30.手負いの獣 3
30. Wounded Pridemate
その狼は、川辺で目にする自分の姿と本当によく似ていた。一つだけ違うことがあるとすれば、僕よりも一回りも二回りも大きくて、こちらからは見上げるほどの体格を備えていたことぐらいだ。
僕がこの調子で大きくなり続けたなら、こんなかっこいい狼になれるだろうか。
“ほう、これは…。”
その狼は、同じ獣にしか分からぬような言葉で、話しかけてきた。
“招かれざる客、と言ったところか…。”
牙こそ剥かなかったが、その眼は僕をしっかりと捉えて離さない。
少なくとも、歓迎はされていないようだ。当然だ、あちらからすれば、僕は突然やって来た侵入者。警戒しない方が不自然である。
「こ、こんにちは…。」
敵意はないことを示したくて、僕は震える声で挨拶をすると、礼儀正しく彼から目を逸らした。
彼の耳がピクリと動き、再び顔を低く下げると、僕から視線を外さず具に観察する。
この狼が、果たして自分に脅威であるのか、見定めているようだった。
僕にはそんなことは出来なかったから、顔を彼から完全に逸らし、されるがままに、自分の姿を晒して明け渡す。
「…どこから来た。哀れな子狼よ。」
「え…?」
驚いたのは、次の瞬間には彼が聞きなれた人間の言葉を発していたからだ。
この狼さんは、僕みたいに人間と一緒にいたことがあるのかな…?
そう言えば、絵本に出てきた狼は、時折人間を騙すために、会話をしていたことがあったっけ。
ひょっとしたら、人間の言葉がわかることは、僕がこの世界で生きる役に立つのかもしれない。
俄然親近感が湧いて、少し安心する。
あちらが僕に親しみやすい言葉に合わせてきてくれたことからも、それは現れていた。
もしかすると、もしかするかもしれない。
僕はできるだけ声を張って答えた。
「えっと、神様がたくさんいるところから…来ました。」
彼は露骨に眉を顰める。言わない方が良かったかな。
「もうお家が無くって…この森のこと全然わからなくって…お願いします、僕のことを仲間に入れてくれませんか?」
でも正直に言った方が良い気がして、僕は情に訴える。
あちらはいきなりそんなことを願われて当惑気味だ。しかし状況を把握しようと、優しい口調で迷子の狼に問いかける。
「…他の家族はどうした?」
「かぞ、く…?」
「主が一緒に暮らしていた狼たちはどうしたと聞いているのだ。」
思わず言葉に詰まる。段々と、僕が普通じゃないことに気づき始めたからだ。
どうしよう、なんて答えたらいいのかな。
伏せておこう。二人は人間ですなんて言ったら、絶対怪しまれるよね。
「お母さんと、お父さんは…。」
「うぅっ…うぁっ…わぁぁっ…」
せっかく、忘れかけてたのに…。
二人の顔を思い浮かべたのは久しぶりだった。この森を歩くようになってから、できるだけ思い出さないようにしていた二人の顔は、最後に僕を見つめていた顔ではなく、悲しいぐらい、優しくなっていた。
それは、僕がとうとう現実を受け入れて、二人のことを思い出にしてしまったことを意味していた。
「どうした…主よ…。」
突然泣き出してしまった僕に狼狽え、彼はますます声を和らげる。
「もうおらぬか…。済まなかったな…。」
そこには、同情の念がありありと滲み出ていた。
でも彼は勘違いをしているようだった。僕が人間のいるところから逃げてきたと言ったから、お母さんとお父さんは、そいつらに殺されてしまったと思っているのだ。
僕が傷だらけで、今にも倒れそうな姿であることにも符合する。
ありがとうございます。優しいんですね、狼さんは。
僕は一瞬、彼の優しさを無下にしたくなくて、そのまま頷いてしまいたくなった。そうしたら、狼さんは僕のことを助けてくれるかも。もうひもじくて、寂しい思いをせずに済むかも。
そうでなくても、この狼さんは悪い狼じゃないってわかった。
出会えて本当に良かった。
だから、僕は自分のことをもっと聞いてほしいと思ったんだ。
「…お母さんと、お父さんはぁ、今も…きっと、元気です。」
「…何?」
「…お、お母さんとっ、お父さんはぁっ…僕のことが、嫌いでしたぁっ!!!」
「…!?」
「僕はっ…僕は、悪い狼だったから…!!」
「っ…うわあ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛…。」
僕は、彼が困り果てるのを知らないまま、わんわんと大声で泣き続けた。
もう耐えられなかったのだ。
お願いだから、助けてよ。
お母さんやお父さんじゃなくても良いから。
こんなの、僕じゃあ抱えきれない。
びええと耳障りな音を立てて号泣している僕を見て、彼は一切の言葉をかけられないままでいた。
何があったとしても、それは悲劇だったに違いない。この子をどうするかはもう決まっている。
やがて彼は、目の表情すらも警戒の色を落として、しかし威厳ある口調で、僕に聞こえるよう言い放った。
「良かろう…。主の願い、聞き入れたぞ。」
はじめ、僕はそれが慰めの言葉ではないと思って、泣くのを止められなかった。
しかしそれが、僕にとってどれだけ希望に満ちた言葉かがわかったのは、あの狼が、こちらにゆっくりと歩いて来たからだ。
「えぅっ…えぁっ、う…いい、の…?」
「我は、主が思うほど悪しき狼ではないぞ。」
僕の顔にそう書いてあったのか、その狼は皮肉交じりに笑いかけた。
それで、僕の中の緊張の糸がようやく解け、思わず笑みを見せそうになる。
「だが、たった一つだけ、どうあろうと避けようのないことがある。」
彼は悲し気な表情をして、わかるな、と同意を求める。
「え…と…なんで、しょうか…。」
ああ、こんな子狼にせねばならぬとは。彼はそう嘆かずにはいられない。
「主が狼であるのなら、此処に主従関係だけは示しておかねばならぬ。」
我と主だけのパックではあるが、入りたくば拒むことはせぬ。
しかしどちらが上であるか、決めようではないか。
「そんな…貴方に従います。僕、何もできないし…。」
「それは残念なことだ。しかし、ならばそう示すが良い。」
示す?一体、どう言うことだろう。
ただ、僕にもこの狼さんの中に、一つの疑念が残っていることだけは読み取れた。
「ぼ、僕、ほんとに一匹なんです。人間のところにいましたけど…!」
ひょっとすると、人間のことをこの狼さんは、良く思っていないのかも知れない。それは僕がどこから来たかを答えたときの反応からも明らかだった。
もしかしたら、敵と見做している誰かと、内通していると思われているのかも知れない。
だとしたらそんな誤解は早急に解きたかった。何があったかは分からないけれど。
…この狼さんも、悪い狼だったのかな?
でも、この狼さんは、人間の言葉がわかる、優しい狼のはずなんだ。
「お、狼さんは…人間のこと、知ってるんですか…?」
「ああ…。知っているとも、子狼よ。」
彼は、固く目を瞑り、何かを振り払うように小さく頭を振る。
“だがもう、今となっては…。”
次の瞬間には、もう僕の声は、届かなくなっていた。
首回りの毛皮を逆立て、鼻の上に皺を寄せて牙を剥く。それは、夜群れを守り、そして率いる長の堂々たる姿だった。
「そんな…い、やだ…。」
低い唸り声をあげると、彼は僕に向かって襲い掛かって来たのだ。




