29.遠くへ 2
29. Miles to Go
吐いた息は、見上げると思った通り白かった。
思いがけず寒い夜を迎えることとなったが、夕食を済ませた後は敢えて篝火を絶やしておいた。
何となく月明かりに水を差したくなかったからなのだが、彼が傍らで自分の胴を背もたれにしてくれたので、それに埋もれていれば大丈夫だろう。尻尾を被せてくれなかったのは、先刻のこともあるので仕方がない。
夜が更けると、満月は一際大きく、また不気味なほど輝きだした。もう道中に見上げたときのような鈍くて弱い銀の色ではなく、怪しく生を帯びた卑しい金の光を放っている。彼の言った通り、その様には魅入られてしまいそうで、また別の寒気を覚えるほどだ。
けれども食後の談笑と言うにはあまりにも張り詰めた空気で、今はただ月見に思いを馳せていたい。
俺はもう一度、同じように満月を見上げる狼の姿を眺める。
Fenrirにそっくりな、この狼の正体はもうわかっていた。
彼が最も慕い、追い続けてきた同志であり、この旅の道中で幾度かその姿を垣間見てきた。
名は、何と言うのだろう。
始めは、Fenrirが二重人格であったのかと驚いた。半ば彼の過去を辿るかのような道を歩むにつれて、その深層に眠っていた彼のもう一面が目覚めてきたのだろうか、と。もしかするとこの森を長く生き過ぎたせいで、彼の空想に誇り高き王の自我が芽生えたのかも知れない。Fenrirは、彼が思い描いた理想の狼としてこの森を闊歩し、自らの行いを改めて追い求めている、そんな不思議な話があってもおかしくないではないか。
彼が一匹で作り上げた物語にしては、如何にも古風な口調も、彼が読み耽ったであろう書物の影響と考えれば、幾らか合点がいく。しかし、それは一匹狼の彼が演じる、余りにも可哀想な独り舞台で、何より彼がそのように自覚していないことに心が痛んで仕方がない。
不自然な点は勿論残った。これではあの壁画にあった狼は、誰が描いたことになるのだろう、Fenrirは自分以外の誰かと既に交流を深めていたことになるが、それはここ十年かそこらの出来事になる。もしかするとその人物はまだ存命な可能性すらあった、しかしそのような噂は耳にしたことがない。
そして、Vesuvaはあの様子からして、Fenrirがこの森に来るより前に滅んでいる。狼の襲来が意志を持った土地を産んだことがどうやら正しい以上、これが最も不都合な点となった。
だからもう一つの仮定は、Fenrirに降霊の類の神業が起きたと考えることだ。
こうして実際に目の当たりにするのは初めてだが、あり得ない話ではないし、実際にそのような御業を行う神もいると聞く。思い返せば、こうして偉大な狼が取り憑くことを、彼は予め心得ていたようだと思えなくもない。もしそうだとしたら、彼に別の狼が宿る引き金となるのが、満天の空に浮かぶ月の魔力なのかも知れない。だから、その存在が最も近く感じられるこの場所で、彼は俺と語らうことを望んだと考える。一応筋道は通っている。
そうなれば、今の自分にできることは、残り少ない夜明けまでの時間を、彼の口から語られる真実にできるだけ耳を傾けることに充てるぐらいしかない。
初めまして、かな。
でも、俺は、あなたのことを知っている気がするんだ。
だから、俺はFenrirに向かって話しかけるつもりで、いつものように喋るようにしようと思う。
「Fenrirは…満月の夜は、一匹でいつも何をしていたの?」
「…?」
口火を切ったのは、ふとした疑問に見せかけて、ずっと聞いてみたかったことだ。
だって、満月の夜に狼がすることなんて、一つに決まっているじゃないか。
しかしFenrirは、どこかはぐらかすように、それに取り合わない。
「どうもせぬ…。ただこうして、眠れぬ夜空を見上げていた。」
「そんな。でも、特別な夜だという気分にはならない?」
「それはそうだが…。」
「何だかさ、自分が強くなったとか、力が湧いてくるみたいな、そんなことは無いの?」
ふふん、主はおかしなことを言うと彼は目を細めて笑った。
「まあ、そんな心持ちに、ならなくもない。」
そう控えめに答える彼の姿は、いよいよ神々しく、今まで見上げたどんな彼よりも立派だ。
どういう訳か、彼の毛皮はもう一枚のマントを身に纏ったかのように大きく、時折照らされる羽織った白い毛先が彼をより誇り高く見せている。今は彼のものではない眼に湛えた光は青白く、そこには別の月を見た。
こんな狼に真夜中の森で出会ったなら、まさしく神の遣いだと恐れ戦いたに違いない。
Fenrirをそう足らしめているのが、この満月だと言うのなら、彼は覚醒しているという自覚があっても良いと思うのだ。自分は今宵だけは特別で、どんなことでも成し遂げられる、伝説の狼だと自惚れてなお足りない程の。
そして、この抑えきれない感情の昂ぶりを、表現してみたくはならないか。
「ねえ、Fenrir … 遠吠えをしてみてよ!!」
彼はひどく驚いた表情を見せた。
「遠吠え…だと?」
「うん。やっぱり狼と言えば遠吠えでしょ?一度で良いから生で聞いてみたかったんだ!」
決して姿を見せない声の主も、今宵は目の前にいる。願いを叶えるにはまたとない機会だ。
「一匹狼は、遠吠えをせぬものだ…。」
「でも、今夜は俺がいるよ?」
そう渋る彼の声からは、隠し切れぬ狼としての誇りが滲み出ていた。
もう一押しするだけで、きっと折れてくれるとすぐに分かった俺は、即座にそう返せて良かったとほくそ笑んむ。
「ね? うたってくれないかな、狼の歌を。」
「…。」
はてさて、どうしようかなどという表情をしているが、これはもうしょうがない奴だと言っているようなものだ。
やった、俺は冷たく澄んだ夜空に、狼の叫びが響き渡るのを想像した。Fenrirともなれば、これはもう彼が朗々と吠える様を見て鳥肌立が立つことは間違いない。
「あ、でも待って! 俺に先にやらせてくれない?」
「…主が、か? 」
話を勝手に進めるでないぞ、と彼は制したが、それはすぐに俺の奇異な申し出への興味に変わった。
「我等の他にも遠吠えをする輩があろうとは…。」
「別に、やったことはないんだけどね。でも折角隣に、本物の狼がいるんだもの。もし良かったら、聞いてみて欲しいな、なんて。」
おかしな奴だ、と彼はにっこり笑う。自分でもそう思うから、思わず一緒に笑った。
「…良かろう。人間風情がやってみるが良い。」
「やった! ありがとう。」
なんだか、急にどきどきしてきたな。やってみるとは言ったけれど、昔何度か、森に木魂する群れの遠吠えを人間の世界で耳にしたことがあるだけに過ぎない。想像に精一杯思いを馳せて、叫ぶしかないのだ。
俺は立ち上がってえへんと咳払いをすると、胸いっぱいに冷たい息を吸い込んで、夜空に向けて思いきり声を張り上げた。
ちょっとおこがましいかな。けれど、狼になったつもりで。
「アゥオオオオオー…。」
始めで声が上ずり、肝心の高い音が響かない。でも出来るだけ、息が続く限り、長く、低く…。
「…。」
あっと言う間に息は切れてしまい、最後には少し背を曲げ、腹から吐き出すように絞り出す。
その直後には、森中に響き渡った自分の声の余韻を期待していたのだが、声量もさして足りていなかったのだろう、辺りは既に静まり返ってしまっていた。
どう、かなと彼の顔を窺うまでもない。ちょっぴり残念だったが、所詮は人間の真似事。
それでも彼が、感想の一つでも伝えてはくれないかと、おずおずと振り返るものの、その顔は柔らかい微笑みを浮かべたまま口を開かない。
これだから人間どもは、などと笑い飛ばしてくれれば良かったのに。そうしたなら、本家のために良い花道が敷けたことにできたから。こうやるのだぞ、しかと見ていろ、とさぞ誇らしげにして見せる彼を持て囃し、本物の遠吠えに聞き入るのだ。
今更恥じらいのようなものを覚えて、俺はFenrirの横顔にぱっと飛びついた。
「Fenrir…。」
首元の毛皮に顔を埋めたまま、俺はそう呟いた。
彼は、ゆっくりと立ち上がると、背筋をすっと伸ばして座り込んだ。
一歩退いて、そこに人間はいなかったかのように息を潜める。
顔を大きく仰け反らせ、月を仰ぐ。
胸いっぱいに息を吸い込み、毛皮を膨らませる。
来るぞ。
そのように覚悟した矢先だった。
「ああ…。」
その声はどちらから漏れたのか、分からないほどに虚ろだった。
俺は見たんだ。
彼の首元のあの傷口が、大きく裂けて血が滲んでいるのを。
Fenrirは、遠吠えが、出来なかったのだ。




