逅もなかったかのように、あるべき夜の静寂が取り戻されてしまった。
「…あの、」
狡猾にも、先に言葉を発したのは、彼女の方だった。
「寒いです…扉、閉めても良いですか?」
「え…?ああ、はい…。」
それが遠回しに、自分を締め出すと言っているのだと理解するのに、さほど時間はかからなかった。
やっぱり駄目か。まあ、そうだよな。
情に訴えれば、何とかなるかなと粘ってみたのだけれど。そう甘くはないか。
でも、扉を開けて、しかもちょっと話を聞いてくれただけでも、なんて優しい人なんだろうなと思う。
お人好しの考えは、碌な人を引き寄せないですよ。
久しぶりだ、そんな人情味に触れ合えたのは。それだけでも、このお家を訪ねた甲斐があった。
もしこんな戦禍の最中でなかったなら、似たもの同士、良い出会いにもなれたかも知れないな。
「ええ…それじゃあ…。」
切迫こそしていたもの、それで本性を剥き出して、舌打ちをするほど落ちぶれてはいなかった。
出来ることなら、ここは笑顔でお別れがしたい。
そう呟いて、丁寧に一歩下がった刹那だった。
「…!?」
彼女は俺が予想だにしない行動に出たのだ。
俺の外套に手を滑り込ませて右手をそっと掴むと、なんと玄関に自分を引き入れてしまったのだ。
後ろで吹きすさぶ風が、もう少しで殺せたのにと、扉の閉まる音の前に恐ろしく大きく唸って、ばたりと止む。
ええと、これは…。
彼女自身も、自分が咄嗟に取った行動に戸惑っているようだった。慌てて俺の腕から手を離して引っ込める。
「す、すみません…。急に動かしてしまって…傷、痛みませんでしたか?」
「え、ええ…。」
自分の右手は行き場を失い、振り払われてしまったかのようなショックにたじろぎながら、おずおずと降ろす。退路を塞がれたように扉に背を預け、マントの中から、戸板のざらついた感触を探った。
彼女は恥辱に顔を染め、俺にある提案を持ち掛ける。
「テュールさんと、お呼びすれば良いでしょうか…?その。もし、お泊りになるところが無いのでしたら…。」
「…よろしいんですか?」
俺は、彼女が小さく頷いたと分からなかった。
俯いた表情は、あの女性と見紛うほどに麗しく、心臓に悪い。
「お宿のようには、何もご用意できないですけれど…。寝床ぐらいなら。あと、お食事も…。」
「あ…。」
なんとお礼を言って良いか分からなかった俺は、まるで道化師を演じることを求められているかのように、訳の分からないことを口走る。
「も、もちろんタダで泊めていただこうとは思っていません!これでも一介の行商人ですから。お代はちゃんとお支払いさせていただきます。危うく身包み剥がされるところでしたが、こういう時のために、貴重品だけは肌身離さず目を光らせているんです…。しかし故も知らぬ硬貨は、貴方様には不必要ですよね。ですから食料を、ぜひ提供させてください!」
「なので…閉めて貰ったところ悪いんですけれど、荷物を取りに行っても良いですか?」
実は、乗っていた馬が外で待っているんですよ。
おずおずと笑いかけ、折角の雰囲気を壊してしまったことを詫びる。
「まあ…!すみません、私何も気づかずに…!」
「全然!納屋をお借りしても…?」
赤面してしまった様子で顔を抑えるので、俺の方も一緒にあたふたしてしまう。
空気は、一変して和やかに変わった。
彼女は親切に、自分が手にしていたランタンを手渡してくれる。
「すぐ戻ります…!」
俺はそれを受け取ると、彼女に寒い思いをさせまいと素早く飛び出して扉を閉めようとした。
けれど、その前に、自分からも聞いておかなくちゃ。
「あの…!お名前を窺っても…?」
彼女は胸元に手を握りしめて、吹雪にかき消されぬよう、その名を教えてくれた。
「リフィアです。…リフィア・ローレンス。」
「すぐ戻ります、リフィアさん。」
俺は、そう力強く約束すると、
それが彼女に何かを思い出させてしまう前に扉を閉じ、凍える闇の中で待つ愛馬の元へと急いだのだった。




