30.手負いの獣 4
30. Wounded Pridemate 4
僕が今までで一番速いと思ったのは、主神が遣わした息をしない兵士が投げた、あの槍だった。
竦んで言うことを聞かない足で避けるのがやっとだったから、風を切って掠めた恐怖を良く覚えている。
でも、彼の初動はその印象を容易く凌駕した。
直感的に、頭上をちらと見上げるので精一杯だ。
既に僕を恐ろしい目つきで見下ろし、躊躇いなく右の前脚を振り下ろす。
一切の反応が出来なかった僕は、大きな爪が耳に触れる所で、ようやく半歩下がった。
それが最大の対応だった。顔面への直撃を避けた凶器は、口の周りを縛った鎖の傷を深々と抉って喰い広げる。
「ぅぎゃあっ!?」
悲鳴を上げて、目の前を迸る鮮血に思わず目を閉じる。瞼の裏に、在りし日が揺らぐ。
…いや、目を閉じちゃだめだ。
遅れて走る傷みに怯みそうになりながら、僕は追撃が来ることをすぐさま察知した。
果たしてそれは正解で、彼は姿勢を低く構えなおし、僕に向かって大きな口を開いて噛み殺そうと襲い掛かって来る。
もうばれている。そのように動かれると、先のような小さな一手では回避のしようがない。
やむなく僕は最も消極的な応戦の形をとった。前脚をふわりと浮かせ、形だけは相手を迎え撃つ。
突っ張った両前脚のどこかが相手に触れれば、そのまま押し倒されて終わるはず…。
とても組み合うような体格差じゃない。まともにやり合えば、簡単に潰されるだろう。
劣勢には変わりなかったが、牙に貫かれずには済むはずだ。
しかし、そんなことは、あちらも百も承知なようだった。いち早く口をばくんと閉じると、冷静に腰を下げて重心を頭から胴へ送り、前脚を自由に動かせる姿勢へと身体を操る。
がら空きになった僕の顔面目がけて、強烈な一撃を狙い澄ました。
「ひぎゃあああああああっ!!!」
僅かに捻った身体、左肩から首にかけて、冷たい感覚がじわりと広がる。
ボールのように弾き飛ばされ、何度か転がる。
悲鳴に反して、痛みがない。命の危険が、差し迫っていた。
「ぁぁ…ぁぅ…ぅぅ…。」
悲しいことなんて、いくらでもあったのに。
怖くて堪らなくて、涙が止まらない。
ショックで起き上がれない。身体が言うことを聞いてくれない。
決着はあっさりとついた。
このような場を設ける必要なんて、どこにもなかったはずなのに。狼は臨戦の構えを解くと、大急ぎで傷ついた子狼のもとへ駆け寄った。
こんなにもこの子を痛めつけてしまった自分を激しく責めた。とてもまだ小さな相手にすることではないと言うのに。ただ狼の矜持を守りたいがためだけに、なんと辛い目に遭わせてしまったか。
…それにしてもまさか、降参しないだなんて。
あんなに怯えていながら、腹を見せて転がり、服従の意を示すことすらしないとは。
心から驚いたぞ。なんて勇敢な狼なのだろう。我がそうせずとも、きっと立派に育つだろうな。
さあ、こんな馬鹿げた芝居は終わりにしよう。早く介抱するんだ。
気が付けば、あの狼が、僕のことを悲し気な目で見つめている。
ああ、僕、駄目だったのかな。そのとき直感的にそう感じた。
どのようにかは分からなかったが、僕はこの狼さんの期待に添えるような狼ではなかった、みたい。
あんなに手加減してくれたのに、ごめんなさい。
ひょっとしたら、狼であるとすら、認めて貰えなかったんじゃないかな。
見上げた顔に、もう先ほどのような戦意は感じられず、それが失望の色のように思えたからだ。
恐らくは、試されていたのだろうと思う。僕がこの狼に付き従うに足る存在であるかを。
狼であることを示す、か。
「…。」
そう、か。
彼は恐る恐る僕に顔を近づけ、そっと傷口の血を舐めとった。
それがもう、僕をこれ以上傷つけるつもりがないことの現れなのは簡単に理解できた。
僕、どうなっちゃうんだろう。
こんな僕じゃあ、この狼さんは拾ってくれやしないだろう。
また結局、一匹でこの森を彷徨い歩くのかな。
それは嫌だなあ。僕、頑張ってこんなに歩いたのに。もう疲れちゃった。
「…。」
鼻面に出来た大きな傷跡に、舌が傷まぬようそっと触れようとする。
“ガゥッ…!!”
その瞬間だった。
僕はかっと目を見開き口を大きく開けると、恭しく差し出された彼の鼻面に向かって思いきり齧り付いてやった。
「なっ…!?」
完全に不意を突かれた狼は、無防備だった自分の顔面を牙で深々と貫かれ、甲高い悲鳴を上げる。
驚いて仰け反るところで口を離し、ばっと後ろに退いた。
口の中が変な味がする。牙から滴り落ちる血が、自分のものでないことに、今だけは泣かずにいたい。
「貴様っ…!!」
急襲の理由が飲み込めず、痛みに片目をきつく瞑りながら狼は猛った。
“…やっぱり。”
「…?」
“さっきまでと…動きが、全然違う。咄嗟に動いた方が断然速いや。”
やっぱり、本気を出していなかったんだな。
「…何を戯けたことを抜かしている?もう良い、もう終わりだっ、こんなこと…。」
“いいや…。まだだ、まだ終わっていない。”
僕は息を深く吐くと、震える四肢に言い聞かせて、先ほどまでの彼の構えを真似た。
「…何?」
突如として臨戦の意を示す子狼に、彼は動揺を隠せない。
「…そなたを傷つけてしまったこと、本当に済まなかった。もう、良いのだ。我は…我は戦う気など、毛頭なかったのだぞ?もう主は…」
“グルルルルルルルルァ…”
僕は、人間たちにしてみせたよりも、もっと迫力のある声で唸り声をあげた。
そうか、二つの言葉と世界があるというは、こうも便利なことだったのか。
「頼む…聞いてくれ…。」
まだ、仕返しが済んでない。とても、とても痛かったんだ。
手負いの獣は、手強いんだぞ。




