30.手負いの獣 2
30. Wounded Pridemate 2
ここは、一体どこだろう。
二人がいたところからは、気が遠くなるほどに遠いことぐらいしか、今の僕にはわからない。
涙がこびりついた眼を瞬かせながら、辺りを包む木々を見渡す。
日は疾うの昔に落ちてしまい、月明かりと、耳に囁く住人の息継ぎだけが満ちていた。
僕は、ただただ当てもなく歩き続けた。
そうするだけでも、僕は時折二人のことを思いだしては、声を上げて泣き叫んだ。きっと立ち止まって、少しでも意識を許したなら、森の入り口まで引き返して、別のことを考えようとしただろうから、そうすることしかできなかった。それに、大声で泣いたって、ここには誰もいないんだ。
驚くほど気力は削がれ、他にしようと思えることがなかった。
もしもあんなことが無ければ、きっと冒険じみた散歩にわくわくしながら、歩みもまだ軽やかだったかもしれない。ここには怖い大人も、憧れたお友達もいないから、その目にびくびくせずに済む。辿り着いた先で目にし、耳にしたものを覚え、宝物を口に咥えてお家に帰る。そのことを、家の誰かに報告するんだ。
実際、この森は今まで目にしたどんな景色よりも輝いていた。
ちょっと上を見上げるだけで、木漏れ日の煌びやかなトンネルが余りにも綺麗で、思わず立ち止まって見惚れてしまう。川辺に立ち寄って水を飲んで一息つくと、陽だまりにほっとして眠気を誘われた。
きっと僕のお気に入りの場所になって、事あるごとにここへ訪れては、嫌なことを独白するんだろうなあ。
でも、秘密の場所を、お母さんには内緒で教えてしまうかも。
ああ、どうしてまた、そんなことばっかり、考えちゃうのかなあ。
また涙で目を傷めてしまう前に、生傷だらけの脚を引き摺る。
とにかくお腹が空いて、疲れ果てて、倒れて、何も考えずに眠れるまで、歩き続けるんだ。
自分がおおよそ、狼としての資質に欠けていることは否応なしにわかった。
何より、ここが狼の生きるべき土地だったのだとしても、僕はこの森が怖くて怖くて堪らなかったのだ。
ただでさえ、怖いのは嫌いなのに。僕が安心できる温もりがどこにもない今、耳は低く身を伏せ、尻尾は簡単に股の間へと逃げて行く。
目が冴える夜の帳の中であっても、常にまだ見ぬ森の主に怯えながら、ほんの些細な異変にも跳び上がらんばかりに驚いてしまう。臆病な自分に身を寄せてくれる記憶も、今だけは頼りにならない。
当てのない道中で、何度か僕より一回り小さい動物を目にした。その足音はもっと聞いた。だけれど僕の気配を認めるや否や、皆踵を返して走り去ってしまったのだった。何処に行っても自分は同じように扱われてしまうのかと思うと無性に悲しかったけれど、表情が人間のようではなく、また対話をする術もないのは、寧ろありがたかったかもしれない。
だって、お腹が鳴って、涎が垂れてしょうがなかったんだ。
本能的に、僕はあれがこれからの生きる糧になるのだと悟った。
僕がいつもお腹いっぱいに食べていた、あれがこんな動物たちだったなんて。僕は知らなかった。
走れば追いつけそうだったけれど、それからどうすれば良いのかが、全く想像できない。どちらかと言えば、その生命の奇跡をまじまじと見つめているだけで満足だと言うのに、それを追いかけて、絵本で見てきた狼たちのように丸呑みにするなんて、出来る気がしなかったのだ。
だから、僕は、腹ぺこのまま、歩き続けた。
一度だけそれに耐えかねて、本当に小さな鼠を頑張って捕まえ、丸呑みしてみたけれど、お腹の底あたりが気持ち悪くなるだけで、空腹を紛らわせる目的だけしか果たせなかったのでやめた。
かれこれ、何日歩いただろうか。
森の中をひたすらに彷徨い続けるだけ。流石に、疲れた。
少しづつ、少しづつ、自分が衰弱しているのがわかる。
でもそれは、ある意味で狙い通りでもあった。
僕は、一匹でいる時間が多かったから、たくさん本を読んできたんだ。
だから知っている。
この森には、悪い大狼がいるに違いないということを。
だから、歩き続けるんだ。
ある日の朝、それは確信に変わった。
尿意を催して、何の気なしに大樹へ向かって左後ろ脚を上げようとしたときのことである。
付近の草むらに、動物の糞が転がっていたのに気が付いた。
その形状や量が自分のするようなものと同じだったから、ぼんやりとした頭が醒めて、とても驚いた。
放尿するのを抑え、顔を近づけて匂いを良く嗅ぐ。
それは干乾びてはいたが、自分がするような糞と同じにおいだったのだ。
まさかと思い、自分がひっかけようとした木の根元の匂いも具に調べる。
「…。」
僕には、ある予感があった。
僕と同じ狼が、この森で、生きている。
そして、僕はその狼もうすぐ会えるのではないか、と。
僕は、この森を歩き続けながら、こんなことを考えていた。
僕を放り出すぐらいの場所なのだから、この森にはどんな生き物がいるか分からない。それに、人間が住みつかないということは、少なくとも安全で穏やかではなさそうだ。
もしかしたら、僕は命を脅かされることにだって、なるかもしれない。
僕は、それを寧ろ肯定的に捉えようとしていたんだ。
どうしようもなくこの現実が辛くて、死んでしまいと思うことがあったとしよう。
でも僕には、自ら命を殺めるような勇気も、覚悟もなくて、とてもそんなことはできない。
だから、生かされているだけの漠然とした日々の中で、こんな風に望んだことはないだろうか。
誰かが、都合よく僕のことを殺してはくれないか、と。
それは、とても虫の良い願望だった。自分で終わらせる意気地もないから、代わりに誰かにそうして貰おう。
しかも、それが不可抗力で、自分にはどうしようも無かったような事件であったなら、なお良い。ただ他人の目には可哀そうに映るだろうし、僕は何の非もなく、後腐れもなく目的を全うすることが出来るからだ。
だから、僕は、その狼さんに、襲われないかなと期待しながら、夜通し歩き続けていたんだ。
その狼は、きっと僕のことを喜んで喰い殺してくれるから。
それで僕も万々歳だ。それで終わり。
こんなに楽な話はない。ただ歩き続けて餌の匂いを撒き散らすだけなのだから。
でも、ほんのちょっとだけ。
その狼さんと、はじめてのお友達になれたらいいな。なんて。
そんな期待も、抱いていた。
自分でもばかみたいだと笑ってしまうけど。
だから、僕は弱っていくのを気にせず、歩き続けていた。
ある曇り空の昼下がり、僕はあの場所へ辿り着く。
一度眠ったならば、もう二度と起き上がることが出来そうにないほど、僕は身体から命が失われているのを感じていた。
風が吹くだけで、身を削られるように寒い。震えながら、開けた草地を見渡す。
最奥には、大きな洞穴が鎮座しており、間もなく僕を襲うであろう雨風から身を守ってくれそうだった。
良かった、ここでもう休んでしまおうかな。たどたどしい一歩をなんとか踏み出し、中央へと進み出る。
これが、最初で最後の出会いだった。
暗闇の奥深くに輝く眼、少しずつ輪郭が露わになっていく。
それは、眼を疑うほどに、鏡写し。
頭を低く下げてこちらを窺いながら、
僕と同じ毛皮を纏ったあの狼が、姿を現したんだ。




