25.道探し 3
25. Wayfind 3
片手でたくし上げた外套を屋根にして、今にも消え入りそうな明かりを頼りに、森の中を急ぎ足で歩く。
壊れて窓の開いてしまったランタンがこんな大雨の中ではたいして役に立たないことも、運よく満ちた月明かりが今宵を照らしてくれはしないことも、はなから分かっていたことだ。
一寸先は、闇よりも恐ろしい。怪物の口へ自ら飛び込んでいくほうが、勇気が出ると言うものだ。
それでも、俺はあの場所を見つけ出さなくてはならない。
最後に見晴らしの良い山頂からこの盆地へ降りた時に、おおよその方角は把握していた。恐らくは、まっすぐ歩いているような気で闇雲に進んで行けば、いずれ丘を越えられる筈だった。
幸いそこまで森の密度は高くなく、足元に十分注意すれば、自分であってもなんとか踏破できるかもしれない。そんな希望的観測をもとにたった一人、真夜中の森を彷徨い歩いていたのだった。
彼には黙って、こっそり抜け出してしてきてしまった。きっとことがばれれば、あの恐ろしい顔で怒鳴り散らされるだろう。
用を済ませて、帰り道に迷ったと言うことにするが、そんな見え透いた嘘を吐いて何になると言うのか。
どうしてそんな無茶な行動をとったのだと鋭い口調で詰問するも、彼は都合よくそれ以上の穿鑿を、きっとしない。
「…ごめん、Fenrir。」
一つの、予感があったのだ。
今回ばかりは、Fenrirに頼ってはならない、と。
そして、その理由を彼に悟られてはならないのだ。
驕ったことを言うと思うかも知れないが、俺の勘が正しければ、Vesuvaは昨日まで此処にあった。
自分の運がそう告げているというだけではあったが、本来ならば辿り着くことが出来た。そういう物語だったはずなのだ。
では、どうしてそうならなかったのか。俺はその理由を必死に考えていた。
今まであったことを線で結び、そして不都合な、ある結論に辿り着く。どうしても、それを確かめなくてはならない。
ランタンを目の前に掲げることができない以上、どうしても照らされた足元ばかりを注視していまい、目の前に突如現れる木々に何度も驚いた。もしFenrirの顔がぬっと出てきたらと思うと気が気でなかった。
先回りをして待ち構え、こんな所で何をしていやがる、と眉間に皺を寄せたあの顔で睨みつけられるのだ。
Fenrirはどれくらいで俺の不在に勘づくだろうか。よほどくたくたで深い眠りに落ちて、朝まで気がつかなかった、ということはきっと無いだろう。ひょっとすると、もう俺の捜索に駆け出しているかもしれなかった。
そうなれば、捕まってしまうのも時間の問題だ。もう真後ろで頭を低く下げ、獲物を伺うように、こちらが気づくのを待っている気がして、思わず見えもしない後ろを振り返る。意識が外に向いて、雨音が耳をつんざいた。
けれどもこの雨の中だ、俺の足音も、痕跡となるものは全て洗い流されている。いくらFenrirでも、迷わずまっすぐ俺の元に向かってくるのは無理だ。時間は、まだ残されている。
とにかく、進むんだ。雨がやんで、夜が明ける前に。Fenrirが、俺を追いかける前に。
甘い見通しのもとで、軽はずみな行動をとった後悔から逃げるように、俺は歩みを速めて行った。
「くそっ…。」
雨で土壌がふやけたのか、足元がやけにぬかるむ。どれだけ力を入れてみてもうまく歩けない様が、文字通り泥沼だった。
かれこれ二時間ほど歩いただろうか。ここ数か月で培った能力として、自分がどれくらいの時間でどれほどの距離を歩くことが出来るかが分かり始めていたので、上手く事が運んでいたなら、ちょうど道半ばというところだった。歩みがお覚束ないため、もしかすると進捗はもっと悪いのかもしれないが、それでも小高い山麓の足元にはいる筈だ。直に険しい山肌が現れて、それを手をついて上ることになるだろう。そしてその先の林を抜ければ、目的地だ。
終わりが決して見えない訳ではない、そう自分を鼓舞して突き進んだ矢先のこれだった。
せめて一歩を稼ごうと大股で踏み出し、手ごたえのない接地に体勢を崩しかける。思わず悪態を吐き、劣悪な泥濘を照らして少しでもましな足場を選ぼうと、外套の中でランタンを揺らした。
「え…?」
それでようやく、俺はその一歩が命とりであったことを悟る。
右足が、ずぶずぶと泥の中へ嵌まり込んでいくのだ。
「…っ!」
心臓が握りつぶされるように痛み、吐き気へと変わる。
俺は、沼の中に足を踏み入れてしまったのだ。
この雨で脆い地盤が液状化し、一時的に動物を飲み込む流砂へと変貌を遂げたのだろう。
足元に気を付けていても、こればかりは予期していなかった。
力を込めて引き上げようとするも、抜けない。
底が無いのでは、と疑うのに一秒もかからなかった。
後ろに残した足もすぐさま喰われていき、沈んで外套の裾が浸かる。
だが気付いたからと言ってどうすることも出来ず、その場に立ち往生しているだけでゆっくりと魔の手は忍び寄って来た。
額の雨を拭い、こうした事態に直面したなら藻掻いてはならないと自分に言い聞かせた。
抗えば抗うほど、沼は俺の身体を引き込んで離さない。いよいよ身動きが取れなくなり、そうなれば、もう手遅れだ。
落ち着いたふりをして周囲を見渡した。何か掴むことが出来るものがあれば、それを拠り所にして、これ以上の沈下を防ごうと思ったのだ。
この状況から抜け出せるわけではないとしても、藁にでも縋りたい一心だったのだ。
「そんな…。」
膝を折って、泣きだしたい気分だった。
近づく地面を危険と感じることもなく、呆然と眺める。
こんなところで、立ち止まっている場合じゃないのに。
俺は、一歩も進めないどころか、このまま指を咥えて…。
「Fenrir…。」
彼に助けてくれと叫び、待ち惚けることしかできないだなんて。
なんとか抗おうと英雄じみた行動に移らず、それが最良の選択であると認める自分にほとほと嫌気がさした。
勝手に一人で何とかすると抜け出して、挙句の果てに助けてくれとせがむ我儘なんかよりも。
Fenrirが、きっと受け入れてしまうだろうことの方が、身を切られるよりも辛い。
それも、何ら俺を責めることをしないまま。俺の腹の内に抱えているものなんて、さもどうでも良いと言うように。
このまま沈み、溺れてしまったほうが良いのではないか、というのは甘い考えだろう。
死ぬことも出来ずに苦しんだ彼よりも、勇気があるとは到底思えない。
けれども、声を上げる前にもう少しだけ自戒の沼に浸っていたい気がして、ランタンを落として灯りを消してしまうと、腰までどっぷりと浸かった闇の中で、誰かのような薄ら笑いを浮かべた。
今なら、あの狼がどんな気持ちであの傷を愛撫していたかがわかる。
俺は、彼に触れられた気がすると、おどけて宙に手を伸ばして見せたのだった。
「…気持ちは、分からんでもない。」
どれだけ時間が経っただろう。
彼の冷たい声が頭上に響くまで、俺は本当に何もせず、自分の身体を沼の好きにさせていた。
頭がすっと冴えたような気がして、冷静沈着な賢狼の想像に浸っていたのだ。
「俺もよく、そうして雨に打たれ、泥沼に引き込まれるのを楽しんだものだ。
…お前にも無かったか、思い出したくもないのに時折ほじくり返しては、傷口が開いて痛むのを満足そうに眺めるような記憶が。」
その実ぼうっとしていただけだった俺は、おずおずと顔を上げ、輪郭も朧な主の姿を見た。
「…気分が良かろう、そうしているのは。不幸な自分に酔うのは。違うか?」
声だけが、闇の中で、唯一彼と認められるものだった。
「このまま、溺れ果せることはできないか、そう思っただろう。」
「…。」
「自らの手で命を絶つことが出来ぬ俺を、誰かの手によって、不可抗力で殺してくれはしないかと初めて期待した時、俺は助けなど来ないと端から知っていたぞ。
…お前はどうだ、その覚悟があったか。
あったのだろうな。お前は、俺の名を最後まで呼ばなかった。俺を頼っては、くれなかった。」
初めて、声に悲しそうな感情が混ざる。
泣いていたのだ。
彼のその嗚咽が、俺は嫌いだ。
酔いしれ、痺れた頭をぶん殴られたような衝撃が走る。
「Fenrir…。」
次に伸ばした両手は、見えないけれど、確かに彼の方から近づけてくれた、
彼の鼻面に届いた。
「お願いが、あるんだ…。」
ごめん…Fenrir…。
「俺を、一人で先に…進ませて、欲しいんだ…。」
Fenrirが息を呑んだのかも、怒りの感情を既のところで抑えたのかも、俺にはわからなかった。
けれども、その一言が、自分でそうするよりも遥かに深く、あの傷口を抉ったことだけはわかった。
「Fenrir、聞いてくれ。これには理由が…。」
「…わかった。行って来い。」
「…。」
なんで、何も聞いてくれないのさ。
本当に、行ってしまうのかと、名残惜しそうに駄々をこねてくれたって、良いじゃないか。
俺が悪いのか。あのとき、どうして助けてくれたんだという彼の問いに、すぐさま答えることが出来なかったせいで、Fenrirは、俺から何も知りたいと思えなくなってしまったのかな。それで良いと、受け入れてしまったのかな。
「Fenrir…!!」
「この旅が終わったら、聞いてほしいことがあるんだ!…ずっと苦しかった!!
Fenrirにしか話せないような、俺のことを話すから…だから、だから…。」
「お願いだ…独りにしないでって、言ってよ…。」
彼がどれだけ優しいか、それだけで俺は何度泣かされてきたかとか。
もし、Fenrirがまた一匹狼になってしまったら、彼は何も言わずに、死んでしまうだろうと思うと、涙が止まらなかった。
お願いだ、泣かないでくれ。優しい声で俺のことを宥める。
「お前がそんな、俺の気を引くためだけに無謀なことをしでかす馬鹿だと思うか?」
うん、と頷くと、彼は少し笑ったような気がした。
「…言いたいことがあったのなら、俺で良いのなら、遠慮なく言うが良い。いつも聞く側に回らせてしまって済まなかったな。だが、お前が言いたくないことを、俺は聞きたくないとも思っているのだ。」
「でも…」
「それでは駄目だ、と言うのだな。」
わかった、言ってみろ。大丈夫だ、傷ついたりなどしないから。
俺は一度短く息を吸って、震える声を正すと、彼が押してくれた勇気を口にした。
「わかったんだ…。Vesuvaが動いているのは、ヴァナヘイムから逃げるためじゃない…。」
「Fenrirから、逃げているんだ…。」




