33.落ち葉拾い 1
33. Gleaning
一度通った道は忘れない。狼が獲物よりも土地の表情を知悉していることは、揺るがない狩りの下支えになっている。
頼りになるのはやはり脚だ。人間や、鹿は僕らよりも高い視点から先の景色を見ているけれど、それでも自分たちが迷いなく、素早く森の中を駆け抜けられるのは、身体が森の地図を無意識に描くからだと思っている。
僕が出会ったあの巨大な狼はどうだろうか。彼は狼として有り余るほどの、より遠くまで見通せる視点と、確かな豪脚を備えていた。
想像に過ぎないが、あの狼は僕が知るより遥かに多くの、もしかするとこの川の向こう側の森すべてを知り尽くしている気がする。
想いを巡らせれば巡らせるほど、僕はとてつもない存在との密会を果たそうとしている気分になるのだった。
このことは、他言してはならない。僕のお嫁さんと、Teus様しか知らない伝説の狼。
そう考えるだけで、ちょっとしたお遣いの役割も楽しめてしまうものだ。
もう一つ、僕らが森の中で互いの存在を窺い知るための手掛かりになるのは、臭いだった。
始めはTeus様について行った道を辿って行ったけれど、途中から縄張りとしてかけられた尿の臭いを木の根元から読み取ることが出来た。
恐らくは、こちらが彼の良く通る、言わば正規ルートになるのだろう。Teus様は気が付いていないようだったけれど、僕の鼻は見逃さなかった。まあ、初めに訪れた時は気が付かなかったんだけれど。
もう少しで到着するな…。
一匹で森を駆け抜けることなんてそうそう無いから、道中の走りや風景に没頭できるのはある意味新鮮でもある。心なしか獣道がくっきりとして、木漏れ日が妙に眼に沁みる。自分とだけ向き合う時間が欲しいと思ったことは無いけれど、こうした時間があるのも悪くないのかもしれない。
誘導されるように辿っていくと、やがてあの洞穴が構える広場へと抜け出た。
前に訪れた時はあまりにも緊張して、碌に周囲の景色を目に焼き付けることが出来ずにいたが、辺りを見渡すと、なるほどこれは良い具合に木々が取り囲んでいるお陰で、狼にとってお誂え向きのお家として納得した。人間が住み着くには苦労するだろうけど、彼は長年ここで不自由なく暮らしているに違いない。
また暗闇からのっそりと這い出てくるのかと思いきや、今日は傍に鎮座する一枚岩の上で丸くなって顔をこれまた大きな尾で隠していた。
お昼寝の真っ最中だったかな。
そう思い、足音を殺して減速する。そのうち起きるだろうし、ならば気を使って起こさず、ここで待とうか。その場で足踏みをして逡巡する僕を、彼は片目を開いて一瞥すると、ゆったりとした動きで大岩の上に堂々と立ちあがり、そしてするりと降りてきた。
“こんにちは…Fenrirさん!”
“おお、良く来たな…。”
彼は欠伸まじりに挨拶を返す。
“すみません、起こしてしまいましたか?”
“いや…今日は、お前だけか?”
Fenrirさんは少し辺りを見渡して、来訪者が他にいないことを確かめる。
そうなんです、今日はTeus様は来られないそうでして、代わりに僕を遣わせました。
“それはご苦労なことだ…お前も大変だな。”
“いえいえ。またお会いできて、僕嬉しいです。”
Fenrirさんは邪険に扱うでもなく、そうかいとぶっきらぼうに呟く。
“それにしても、あいつがあの村で用事とは珍しいことだな…。”
まだ眠そうな身体を起こそうと後ろ足に体重を預け、前脚を引っ張って大きく伸びをしながら、Fenrirさんは僕には分からないことを尋ねた。何気ない所作も、彼ほどの巨体になると、思わず眼を惹かれてしまう。
“なんだも、今日は会わなくてはならない方がいらっしゃると…。”
“ああ、そういうことか。ならば良かろう…。”
首を傾げてそう答える僕に、即座に思い当たる節があったのか、どこか意地悪そうに笑う。
なんだろう、よく分からないけれど、楽しそうだから良いか。僕が入れない話題みたいだし。
“あ!そうだ、忘れるところでした。Teus様から言伝を預かっています。”
よく分からない話、で僕は此処に来た目的を思い出し、ぴんと背筋を伸ばして姿勢を正した。
“ほう…良かろう。申してみよ。”
与えられた責務を気張っているのに応えてくれているのか、茶化さず聞いてくれる。
えっと…僕はTeus様が喋った言葉を頭の中で一度繰り返して確かめる。
“ヘンなキゲン、が近づいている、そうです…。”
“ん、なんと言った…?”
“ええっと…。”
どうしよう、ちょっと聞きなれない言葉だったので、怪しかったのだ。
間違えて覚えてしまっただろうか?これは一大事だぞ…。
実のところ、人間が喋る言葉の発音は、僕であっても聞き分けるだけでかなり難しい。言葉は殆ど無数にあるように思えるし、何より口にしか動きがなくて、情報の経路が少ない。
自分に理解できる言葉に関しては、それを翻訳して仲間の狼に伝えるのもそう難しくは無いが、問題なのは、分からない言葉に関しては、それを分からないと人間に伝えること自体が難しいことだ。
長老様は、僕が首を傾げて見つめるだけで親切にその意味を教えてくれていたけれど、残念ながらTeus様と、まだそこまで心を通い合わせることはできていない。
しかも困ったことに、Teus様は、Fenrirさんにはこれだけ言えば伝わるから、とだけしか言われていないせいで、これ以上Fenrirさんの理解の補助になるような情報が手元にない。
もし僕が、四つ足で歩く人間だったならどうしたかと言うと、聞こえてきた言葉を、自分が知っている最も近い単語に置き換えて、それがおかしいなら、聞こえた通りに、ひとまずそれを新しい単語として覚えてしまうのが良いと思う。
今回の場合、やはりちょっとTeus様が意図した言葉では無かったようなので、僕が聞いた通りの言葉で判別してもらうほかない、けどそれが出来ないのだ。
僕は何て言われたかを覚えていても、それを人間の発音で再現できないのだ!
ああ、もどかしいなあ。Fenrirさんみたいに、僕も人間のように喋ることが出来たら良かったのに…。
結局どうすることもできない僕はもう一度、たどたどしく、出来るだけ言われた言葉を狼の発話で再現しようと試みる。具体的には、聞こえた人間の言葉を節で区切って僕が知っている言葉として捉え、狼の言葉の単語で並べてしまうのだ。
そうすると、‘strange’…‘deadline’…みたいな感じになるのだけれど。
“変な期限…?”
“と仰っていた気が…”
Fenrirさんは何度かその言葉を繰り返し呟いて、宙を仰ぐ。
ピンと来ていない感じなのは表情から窺えるので、僕は近い別の単語が無いかと必死で頭を回す。
“もしかすると、変な、は間違っていたかもしれません。変、と最初に聞こえた気がするんですが…。”
“ヘン…キゲン…。”
二匹の間で、譫言のようにその単語が飛び交う様子はなんとも奇妙だ。
一度帰投して、Teus様に上手く伝えられなかったと訴えかけようかと言いだそうとした時だった。
「ああ、返却期限か。」
“それです、それそれ!”
ぴたりと人間の言葉が耳に当てはまって、僕は嬉しそうに吠える。
“あやつはそのように言ったのだな?”
“間違いないです。どういう意味なんですか…?それ。”
“うむ、俺はあいつに借り物をしていてだな、そろそろそいつを返してくれと言って来たわけだ。”
なるほど、ヘンキャクって返すって意味だったのか。
“良かったあ…。ありがとうございます、Fenrirさん。”
僕はほっと胸を撫で下ろし、彼の機転に助けられたことを感謝した。
“おお、報告ご苦労であったぞ。承知したと伝えてくれ。”
それはTeus様にちょっと吠えるだけで済むだろう、晴れて僕は任務完了という訳だ。
やったぞ、頭なでなでしてくれるかな。ぎゅってされるのも、悪くないぞ。
そんな達成感を表情に読み取ったのか、Fenrirさんは柔らかい顔をして僕に尋ねた。
“あいつは他に、俺に何か言っていたか?”
“えっと、そうですね…。”
僕はちょっと言いにくそうに、もう一つのTeus様の言伝を口にする。これも命令だしね。
“Fenrirさんが、旨いものを喰わせてくれる、と…。”
“はあ…?”
思わず僕も苦笑いしてしまう。やっぱり何も聞いてないんだ、Teus様の無茶ぶりなんだな。
“あのやろ…。”
“なんかすみません…。”
何の躊躇いもなく毒づくFenrirさんに、僕も同情してしまう。
“あの、僕別に…。”
僕はFenrirさんに面倒をかけたくなくて、丁重に褒美を断ろうとする。
“Ska、お前、腹は減っているのか?”
“え…?”
“お前がどれくらい喰うのかわからん。その…あいつ以外とは初めて、なのでな。”
言葉の端を濁して、Fenrirさんは恥ずかしそうに顔を背けて片目で睨む。
流石に俺ほどの大食漢ではあるまいが、どうだ?
“…僕、今日はまだ何にも食べてないんです!”
ここぞとばかりに、僕は飢えた狼であることを訴えてみる。
そうか、Fenrirさんはあの方としか、そういうことをしてこなかったから。
寂しいなあ、じゃあ僕が今日は一緒に、ということだったんだ。
Fenrirさんは軽く頷き、あいつに遣わされた礼は俺からしておかなくてはなと語気を強める。あくまで彼のことを悪く扱いたがっているのが見ていて微笑ましかった。
どきどきするな、憧れの狼のお友達と過ごせるだなんて。
僕はまたとない機会をあの方から貰ったみたい。ありがとうTeus様。
“取り敢えず、その辺歩こうか…ついて来いSka。”
“はいっ…。”
僕は大股な一歩に遅れないよう、やや速足で彼と並んで歩き始めた。




