30.手負いの獣 1
30. Wounded Pridemate
ざらざらと鎖が擦れる音が響いたかと思うと、僕は檻の中から横たえた身を引き摺り出された。
あの怖くて痛い棘が毛皮のあちこちから引き抜かれ、縛り上げられた身体が自由になる。
それでも、もう一切の気力を奪われた僕は、その場で暫く死んだように動かなかった。
「…立て。 悪しき狼の子よ。」
知らない男の声がする。
もう僕に対して何ら遠慮する必要が無いからなのか、彼は堂々とその名を獣に向かって言い放つ。
違うよ、それは僕の名前じゃない。
それとも、そんな呼び方をする方が、僕が反応すると踏んだのだろうか。
顔を僅かに擡げ、片眼を開く。
途端に男は、手に持った武器の切っ先を僕に向けて構えた。声の主に加えて、他にも相当な数の兵士がいる。
とても衰弱した一匹の獣に対してすることじゃない。もとより、何の力も持たなかったと言うのに。
これ以上、痛い思いをしたくはなかったから、僕は言われた通りに身体を起こした。
全身を激痛が襲い、気を失う最後の風景が引き金となって甦る。
それは記憶であるのに、二人の顔がぼやけて上手く映らない。
もう頑張る必要もないと思ったけれど、力の入らない四肢を突っ張り、なんとか立ち上がった。
それだけで周囲に緊張の空気が走る。一度前足を折って崩れると、過剰に反応し、より武器に力を込めて殺気立った。
檻を背にして囲まれていると言うのに、もう僕が何もできないと思うどころか、狡猾にも喉元に噛みつく機会をうかがっていると身構えているようだった。それとは対照的に、僕は無防備にその場に立ち尽くす。
せめてもう、何もできないよと示して、痛い思いはしたくなかった。
…いいや、こんな僕でもわかる。
きっと僕は、今から殺されて死んじゃうんだ。
せめてあの場で殺さずにおいたのは、母さんと父さんが辛い思いをしないようと言う優しさだからか。
ただ単に、公衆の面前で血生臭い光景は見せられないと文化人を気取ったからか。
随分と遠い所へ連れてこられたようだけど、差し詰め、ここは処刑場か何かなのだろう。
自分の方からは出来ることは何もなかった。言われることがあったなら、良い子にその通りにしようというぐらいか。
僕が無抵抗なのを確認すると、前方に並んでいたひと際屈強な男たちが、構えた武器を下ろすことはせず、ゆっくりと脇に退く。
今更何の興味も湧かなかったけれど、それを僕は黙って見守っていた。
虚ろでぼんやりとした眼に入ってきたのは、鬱蒼と茂る草木と、先の見えない深い闇。
それが、この森の入り口だった。
「…狼の子よ、お前はこれから此処で生きるのだ。」
…え?
「この森はお前のものだ。さあ行け。」
…この森で、生きる?
それが、つまりは追放だと言うことを僕は飲み込めずにいた。
ここで、できるだけ幸せだった記憶を抱きかかえて八つ裂きにされるのだと思い込んでいたからだ。
それに、処刑を免れたからと言って、さして未来はこの森のように明るくは思えない。
一匹で、何も知らない世界を、僕はどうやって生きたら良い?
美味しいご飯も、眠るのに欠かせなかった毛布も。
本と玩具に溢れかえっていた、心休まるあの部屋も、懲りずに何度も赴いては、子供たちと遊ぶ空想に浸った、あの公園も。
僕の大好きな母さんも父さんも、この森にはいない。
思い浮かべただけで、干乾びた眼が潤んで痛む。
この森にそんなものが一つもないことは、僕にでもわかった。
無理だ、できる訳が無い。
だけれど、それから来る恐れと不安よりも、僕が楽しいと思い込んでいた日々から完全に切り離され、もう二度と戻れないことへの深い絶望が、目の前を真っ暗に覆いつくした。
「…さあ、行くのだ。」
微動だにしない僕を見かねたのか、先の男がもう一度促す。
それが少しずつ警告の音を帯び始めているのを僕は感じていた。
きっと言うことを聞かなければ、この怖い人たちに、もっと酷い目に遭わされる。
僕がこの森に足を踏み入れ姿を消すのを見届けるまで、ここを立ち去らないつもりなのだ。
そこまでしなくたって良いのに、ちゃんと言うことぐらい聞くよ。僕は良い子なんだから。
僕が二人のいたところへ帰ろうとするとでも思っているのかな?
それでも朦朧とした頭で考えた。できるだろうか?
今ここでぱっと駆け出して、この人たちよりも速く走って、逃げて、逃げて、逃げて…。
もう一度だけ、母さんと父さんに、会いに行けるだろうか?
それで最後で良い。二人が笑っている顔を見て、頭をぽんと撫でてくれたら、それだけで良いから。
それで…もう良いから。
だって僕は、もうあの頃の暮らしには戻れないんでしょ…?
二人だけが唯一の支えだった日々さえ、終わってしまったんでしょ…?
だって、母さんと父さんは、
僕の、ことが…。
だから僕は、もう二人に会いに行くことすら、出来ないんだ。
残された道なんてない。
従順に歩くしかないんだ。
傍らで実は一番恐れの感情を隠せずにいたその男が痺れを切らしてしまう前にと、僕はおずおずと前脚を差し出した。
すかさず男たちは、武器を構えなおし、狼が変な気を起こさぬよう警戒する。
言われた通りにするだけなのに、怖くて足が竦んだ。
どうしてみんな、そんな眼で僕のことを睨みつけるのだろう。
でも立ち止まったら、もっと怖い顔をするんだろうな。
恐怖を紛らわしたくて、二人の顔を思い浮かべて、またそこから目を逸らしたくて、現実に逃げ帰ることを繰り返しながら、僕は一歩を踏み出した。
地面の感触が、痛みへと変わる。もう次の一歩が引っ込んでしまい、情けない嗚咽を必死で押し殺す。
それでも引き下がることなんて出来ない、行かなくちゃと傷だらけの足を棒切れのように引き摺る。
兵士たちに見守られ、ゆっくりと、とぼとぼと、僕は目の前に敷かれた小道を進んで行った。
まるで歩いたことがないようだった。
随分と長い時間をかけて、ようやく境界とも言える茂みの入り口に立つ。
あと、一歩、一歩だけ歩いたなら、それで許してもらえそうだ。
「……。」
だけれど、どうしてもその一歩が踏み出せない。
この森に足を踏み入れたなら、本当にもう、僕は戻れなくなっちゃうような気がしたからだ。
それが、この現実を受け入れて、僕が悪い狼であることを認めることになるのなら、もうそれで良いかなとは思う。僕が声を張り上げても、それは仕方がないことだ。二人を困らせたくなんかないし、それぐらいの聞き分けはある。
もしもこれが、小さい子への罰の類であって、僕がこの森で一生懸命に生きて、立派で良い狼になれたなら、最後には皆が笑顔で迎え入れてくれるような、そんな試練であったなら、どれだけ良かっただろう。
僕はきっとそれを一縷の望みとして、二人のために頑張って生きようと踏み出せたかもしれない。
でも、仮にそうだとして、いつになったら二人に会えるの?
誰かが、僕のことを迎えに来てくれるの?
それまで、僕はずっとこの森で、一匹狼なの?
湧いて出る疑問が僕の尾を引く。
僕には何も選べないと言うのなら、それで構わない。
だけど、だけど本当に、もう会えないの?
二人が僕のこと嫌いでも、僕は…僕は母さんと父さんのこと、大好きだよ?
どうしても、駄目なのかな?
もう、後ろを振り返ることなんてできない。
ちょっとでもそうしたなら、僕は駄目だと分かっていても、子供のように泣き崩れ、どんな行動に出たか分からない。
だから、僕は、言わなくちゃならないんだ。
「…一つだけ、聞いてくれますか?」
それが僕の最後の抵抗だと思ったのか、後ろの気配に動揺が走る。
「…良かろう。申してみろ、狼の子よ。」
先と同じ声の主が、その雰囲気を制す。僕に言い残すことがあるのなら、そうさせてくれるようだった。
僕は、震える息を吐き気に感じる前に、それを腹の底から喉へと送った。
「グルルルルル…」
それだけで、場の空気が一変した。
初めてにしては上出来な唸り声に、思わず兵士たちはどよめき、一歩後退り、息を呑み、武器を握りしめる。これはどういうことだと互いに目で会話をし、自分たちは大丈夫だと必死に確かめ合う。
「…いいか、良く聞け。」
「…ここは、…此処は、おれの森だ…。」
「この森は、狼のものだ! この森には、狼が潜んでいるからな!」
「俺は、この森の…おおかみだ…ぞ。だぁっ…だからぁぁああああっ!!」
「だからぁぁあああああああああああっ!!」
「二度と俺の前に姿を見せるなぁあああっ!!…この森に入って来るなあぁああああっ!!!!!」
「…。」
「聞こえてるのかっ!? この約束を破ったならぁ…どうなるかっ…わかってるなぁ!?」
「わかっているかと聞いているんだぁっ!!!!!」
「…わ、わかった…そう、伝えて、おく…。」
ようやく返ってきたか細い声が耳に届いたのは、僕が森の中に完全に姿を消して、どうにか歩き続けているのだが、もう糸は途切れてしまった時だった。
怖かった。もう二度とやりたくなんかないや。
でも、少しは狼らしかったかもしれない、かな。
リズムに合わせて、どこか楽し気に歩くのに、涙だけがボロボロと零れて止まらない。
「ばいばい…かあさ…ん。ばいば…いぃ…とお…さ…ぁぁ」
「っっ…ぅぁぁああああっ…わあ゛あ゛あ゛あ゛あ゛ん…。」




