30.手負いの獣 5
30. Wounded Pridemate
“おい…!どうして向かってくるのだ!?”
彼の目はそう訴えかけ、服従の姿勢を頑として取ろうとしない子狼の相手をしていた。
差し詰め、絶望的な状況で格好を付けたがる英雄のようにでも思われているんだろうか。
それとも、駄々をこねる子供をどうあやしたものかと、うんざりしているだろうか。
それで構わない。ボロボロになっても、戦い続ける羽目になるとは、薄々わかっていたんだ。
この数日で、僕が死ぬときは、泣き叫んでもなお吐き出せぬ程の痛みが待っているんだろうと学んだ。
なぜなら、僕はまだ生きているから。
そして、僕は今までで一番苦しい。
それは、この絶望的な戯曲を脱するための一縷の望みだと気が付いたんだ。
面倒な意地に巻き込まれた狼は、明らかにこの子狼のがむしゃらな攻撃を扱い倦ねていた。
いくら生まれて間もなくて、狩りの仕方や作法も碌に知らぬような奴でも、この子が狼であることに変わりはない。それは、彼が鋭い牙と、爪と、それを扱う才能を秘めているということでもある。
例えるならば、簡単にねじ伏せてしまえるような相手であっても、凶器をそれと知って振り回し、闇雲に襲い掛かって来たのならば、全ては柳に風と受け流し続けることは難しかったのだ。
厄介なことに、しかも彼は既にそれが己を凌駕していると見抜けていた。
姿勢が低い方が、喉元を狙いやすい。それを悟ったのか、体格差を利用して懐に潜り込んでくるのだ。
こちらがもう手出しをするつもりがないことを分かっているためか、一歩引く度に、恐れず間合いを詰めてくる。段々とその動きが狼らしくなり、時折彼は毛皮を掠めるような一撃をその中に認めて内心で称賛を送った。そうかと思うと、ふっと身体の傷を思い出したかのように顔を歪め、立ち止まってふらつく。
胸を締め付けられるような痛みを覚え、思わず半歩近づくと、口の端を歪めて狡猾にその隙を突いてくる。
「…っ!!」
明らかに、動きづらさを覚えていた。
元来、狼どうしの喧嘩が、本当に命の奪いあいに発展することは少ない。
それは、相手が力量を知った段階で、ごろんと仰向けになり、情けなく急所を晒して自体が収束するからだ。
なのに今の子狼は、完全に我を忘れてしまっているのか、頑としてその姿勢をとろうとしない。
では自分がそうすることで、一端の負を認めてしまうのが、大人として利口な行動であるように思えるが、今のこいつでは、その毛皮の薄い腹を喰いちぎってしまいかねないのだ。
…そう、予感は当たったのだ。
こいつは、狼に育てられていない。
狼であることを、つい最近理解し始めたばかりなのだ。人間がどうであるとか抜かしていたが、
もしや…。
いいや、もうそんなことはどうであろうと良いのだ。
この子狼の狂った衝動を静め、戦いを、なんとしても終わらせなくてはならない。
でないと、互いに命が危ない。取るべき行動は、もう分かっていた。
…済まないな。主の良い狼になってやれなくて。
“ぐるぅ…”
僕は、息を切らしてもう一度狼の姿を見上げた。
既に彼は僕に人間の言葉で訴えかけるのを止め、狼狽えた表情をありありと浮かべながら、防戦の構えを取り続けていた。しかし、それももう限界であると分かってくれたらしい。
だんだんと、退く先が見えてきたんだ。少しづつ、飛んだ彼の目の前に立つことが出来るようなっている。
僕は精一杯毛皮を逆立て、また顔を低く構えて唸った。
荒れた呼吸に音を乗せ、それを怒号に変えてゆく。
“はぁっ…はぁっ…あぁっ…あ゛あ゛っ……あ゛あ゛あ゛あ゛っ!!!”
どうかなあ?少しは、無理して頑張っているとわかって貰えているかな。
それとも、まだなんで頑張っているのかなと思われているのかな。
あのね、狼さん。
僕は、もう人間なんかじゃなかったってわかったんだ。
だって、僕が人間だったなら、お母さんとお父さんは、僕と一緒に笑ってくれたでしょ?
僕が人間だったなら、二人は、僕のこと嫌いにならなかったんじゃないかなって、思ってしまうんだ。
そう思いたいだけ、かもしれないけど。
だからね、僕は、せめて狼でありたいんだ。
狼さんは、僕のことを狼だって思ってない。
でも、貴方は、僕が初めて出会った狼なんだ。狼さんが認めてくれれば、僕は胸を張って狼だって言えるでしょ?
“僕は…!!僕はぁああああああああ!!”
覚えたての構えをもう一度してみせると、僕は今までで一番大きく吠えた。
“僕はぁっ!!…狼にならなくちゃならないんだぁあっっ!!”
でないと、僕は、僕は…。
“や、やめろ…。”
狼って大変だなあ。
こんなに苦しくても頑張らなくちゃならないなんて。
僕は、大きく口を開けて飛び掛かろうとしたその刹那、狼さんの目に涙が浮かんでいるのを見た。
一瞬だけ見せた隙。
そのとき、僕はこの狼さんがしまったという表情をしたのがわかった。
間に合うかというところで、顔を僕から逸らそうとする。
でも、もう遅い。
僕は、無防備な彼の限界まで近づくと、開かれた口から覗かせる鋭い牙に向かって、自分の首元を差し出した。
「…。」
ぶすりという柔らかい感触が伝った。
眉間に寄せていた皺が和らいで、ようやく元の自分に帰る。
「ああ…。」
これで、僕の勝ちだ。
これで、ようやく、死ねるんだ。
ごめんなさい、狼さん。
もしかしたら、よく頑張ったって褒めて貰えたかも知れないのに。
でもね、ずっと、待ってたんだ。このときを。
ずっと。
僕を殺してくれる存在に出会えるのを。
僕は、その姿勢のまま、ずっと動けずにいた。
痛みが何一つ感じられない。
それどころか、やり遂げた類の感情の一切が湧いてこない。
終わりだという感覚すらない。
そう、僕は、苦しくなかったのだ。
「な…ん、で…?」
貫かれたのは、僕ではなく、彼の首筋のほうだった。
僕の剥かれた牙に、深々と柔らかな肉が突き刺さっている。
「こう…思ったことは…無かったか?」
見えない彼の表情に、どんな言葉を綴るかが分からない。
「苦しく…ある、日々に…都合よく…己を、殺し、て…くれ、るもの…が、現れ…ては、くれぬか…と…。」
四肢の力が抜け、巨体が音もなく崩れていく。
ゆっくりと、僕の牙が抜かれ、
首筋からは、とめどなく血が零れだした。




