32.星界の翼 3
32. Wings of the Cosmos 3
「ちょっと待っていろ…。」
Fenrir狼はそう告げて一度洞穴の方へ戻ると、何と大鹿を一頭丸々口に咥えて戻ってきた。
「ちょうど喰いはじめたところなのでな、食事は続けさせてもらうぞ。」
「どうぞお構いなく。」
そんな…僕たちが協力して仕留めるような獲物がこうもあっさりと蹂躙されてしまうだなんて。
ぼとりと目の前に落とされる屍体に、脅しのような意味が込められている気さえして、思わず一歩退く。
“どうした、喰わぬのか。”
“え…?”
驚いて顔を見上げる。彼は何も答えず、背中のあたりに血の染みた牙を突き立て、肉を骨からやすやすと剥ぎ取ると、血の滴るその一塊を首を傾げて僕に勧める。
“あ、ありがとうございます…。”
“残りは俺の取り分だ。”
前脚を背骨に引っ掛け、手前に引きずり寄せる。
「良かったねSka。てか、俺の分は?」
「誰がお前なんぞにやるか。」
「ひどっ…。」
あれ、意外と良い狼さん、なのかも…。
“…僕の、食べますか?”
通じるかとTeus様の方を見上げて訴えかける。
「あっ、気にしないで。悪いのこいつだから。」
「はぁ…?生肉喰って腹でも壊すが良い。」
…。
普通に考えればあり得ないことだった。狼たちが獲物を分け合う時は、必ず地位の最も高いものが肉の一番旨いところに齧り付く。正確に言えばリーダーとその妻が、脂の乗った部分だけを腹に収めてしまうと、そのお零れに下の狼たちが肖るような形になるのだ。
今回で言えば僕は、いつもと違って圧倒的後者になる訳だけど、どうしてかFenrir狼は僕を尊重してくれたのだ。
なんて狼なのだろう。器の大きさをまざまざと見せつけられる、寛大さが寧ろ不気味にすら思ってしまうほどだ。
でも、歓迎されている、のかな。
彼がむしゃむしゃと大口を動かす迫力に暫く圧倒されていたが、僕も手を付けることにする。
「どう、調子の方は。元気にやってる?」
「うむ…。こちらもあれだけの距離を走ったからな、今は骨休めと言ったところだ。」
どうやらTeus様とFenrir狼は、普段から会って話をしているようだ。
この話には、入って行けなさそうだと、僕は黙ってゆっくり口をもぐつかせる。
「まあ、冬支度は直にせねばならぬからな、そろそろ動こうとは思っている。」
口の周りを舌で舐め、思案顔をして彼は続けた。
「…それよりは、この森で生きることを余儀なくされた者達の方が心配だな。果たして越冬できるのか、疑問は残る。」
「そうなの?全然考えてなかった…。」
「大丈夫だとは思うがな。しかし生まれた気候があまりにもかけ離れていると、耐えられない可能性はあるということだ。この森の冬は、中々に厳しいぞ。お前も気を付けておけ。」
「寒いの?嫌だなあ…。」
そちらは杞憂に終わりそうにないと、Teus様は途方に暮れて項垂れる。
そんな会話を目と耳で追いかけながら、僕は緊張して味のしないご馳走を口に運ぶ。
冷静に考えれば、人語を解する能力に加えて、Fenrir狼は人間の言葉を操ることもできるのか。
当たり前のように喋っているけれど、普通の狼がなせる業ではない。
凄いや、自分にだけ与えられたと思っていた特権が、突然輝きを失ってしまい、なんだか悔しくて俯く。
…いいなあ。自分が伝えたいことを、伝えられるって、どんな感じなのだろう。
「ただでさえ最近の夜は冷えて眠れないのに…。」
そう呟いて、Teus様はちらと僕が食べ終えるのを認めると、徐に両手をまわして抱き着いてきた。
「どうしよ、Ska。一緒に布団の中で寝てくれない?」
“わわっ、Teus様…?”
突然のスキンシップにびっくりして、両耳がぴんと立つ。
「こいつ、俺と一緒に寝るの恥ずかしくて嫌がるんだよ。焼き餅焼かせてやろうぜ。」
なんだか良く分からないが、意地悪そうな笑みで、僕を味方に引き入れようとする。
Fenrir狼は、挑発には決して乗ろうとしない。それよりも気になっていたことがあるようで、眉をひそめて僕の方を見た。
「おい。さっきからこいつ、お前のことTeus“様”って呼んでるぞ…。なんだ気持ち悪い。」
「え?そうなの?」
“えっと…良くなかったですか?”
“こんなやつ、呼び捨てで十分だ。”
「今絶対俺の悪口言ったでしょ。」
「ああ、言ったぞ。わかるまい。」
「ほらね?酷いでしょこの狼…。Skaを見習ってほしいよなあ。」
「んだと…?何が悲しくて俺が躾られなければならんのだ!」
ああ、もう。僕のせいで大変なことに…。
ところが口論の途中で、Teus様は何かに気が付いてぱっと顔を輝かせた。
「っていうか、やっぱり話が通じるんだね!」
「あ?ああ…。」
「良かったあ!頑張って頼み込んだ甲斐があったよ…。」
Fenrir狼と僕は、一瞬どういうことかと戸惑う。
Teus様は満面の笑みを浮かべて、僕のことを抱きしめた。
「Fenrirも俺とばっかりじゃあ退屈すると思ってさ。新しい友達を連れてきたんだ!」
「なに…?」
Fenrir狼は、心底驚いた表情を見せた。僕の来訪は、どうやら伝えられていなかったようだ。
そうだ、そうなんです。僕…。
「でも人間相手だと、Fenrirもしんどいだろうし、話せないこともきっとあるだろ?だから君の友達には、同じ狼が相応しい…。」
Fenrir狼の眼が、ぎろりと動いて僕を捉える。
「Skaはね、ヴァナヘイムで人間と一緒に暮らしてる狼犬の群れでリーダーを務めてるんだ。とっても勇敢で優秀なんだよ?」
あれだけビビり散らかしていたのに…、優秀はまだしも勇敢という言葉がこうも滑稽に聞こえるだなんて。
意に介さず、Teus様は僕の評判をFenrir狼に自慢する。
「人間の言葉も分かるっていうからさ、頭も俺より絶対良い。これ以上の適任はないだろ?
…だからFenrirとどうかな、これからも一緒に会わないかい?」
「余計なことを…!俺は、狼“犬”じゃあないぞ…。」
Fenrir狼は唸るように反論するが、Teus様はどうやら鋭い一言でそれを説き伏せた。
「けど人間でもないと、思ってる。違うかい?」
「…。」
Fenrir狼はそれを痛いと思ったのか、一瞬黙りこくった。
「お前、わかっているのか?こいつは…。」
「ああ、わかっているから、連れてきたんだっ!」
「…。」
全く会話に参入する余地を許されなかった僕は、それを黙って聞いている他なかったが、Teus様は不穏な空気を気にも留めず、どうやら後は笑顔で彼の返事を待つだけらしい。
Fenrir狼は、表情を硬くしたまま視線を離さず、何かを考え倦ねている。
そんなに怖い顔で睨みつけられて、Teus様は怖くないのかなあ…。
でも、本当は優しいって言っていたし、これでも優しく接してくれているのだろうか。
なれるかなあ、お友達に…。
自分への注目が逸れている隙に、僕はちらと洞穴の中へと目をやった。
此処を寝倉にしているのだとして、それではTeus様の家はどこにあるのだろう。
道中にも家屋のようなものは見当たらなかったし、もしかするとこの森に住んでいる訳ではないのかも。
それから周囲の物音も捉えたくて、両耳を左右に開く。僅かに届く音は、これは鹿の夫婦かな。この季節だから、牡鹿が番を求めてよく鳴き叫ぶのを僕たちは無情にも聞き逃さない。
でも、狼の息遣いは、聞こえてこない。
…やっぱりそうだ。
始めに抱いた違和感の通り、この森には、人も、仲間の狼もいないんだ。
いるのは、Fenrirという名の狼だけ。
そう言うことだったのか、Teus様の思惑が、だんだんと僕の中で形を成し始めていく。
つまり、彼は…。
一匹狼。その言葉が僕の背中を押した。
“僕で良かったら…お願いしますっ!”
口には出さずとも、一匹は苦しいんだ。
拾われた身であることがどうしようもなく思い出され、気付くと僕は、そうFenrir狼に向かって吠えていた。
尻尾を不安げに地面でぱたつかせ、僕は小さく首を伸ばして、下から反応を窺う。
もしもFenrir狼の中に、首を縦に振ることが出来ない自分がいるのなら、僕が背中を押してしまえば良いんだ。
“僕のこと、Skaって呼んでください!Fenrir様は…”
その途端にふざけるなと罵声を浴びせられた、圧迫感に堪えられず瞳が潤む。
“今度そのFenrir様とかいうふざけた呼び方をしてみろっ!その鼻面切り落とすぞっ!!”
“ひぇっ…ごめんなさいっ!!”
「おっと、どうしたのさ…。」
腕の中で暴れようとする僕に驚き、Teus様が手を離す。
「話はついた感じかな?それじゃあ俺の方からもよろしくね、Ska。」
「ふん…まあ、Teusよりはこいつの方が静かに話せそうだ…。」
「こんな感じで減らず口ばっかり聞くから、嫌になったら俺に言うんだよ?」
「お前に不満があると言っているのが分からんかっ!!」
「悪いけど2対1だから、これ以上自分の株を下げるの止めな?ねーSka。」
「んだと…!!」
あれ…?
気が付いたら僕とFenrir狼との会話は終わっていた。
これは…良いよってこと、なのかな?
僕は小さく、震える息とともに緊張を吐き出す。
良かった…。
Fenrir狼さんと、お友達になれたみたい。
「まあ、今日はこんな感じで! 元気そうで良かったよ、近いうちにまた連れて来るから。」
「勝手にしろ…。」
別れ際、僕はFenrir狼に、同じように振り向いて別れの仕草をした。
“またお邪魔する…みたいです。”
“…。”
Fenrir狼は何も答えない。だいぶTeus様に言い負かされてご立腹のようだ。
でも、一つだけ聞かせて欲しくて、僕はTeus様について行く歩みを止め、彼に向き直ってこう言った。
“あの…貴方のことを、何てお呼びしたら良いですか?”
“…Fenrirで良い。”
“さようなら!Fenrirさん!”
返事は無くて良い。僕は明るい声で、彼に別れを告げたのだった。
「良かったねえSka。Fenrirめちゃくちゃ喜んでたよ。」
ヴァン川を超えた帰り道で、ようやくTeus様は口を開き、僕のことを労った。
そ、そうですか…?
僕には到底そう思えなかった。気心知れた仲でないと分からないような、微妙な機微でもあるのだろうか。
「あんなに尻尾ぶんぶん振っちゃってさ、俺のときもあれぐらい歓迎してくれて良かったのに…。」
僕からは全然見えなかったです…。尻尾は正直、と言うのは僕らに共通の悩みでもあるから、FenrirさんがTeus様に見透かされてしまっているのは、ちょっぴり可哀そうですらある。
でもそれを聞いて勇気づけられたというか、ちょっと安心しました。
「でもごめんな、怖かったろ…?」
頭をぽんと撫でられ、耳が思わず左右に寝る。
…いえ、そんな。
少し、びっくりしました、けど。
「Fenrirは絶対に君のことを傷つけたりしないから、それは俺が保証する。でも、嫌なことがあったら言ってくれよ?それで君の面目が潰れたりとか、飼い主に迷惑がかかることは無いからね。俺も友達として、Fenrirの悪いことは言ってやらなきゃならないと思ってる。」
Teus様も、Fenrirさんの友達なんですか?
そうなんだ。僕が思っていた関係と、違うみたい。
仲良しなんですね、FenrirさんとTeus様は。
その仲間に、僕も今日誘われた、ということなのかな。
僕は自分の顔をTeus様に近づけ、舌で口元をぺろっと舐める。
「うん、ありがと…。」
それしか出来なかったけれど、伝えられてたらいいな。
“おかえりぱぱー!”
“うん、ただいま!ちゃんとお母さんの言うこと聞いてたか?”
足元に群がる子供たちに顔を下ろし、鼻面をつつかせる。
それから、妻の熱い抱擁を受け止めた。
“無事帰ってきてくれて良かったです…。”
“ありがとう、子供たちを守ってくれて。”
ちょっと出かけてきただけなのに、大袈裟だなあ。でもこんなにも身を案じてくれる彼女が、僕は心から好きだ。
すり寄せる毛皮を潜り、自分の方からも彼女の首元に顔を擦りつけて、互いに安心する匂いを嗅ぐ。
“今日は、あのお方とどんな冒険へ?”
“ん?なんてことないさ…。”
僕は微笑んで、その日あったことを、彼女にだけは打ち明けることにした。
“新しい友達ができたよ。”




