30.手負いの獣 6
30. Wounded Pridemate
昔から、雨の日は内心ほっとしていた。
公園に足を運ばずに済んだから。
子供たちは外で遊べないから、僕は仲間に入れてとお願いする必要が無かったのだ。
でも、こんなときに、降らなくたって、良いじゃないか。
僕は鼻面で彼のお腹を押して、なんとか洞穴の入り口まで引き摺っていった。
雨足が強くなる前に、なんとか潜り込むと、彼は僕に掠れた声でありがとうと言った。
その声が、どれだけ有難かったことか。
まだ、狼が生きている証だからだ。
しかし次の瞬間、彼は激しく咳き込んで、横たわったままで背を曲げる。
目の前に血反吐が広がって、首筋から流れる血だまりと混ざって足を浸した。
僕に両手があったなら、それを必死で傷口に当てて、穴を塞ごうとしたろう。
でもそれが出来なくて、顔をどばどばと溢れる血の中に埋めて泣いた。
触れているだけで、だんだんと顔から温もりが薄れていくのを感じる。
お願い、お願いだから止まって…。
「済まなかった、な…。子狼、よ。」
それを虚ろな目で見降ろしていた狼は、ひゅうひゅうと首から息を漏らして呟いた。
「うぅっ…うぁっ…ごめんなっ…さいぃ…。僕、そんな、つもりじゃあぁ…。」
ふ、と彼は表情を柔らかくする。
「まだ…ま、だ…小童、よ…。」
それでは、どうするつもりだったのだ。
我と同じことを、するつもりであったのであろう?
そうはさせぬ、まだ主では届かなんだ。一歩、及ばなかったようだな。
彼は愉快そうに微笑むと、咳をしないよう息を抑えて苦痛に顔を歪めた。
まあ良い。残された時間は、そんなに長くはないのだ。
主と満足に会話もできぬことが、堪らなく口惜しいぞ。
もし、我がこの子狼を拾ったとしたなら。そんなことを考えられずにはいられない。
ああ、この子狼は、どんなふうに育つだろう。
きっと我は、碌にこやつを可愛いと伝えられぬのだろう。口下手であるなどとは妻にもよくからかわれたものだ。しかし、きっと我からよく学び、容易く立派な狼となるに違いない。
一緒に狩りをしよう。主となら、どんな獲物も思いのままに捕らえようぞ。
主はよく喰らうであろうな。我と姿を同じくするまで、そう時間はかかるまいて。
その前に、もう少しやんちゃでない遊びが出来ると良いのだが。上手く相手をしてやれるであろうか。
不安だな、子供の扱いに慣れぬ。親としての資格は、彼女によってどうにか保たれていたのだなと痛感する。
どうにかそれを真似て、元気いっぱいの彼を満足させてやらねばな。
それで疲れ果てて、たらふく飯を喰らって一緒に丸くなっておればよいのだ。
なに、ひもじい思いなど一度たりとてさせるものか。一匹であろうと、我にかかれば十分にやってみせよう。
他にだって、色々なことを教えてやりたい。
色々な景色を、見せてやりたい。
まるで我が子のように。
そんな期待が胸の中で膨らんで、ありもしない幸せな日々を紡ぎ出す。
そのように、できたなら。
彼に見えぬよう、涙が零れる。
寒い、のに。子狼の温もりが、なんと心地よいか。
ああしかし、聞いてくれるか。
「主よ…。」
ぴたりと寄り添ってめそめそと泣く子狼に向かって、彼は口を開いた。
喉元で、びくりと感触がする。
「主の名を…聞かせてはくれぬか?」
うぇ、うぇと漏れそうになる嗚咽を抑え、子狼は答えた。
「ぼ、ぼく…ふぇ、んりるって…いいま、す…。」
…?
「な…んと?」
「うぅっ…ごめん、なさいっ…」
良く聞こえなかったと思ったのか、鼻を啜り謝る。
「“Fenrir”、です…。」
「…。」
何と言うことだ。よもやこんなことがあろうとは。
なるほど。だから我は、この子狼に…。
「Fenrir…。」
「はいっ…なん、です、か…?」
ぎこちなくそう呼ぶと、先よりも緊張した様子で返事をした。
「ありがとう。」
そう、一言伝えると、彼はもっと大きな声で泣き出した。
「お願いぃっ…狼さんっ…死んじゃいやだぁっ…。」
甲高い悲痛な叫びが、どんな傷よりも胸を刺す。
「ぼくぅっ…狼さんとっ…ずっと一緒にいたいぃ…。」
「…。」
「嫌だぁっ…ごっ…めんなさいぃ…うぁぁぁ…。」
そうしてやれぬことが、身を切られるよりも辛い。
先の空想を、二匹で歩むことが出来たなら、どれだけ幸せであっただろうか。
どれだけ、Fenrirに幸せな思いをさせられただろうか。
やっと彼は見つけたのだろう。自分が狼であることを許してくれる存在を。
その狼と一緒に、狼であり続ける、意味を。
そんなに、自分が死ぬことが、我にとって大事なことだったか。
首元で震えていたFenrirは、傷口から顔を離し、自分に顔が見えるように近づいてきた。
「どう、した…?」
酷い有様だ。奇麗な毛皮が台無しではないか。
模様も分からぬほどに血で濡らし、可愛い顔が良く見えない。
「ぼくっ…狼さんにっ…お、お願いが、あります…。」
なんだ、最期の望みならば、我が申し出るところであるぞ。
「口、開けて…くださ、い。」
「…。」
何だ、そのようなことか。
口の端を曲げて、優しく微笑む。
「開けてぇっ…開けてよおぉ…。」
まるで意地悪をされて憤慨する子供のように、Fenrirは口元に頭を擦りつけて、無理やり我の口をこじ開けようとする。その様子が愛おしくて、思わず声を上げて笑いそうになった。
「おねがぃっ…ぼくも…狼さんのっきば、で、…ねえってばぁ…。」
ふふん、絶対開けてやるものか。ああ、まったく可愛いな。
そうしているうちにも首筋から零れ出る命に気が付き、慌ててそちらに戻り、また同じように顔を押し付ける。
それで、どれだけ時間が伸びるかは疑問ではあるが。
ぜうぜうと喉が鳴るのが気になるが、
お陰で、これで喋れるな。
「Fenrir。我の、願いも、聞いてはくれぬか…?」
「え…?」
そうしたなら、主の願いも、叶えてやろうではないか。
「ほん、と…ですか…?」
おお、我の牙など、好きにするが良い。
「…わか、り…ました…。」
僕は、その言葉を信じて、血だまりから身体を起こし、ますます声がか細くなる狼さんの口元に寄り添った。
僕にできることだったら、なんだってする。最期まで狼になれなかったけれど、僕はせめて貴方の仲間になって、役に立ちたいんです。
「Fenrir…。」
ここにいますよ、と彼の目の前に顔を覗かせる。
すると、表情が和らいだ。
「主は…立派、な…狼…だ…。」
「…。」
「よく…がんばった…な…。」
僕は首をぶんぶんと振って、泣き出すのを誤魔化した。
もうやめて、そんなこと言わないでください。
とっても嬉しいけれど、僕は狼なんかじゃない。
「さぞ…疲れ、た、であろう…?腹も…減っている…はずだ…。」
「Fenrir、我の願いを、聞いてはくれぬか?」
僕はもう声が出せなくて、黙って頷いた。
どんなお願いだろう。
その次の言葉を待った。
「…くれぬか?」
…え?
今、なんて?
聞こえない、よ?
口の動きが、恐ろしい言葉を綴る。
嘘だ、そんなこと、できる訳が無い。
もう一度、口が同じ言葉を伝えようとする。
最後には、彼は人間の言葉で紡ぐのを諦めてしまった。
頭の中に、ありありと狼としての意味が焼きだされ、浮かび上がる。
想像しただけで吐き気がする。そしてそれを、今からしなくてはならないのだ。
彼は、こう囁いたのだ。
“我のことを…喰ってはくれぬか?”




