25.道探し 4
25. Wayfind 4
そうでなければ、Vesuvaはもっと早く見つけられていた。
俺の運が引き寄せるよりも強く、その土地はこの狼に見つからぬよう離れて行ったのだ。
だから、あと一歩のところで届かなかった。
「だけど、逃げ惑う理由はきっと変わらない…。俺は、Vesuvaはが、ヴァナヘイムの神族によって、蹂躙された傷跡を引きずってると思ってた。でも…」
そこまで言って、喉に何かが詰まったように声が出なくなった。
代わりに、落ち着いて聞いてねと言うつもりで、ぎゅっと彼のことを抱きしめる。
「…俺はFenrirが、Vesuvaのことを襲ったなんて絶対に思わないよ。」
Fenrirが嘘を吐いて、自分が喰い荒らした街へ俺を案内するようなことがあったなら、この狼は、疾うの昔に人間で飢えを満たしてる。
そう、それはきっと、何かの間違いなのだ。
「…でもね、“あの狼” だったなら。Fenrirと間違えても、おかしくないんじゃないかな?」
彼の目が大きく見開かれたのがわかった。
彼が敬愛する狼のことをこんな憶測のために悪く言うのは心が痛んだし、流石に反論の一つをそうして示してくれたのはありがたかった。
心から慕っていた狼にいわれのない嫌疑をかけられ、酷く動揺したに違いない。
出来ることなら、そんなはずはないと、怒鳴り散らされたかったが、彼は何も言い返さない。
何か心当たりがあったのかは、分からない。彼は、その狼の記憶を、どれだけ受け継いでいるのだろうか。
ようやく声を絞り出すまで、俺は彼に触れていることで本心が伝わってくれと必死で念を込めていた。
「…それが、お前の答えなのか。」
俺はFenrirの鼻面に顔を埋めたまま頷いた。ごめん、と小さな声で呟くと、彼は小さく顔を揺らした。
「…謝らなければならないのは、俺の方だ。
言わないでくれ、と頼んだせいで、抱え込ませてしまったのだな…。」
予感はしていたのだ、という声に、俺は驚いて顔を離し、Fenrirのほうを見た。
「良かろう。俺も、お前に伝えなくてはならないことがある。…そうだな、満月の夜にでも話してやることにしよう。美しい星空と共に、見せたい場所があるのだ。だが、今はその時ではない。わかるな?」
「じゃあ、旅は続けて行くんだね?…多分、風邪ぶり返すと思うんだけど。」
「知るか、約束は約束だ。」
鼻を啜って笑う俺を、彼はぴしゃりと跳ね除ける。そんな…大目に見てくれたりとかしないのか。Vesuvaが俺に快適な住居を残していることを願うばかりだった。
「…つまり、お前ひとりが探し求めることで、自ずとVesuvaは現れると言うのだな?」
「うん、でもこのままじゃあ…。」
殆ど溺れかけていたことをようやく思い出し、沼への沈み込みがFenrirによって抑えられてはいるが、この有り様であると伝えた。恐怖心は彼のお陰で薄れ去ったものの、以前として埋まった身体はびくともしない。
そうだな、と彼は頷くと俺の方へ顔を寄せた。
「…掴まっていろ。」
言われた通りに彼の鼻面を思いきり抱きしめたのを確かめると、彼はゆっくりと頭を擡げはじめた。
するとどうだろう。藻掻き抜こうとすれば、むしろ吸い込まれるようにまとわりついて厄介だった軟泥が、ずるずると身体から離れていき、最後には無害な泥水となった沼から俺を引き上げてくれたのだ。
妙に生暖かい泥に埋もれて動かなかった足を宙にぷらぷらとさせて、無事であることを確かめる。
「ありがとう…!!」
「ほら、拾え。」
水面を見下ろすと、沈んでもう戻らないと思っていたランタンがぷかぷかと浮いているのが見えた。
右手を恐るおそる伸ばし、持ち手を掴むとみっちり詰まっていた泥水が窓からぼとぼとと吐き出された。
突如として柔らかな敵意を失った沼に、呆気にとられる。
「そこから背中に上れるか?…前が見づらくて叶わん。」
頭を大きく掲げて傾斜を付けられ、さっさと行けと言わんばかりに乱暴に追いやられる。
定位置についたことを碌に確認もせず、彼は平然と底なし沼を歩き出した。
「どうしてFenrirは、なんともないの…?」
思えば、どうやってFenrirはここまで足を取られることなく辿り着いたのだろうか。
彼ほどの巨体であればこの沼の底に足がついているのかと思ったが、そうだとしても引き抜くのは容易では無いはずで、寧ろ沼が彼に味方しているような気さえするのだ。
「こんな俺であっても、名前によって祝福されている、と言うことだな。」
「…?」
「たとえどれだけ憎い名付け親であったとしても、それは贈り物なのだ。…俺は、そう思っている。」
「俺はFenlurker、“沼潜み” と名付けられた狼だ。」
…そうか。Fenrirの名前は、そう言う意味だったんだ。
「良い名前を、貰えたんだね…。」
彼は俺を沼の終わりまで乗せて連れて行くと、最後にランタンに火を灯し、俺を笑顔で送り出してくれた。
「さあ行け…必ず追いつくから、Vesuvaで待っていろ。」
力強く頷き、夜明けに会おうと誓って、もう一度彼の鼻面に抱き着く。
「Fenrir…」
「…どうした?」
暫しの別れだ、伝えたいことが褪せてしまう前に、言い残したことがあったのだ。
「…呼んでみただけさ。」
俺はそう言って笑うと、変な奴だと言わんばかりの顔をする彼から両腕を離した。
「俺は、もう少しこの沼と戯れているとしよう…。これ以上Vesuvaにあっちこっち動かれても叶わんからな。」
これ以上彼と行動を共にできないゆえ、歯痒い思いをさせてしまうと思ったが、一匹で内省する時間を大切にするらしかった。
尻尾をゆったりと揺らしながら、闇の中へと吸い込まれる狼の姿を最後まで見送ると、一度深呼吸をして、俺も目的地へ向かって走り出す。
ここから先は、自分の足で切り拓くのだ。
雨も次第に俺を襲うのを諦め、周囲の景色を視認できるくらいに空が白むと、俺は馬へと姿を変え、四肢を千切れんばかりに振るってなんとか山を越えた。
彼が道中で語っていた走りの極意を自分なりに体現しようと試みる。これが全力だと感じる走りは数秒と持たなかったのだが、なんとかその特徴を抑えたままに出力を落とすのだったか。
確かにそうして生まれた走り方は今までと違うものだったが、正直なところその自覚は言語化とは程遠く、違和感があるぐらいの感覚でしかなかった。
これが人の姿であっても共通の感覚なのか、今確かめる余裕はなかったが、今度から少しはFenrirの背中から降りて行動を共にしたいなと思ったのだった。
放浪の旅人の身でありながら、彼に甘やかされたツケなのか、外出のしづらさも相俟って実はここ一週間で身体が重くなっていたのだった。腹が出ても嫌だし今後こうしたことがあっても、もう少し逞しくありたい。
それに、旅路から戻って太りこそしなくても、Freyaには何か変わったと気付かれたいのだ。
俺は、何が変わっただろうか。誰かの泣き顔ばかりを見るような日々からは、結局抜け出せていないような気がする。もし、変わることが出来たなと思うことがあるとすれば、それは、自分も泣いてしまうようになったことぐらいだろうか。
あなたが泣いても、響くことはありませんと言われそうなものだったが、彼女以外に泣かされて涙を流すようになったのは、年を重ねて涙腺が緩くなったからではないと思っている。
でもそれは、変わりたいと願った結果ではなかった。
もしそう願うのであれば、やはり俺は、彼に話したくない最も奥の部分を、打ち明けなければならないのかな。
贖罪などと虫の良いことを考えたことはなかったけれど、彼を巻き込んだ物語は、もう後戻りできないところまで進んでいたのだった。
足元を滑らせぬよう注意して麓まで駆け落ちると、もう丘の向こうに、美空色の山際と、蜃気楼が見えた。
それが建物のような物体が林立しているのだとわかると、消えてなくなってしまう前にと全速力で像を追い求めた。
あの街は、何を俺達に話してくれるのだろう。
ようやく文明の片鱗を垣間見たのは、草で殆ど覆われた、石の階段で囲われた広場だった。
集会場のようなものだと思った。数段降りた先に、やはり消えかけた石畳が顔を覗かせている。住人が足を運ばなくてはならない街はずれにあるそれは、どのような使われかたをしたのだろうか。
ヴァナヘイムでは見たことが無かった。俺の踏み込んだことのない場所に、似たようなそれがあるのかもしれない。人いきれと雑踏を思い浮かべ、議題は何であったかと耳を傾けてみる。
息を切らせてその様子を見渡していると、山の端から現れた日が、突如として周囲の景色を夢の跡のような世界へと変えた。
「…!?」
あんな夜を超えたのでなければ、それが夕日であると錯覚したに違いなかった。
芝生の毛皮が色を変え、空が世界の変容を地上へ告げる。風が驚いたように強く吹いた。
けれども俺が驚いたのは、全く別のことだった。
「嘘だ…。」
此処に…俺は、訪れたことがある。
膝を折り、その場に立ち尽くす。
彼が視界に混じらぬよう傍らに下がり、どのような目でこの土地と、自分のことを見ていたのか考えることもしないまま、
俺は、どこまで記憶の海を泳いでも見つからぬその景色に、ただ溺れていった。




