31.銀心の帰還
31. Return of Silverheart
Fenrirは、悲しげな表情をして、俺の方を見つめた。
その瞬間、彼にかかっていた魔法が解けた、と思った。
「俺は…狼などでは、無かったのだ。」
首筋の毛皮を伝う黒い血から、目を逸らすことが出来ない。
そんな。
彼の言葉が真実であったとするならば、目の前にいる狼は、俺が初めて出会ったときからずっと、Fenrirでは無かったのではないかという、脳が揺れるような錯誤に陥った。
その傷が、Fenrirが突き立てた牙がつくったものならば、貴方は誰なんだ?
死んだ者は、もう戻らない、はずだろ?
「Fenrir…?」
そのような疑念から直ちに目を醒ましたくて、狼の名を確かめる。その眼はもう紛れもなく彼のものであるのに、どこか拭い去れなくて、消え入りそうな声が震える。
「ほ、ほんとうに…」
喰い殺した…のか?
その言葉がなぜか浮かんで、慌てて口を手で押さえた。恐ろしい光景と吐き気が込み上げてくる。
彼の狼を喰らった、そんな告白だけでさえ、俺は耐えきれなかった。
願われても、共喰いなんてしたくない。
ましてやようやく出会えた、たった一匹のそれを引き裂けるだろうか。
涙で顔をぐしょぐしょに壊しながら、ごめんなさい、ごめんなさいと詫びながら、狼の亡骸を口に運ぶFenrirの姿がありありと描き出され、俺はきつく目を瞑った。
それでも消えてくれなかったのは、彼が狼の命を奪うその瞬間。
もし、もしもFenrirの首筋にこびりついた傷が、あの狼の牙によってつけられたものであったならば。
Fenrirが満足のいくまで、ああ、苦しいぞ、もうすぐ死ねるぞ、狼の憧れを追えるぞと凶器に首筋を突き立てるためには、あの狼が、口を開いてくれきゃならなかった。
彼に、その口を開いてもらうためには。
彼の望みに、答えるしか、ない。
「…何度呑み込もうとしても、その度に吐いた!」
「どれだけ頑張っても、嗚咽が嘔吐へと変わって行った!」
「わかるか!?痛みに呻くのを聞きながら肉に齧り付いた俺の気持ちが!?」
「あいつは!俺が満腹になるまで、頑として口を開かなかったんだ!!!」
「俺は…俺はあの時、どうすれば良かったんだ!?」
「なあっ!?Teusっ!?」
もう自分が人間の仲間だと感じられなくなってしまった俺は、せめて狼でありたくて、彼の言うことは何であっても従うと誓った。
そうすれば俺も、幸運にも出会えた、たった一匹の狼である彼に認めて貰えると、そう信じたかったのだ。
だから約束を守った。
彼も、守ってくれた。
それなのに、今となっても、俺の中には不安げな怪物が這いずり回っている。
どうしても、俺は自分の選択が、彼を殺し、そして自分だけが生き延びたことが、俺の望んだ人間の否定としての狼に思えない。
それは何故だと思う?
俺が、あの狼の後をついて行くことが出来なかったからだ。
俺は、彼に従うと決めたのに、それすら成し遂げられなかった。
違ったのだ、結局どれほど狼の名を気取っても。
あの牙の力を借りても…俺は自分を終わらせることが、出来なかった。
意気地のない怪物だったよ。
道など残されていなかった俺は一体、果たして別の生き方を選べたのか?
死ぬことで、怪物でない生き方が、一瞬だけでもできたことになったのか?
今佇んだことを受け入れ、その道を歩もうとしなかった俺には、思いを巡らせる力すら乏しい。
そんな怪物であっても、俺を生かしてくれたあの優しい狼のことを、俺は恨みたくなんてない。
わかってくれ、とは言わない。だが俺は生かされた意味を、まだ狼であることに見出せると思ったのだ。
矛盾しているだろう?俺の本質が変わることはもはやあるまいに。
それなのに、もういない彼の立ち振る舞いを真似て、少しでも近づきたいと苦心したのだ。
ああ…勿論だ。
狼であるならば、遠吠えだって立派にできねばなるまい?
俺は、何度も何度も練習した。教わる相手など、此処にはとうにいなかったにも拘らず。
どうしてであろうな。
ただ俺は、その意味など知らずに、声を枯らして吠え続けた。
望んだような声が出なくて、きっと俺は、何度もあの狼を失望させたであろうな。
来る満月の夜のたびに、遠吠えを披露したのだ。此処で、ちょうど今宵のような夜空に。
お前は、高い音を続けるのが少しばかり苦手なようだな。
あれは実際、喉が抑えつけられてとても難しいことだ。初めてにしては上出来であると褒めておくぞ。
まだまだな、と鼻で笑うと思ったか?
俺も、同じところで、何度も、何度も躓いた。すっと吐き出されるような音でないことは、自分が一番良く分かるから、尚更そこが気に喰わなかった。どうしても出なくて、何度投げ出したことか。
それでも歌い続けた。何回も、夜空に向かって声を重ねた。
次第に、躓くことも減って…。
初めて上手く遠吠えができたかなと、そう思ったときに…。
Fenrirは、そこで初めて言葉を詰まらせた。
あの狼は、俺に…。俺によく頑張ったな、と…。
確かに言ったのだ。不思議だったが、確かに俺の中に、彼がいる気がしたのだ。
どれだけ強くなれたか。
Teusよ、笑ってくれ。俺はちょっと褒められただけで、生きている意味があるような心持ちになれる、単純な奴だ。縋ることのできる存在になりたいと、俺は心から思うのだ。
あの狼に、なりたい。
…そして、得意がっていた俺の喉を喰いちぎったのは、一体何だったと思う!?
滑稽にも、自分自身だったのだ。
俺は、狼であることにのめり込むあまり、同時に怪物から逃げようと必死だったのだ。
おかしいだろう?あの狼がつけてくれた傷跡が、俺は愛おしくてたまらないのだ。
それを愛撫せずにはいられなかったのだ!
それをもっと大きく広げれば、俺は怪物から離れられる気がしたんだ。
気持ち良いなどとは微塵も感じなかったが。満足はしていた。
だんだんと、俺の声は頭を反らしたときに掠れた。
また高い声が出せなくなって、喉が締め付けられるようになって…。
遂には、出来なくなった。遠吠えが。
「Teusよ、本当なのだ!俺はできたのだ、できたはずなのだ、遠吠えが…!!」
Fenrirは必死の形相で、俺に顔をぐいと近づけて迫った。
その狂気じみた様子があまりにも怖くて、口をぶるぶと震わせ、俺は弱々しく首を振る。
もう、夜に吠えることの出来ぬ獣など、狼ではない。彼は楽し気に続けた。
「また怪物に変身してしまう、その前に、俺は最後の希望に賭けたのだ。わかるな!?」
希望、だって?そんな呼び方を、どうかしないでくれ、お願いだから。
「俺を利用して死んでいっただなんて、そんなことは思わない。だが…彼のように、苦しみ、もがきながら生きる日々もきっと終わる。」
「俺は、お前を待っていた…!!」
「俺がお前に本気で迫ったならば、俺が彼にそうしたように、お前が俺を、殺してくれるだろうと思ったのだ!!」
「…。」
まただ。またFenrirは、本気で自分が死ねる機会を喜んで笑っていた。
きつく目を閉じれば、その声が届かないと思う子供のように、俺は彼の怒号を遮ろうとする。
やはり自分が無力だったのだと思い知らされた。
彼を介抱した嵐の夜を思い出す。
あの時も、俺はFenrirを救うことのできるただ一人の友達であることに自信を無くしかけていた。
Fenrirは、怪物でいるのが堪らなく嫌なのだ。
どちらかでありたいのだ。
そして、彼自身は、狼でありたがっていた。
「お前は、俺では無かった!」
「お前は、俺を怪物のまま救った!!」
「心底苦しいぞ、Teus!!」
「何者にもなれぬような存在を肯定されるのは!!」
続けざまに頭を殴られたように、思考がぐわりと揺れる。
ああ、Fenrirの心の奥底をぶつけて貰えた、そんな気がする。
本当はわかっていた。彼が狼になりきることのできない、たった一つの原因が自分であることを。
それは、Fenrirが初めて怪物であることを肯定されてしまったことに戸惑いを覚えたからだけではない。
後ろ尾を引かれる心残りは、俺と出来てしまった細い繋がり。
何度か人間の世界を彼に垣間見せて、満足もしていたけれど。
互いの世界があって、良いと今は考えてる。
此処しかないと、俺は懐からあるものを取り出した。
「Fenrir、俺は、出来ることならFenrirには狼としての道を歩むように応援したいんだ。」
整わない口調を落ちつけたくて、一度生唾を飲み込み、彼の方を見つめる。
狼であることが、そんなに苦しいことでなくちゃならないのか、俺には分からない。
まるで狼であることが、悪いことだと思っているみたいだ。でもそうじゃないだろ?たとえ他の人間が君のことを悪い狼であると思っていたとしても、Fenrirが出会った、立った一匹の狼は、少なくとも君にとっては憧れの、優しい狼だったはずだ。
何も、怪物なFenrirが好きだなんて言ってないよ。
「もしも心が既に決まっているのなら、“人間の心を持った優しい狼”は、…この俺が殺しに来たことにしたって良い!」
「…。」
「Fenrirがその鎖から解放されるのなら、望み通りに、俺はFenrirの役を演じてこの森に入門してやる。」
それがどんな意味であるのか、一度よく考えたくなって、互いの間を冷たい風が戦ぐ。
…そのためには、
「Fenrir、これ。」
「それは…?」
彼は暗がりの中で差し出した手のひらに鼻を近づけた。すんすんと匂いを嗅ぐ動きで髭が揺れる。
「海岸でちらと見せた、木彫りの造形であるな?」
「そう…あのね、これ、笛のつもりだったの。」
「笛、だと?」
「こうやって口に当てて、息を吹きかけると奇麗な音が鳴るんだ。高い音だって出るんだよ?」
「それは凄い楽器だな。差し詰め喉の代わり、という訳か。」
「まあ、そんなとこ。」
やっぱり、人間の道具に興味を示してくれるのは嬉しいな。
「それで、つもりであった、と言うのは…?」
俺はうんと頷くと、実際に小刀でこじ開けた穴に口を当てがい、強く息を押し込んだ。
「…。」
ひゅーという息が漏れる音だけがして、それで終わりだった。
一瞬彼の耳がぴくりと動いたので、自分には聞こえない音域を捉えているのではと期待したが、あちらも今のは本番ではなかったと聞き直そうとしただけで、やがて表情からこれが失敗作であったということを読み取ったらしかった。
「まあ、出ないんだけどね。」
もう料理の時点でお察しかもしれないが、不器用を地で行く出来栄えだったのだ。
なんとなく、Vesuvaで彼に楽器を見せた時にがっかりさせてしまったのが残念でならなかったというだけで、そのような経験も乏しい癖に、どうして思い立ってしまったのかも分からないが、とある詩人がやって見せたのを、記憶で真似ているだけに過ぎない。
もう、中身をくりぬくのも難しいし、穴の位置とか適当だし。まあなんか音ぐらい出るでしょと思ったのに、なんにも出ないの。そりゃあそうだって感じだけど…。
そう笑って、緊張感を容易く壊してしまう。先ほどの遠吠えとは程遠いや。
しかし彼は首を少し傾ぐだけで、茶化すなどとんでもないと遠慮がちだ。
真面目に話を聞いてくれていることに感謝して、俺はある提案を持ち掛ける。
「…Fenrir、要は遠吠えが出来れば良いんだ!そうだろ?」
「…?」
その傷を治そう、そう言ったの、覚えているかな?俺は本気だよ?
Fenrirが死なずに済む道を塞いでしまったのがその首の傷で、それが狼から遠吠えを奪ってしまったと言うのなら、取り返そう。その声を。
俺も、もう一度やり直してみるよ。
「この笛が奇麗な音色を奏でてくれるまで諦めないから、だからさ、一緒にがんばろ?」
それでこのまま君が、森の中で安心して暮らせるようになれたなら、俺はその遠吠えを遠くから知るだけで満足だ。
たまに元気だよと声を聞かせてくれるだけで。
こっちも元気だよって、聞かせられるよ。
遠吠えは所詮、真似事に過ぎないから上手くないかもしれないけれど、この笛さえあればね。
たまに交わそうよ。
もう、繋がりなんて気にしなくていい。
それで、Fenrirは、晴れて狼だ。
「…だからこれ、受け取ってよ。」
ね?と俺はもう一度笛の成りそこないを手のひらで転がすと、彼にそう同意を求めた。
それが、何らかの証になれば良いと願って、差し出す。
「…嫌だ。」
「え…?」
「いらぬわ、そんなもの。」
ふんと鼻で笑ってあっさりと拒否する。
「ただのガラクタではないか。まさか、俺の作った木彫りとそれで釣り合わせるつもりか?」
え…うそ。
「そこは口に挟んで受け取ってくれるところでしょうがあっ!?」
なんだよ、せっかくいい話でまとまりそうだったのに。
戯けが、彼はにやにやと笑っていつもの調子で俺を馬鹿にする。
「言っておくが、お前が美しい音色を奏でる笛を作り上げた暁にも、それを受け取る気は毛頭ないぞ。」
「そんな、なんでだよ…?」
「お前がそのように思ってくれていたとは思ってもみなかった。…俺が、どうありたいかを尊重してくれていたのだな。」
彼は俺から顔を逸らし、月を見上げた。
毛皮に纏われていた気迫は既に薄れつつあったが、それでも彼が本来持つ、狼としての風貌が、自分を魅了して離さない。
「俺はできることなら、自分が望む狼でありたい。お前の言う通り、この森で生きていたい。」
そして、彼は言いづらそうにこう言った。
「お前と出逢うより前に目指していた、あの狼としての存在に。」
「…。」
それなりに衝撃が残る一言だった。
そうか、そうだよね。
自分との出会いが無駄であったとまでは言わなかったけれど、やっぱりFenrirの道に、人間との馴れ合いは不要なのだ。
出来る限り、彼がこの森で生きる手助けをして、それからは最低限の干渉に留めたいとは考えていたけれど、改めて彼からそう伝えられると、応えるものがある。
うん、とその意志に頷く。
「それでも我は一匹でいるのが嫌なのだ!」
え…?
驚いて俯いていた顔を上げる。
「俺は、この旅がこんなにも楽しいものになるだなんて、思ってもいなかったぞ?…お前には何度も危険な目に遭わせてきた上で、吐けるような台詞では凡そ無いかもしれんがな。」
「嫌なのだ。俺は、Teusと一緒にいたい。狼に、なりきりたくないのだ…。」
「だからTeusよ、きっとこの狼が、遠吠えの出来る日を待ってはくれぬか?怪物を殺しに来た、死にたがりの人間よ。」
その狼は、小さく俺に囁いた。
「ああ、きっと出来るとも。だから、せいぜいやってみるが良い。その下手くそな笛の音が俺の耳に届くことは永劫ないであろうがな、ふっふっふ…。そうであろう?」
「何だよおっ、俺だって作れるもん!多分…。」
それが彼なりの約束であると理解しながらも、俺はそれが恥ずかしくて、勝手に逆上したふりをして見せた。
ああ、やれるものならやってみるが良いと、彼も挑発を忘れない。
「だから、…帰ろう。」
「うん、わかった。」
遂に、その時が来たのだ。
「ねえ、最後に一つだけ良い?」
「ああ、何だ?もう二度と尻尾には触らせんぞ?」
うわ、滅茶苦茶根に持ってるじゃん。これからの季節の必需品なんだけど。
「違うよ…名前。」
「名前…だと?」
彼は目をぱちくりとさせて、その質問の意味を理解しかねた。
「その狼さんの名前だよ!教えて?」
「俺の名は、Fenrirだ。」
彼はにやりと笑って、きっと意味もなくはぐらかす。
「はいはい知ってる、知ってますよーだ。」
もう何だよ、とすねたふりをして見せる。
「名前か…そうだな。」
Fenrirは、今度は満月の方ではなく、夜空の方を見上げて何かを思い詰めた。
「…わからぬ。」
「え、知らないの?」
「実はそうなのだ。あやつは名を尋ねる前に息を引き取ってしまったから…俺は終ぞ彼の名を知らぬまま生きてきた。」
一瞬、彼の中に残っているその狼の自我に問いかけておくんだったと後悔した。そうすれば、その狼の記憶は、自分の名を彼に知られることなく、俺に教えてくれたかもしれない。
それじゃあ、今まで通り、その狼と指してあげることしかできないか。
そう諦めようとすると、彼は徐に口を開いた。
「“Sirius”と呼んでくれ。」
「シリウス…?」
「ああ、俺は、ずっとそのように呼び慕ってきた。」
由来は簡単だ。遠吠えを褒めてくれたあの夜、一際奇麗に輝いた、それだけだ。
しかしそのとき、貴方はSiriusと言うのですねと、啓示のようなものだと受け取ることにしたのだ。
文字通り星に託されたのならば、そんな名前も良かろう?
「ふうん、そうなんだ。」
それじゃあ、俺もそうやって呼ばせてもらおうかな。
「ああ、そうするが良い。いちいちあの狼などと言われては、居心地が悪くて叶わん。」
「ありがと、Sirius。」




