24.風景の変容 2
24. Scapeshift 2
「それで、前にもこんな経験があったっていうのは…?」
「うむ…それと言うのはだな。」
起伏の激しい林間の道であっても決して揺れることのない背中の上で、俺は彼の胸中で練られているであろう計画の一端を伺った。それが次の目的地と関係があると彼は示唆したからだ。
これだけのスピードで走りながらであっても平然と口を聞く余裕があるらしいFenrirは、初めてこの地を訪れた時のことを話してくれた。
「…驚いたことに、この近くで文明の痕跡を見つけたのだ。」
「…この森で、ヴァナヘイム以外にも人間が生活していたってこと?」
それは、断崖のあの洞穴で見つけたような壁画と違って、全くの偶然であったという。
ヴァナヘイムとは、Freyaがいて、俺が仮住まいをしているあの村のことだ。
「小さな村落だった。既に滅んで、廃墟と化してはいたが、幾つもの建造物が遠目からも確認できた。」
なるほど、まだ現存するその家屋で雨風を凌ごうという訳だ。風化はしているだろうが野宿をするよりも遥かに良い条件と言えた。
「なるべくお前にとって、負担の少ない寝床が必要だと思ってな。暫くは馴染みの深い生活に戻れるだろう。」
正直、予期される長距離の移動の後に野原で一夜を過ごしたくはなかった。病み上がりを甘く見ず、状況を鑑み次の手を即座に打ってくれたFenrirに感謝する。
しかし、その村がどんな様子であったのかを尋ねると、不可解な答えが帰って来たのだった。
「わからん…その、良く観察できなかったのだ。」
「それはどういう…?」
「まだ、人間の領域に踏み込むことに恐れを抱いていたのだ…。俺は、お前たちがいるあの集落を、ヴァン川の向こうからじっと覗き込むことしかできなかった。耳で人気が既に絶えていることはすぐに分かったが、ただ、どうしても近づけなかった。誰かがいるような気がして…。」
そうか、彼にとっては近寄りがたい場所であったのか。
もし今回のような事件に見舞われなかったら、彼はその村に立ち寄るつもりだったのかなと気になった。
背に腹は代えられずこうして踏み込んでいくのか、或いは俺と一緒だったら、勇気を出してみようと誘ってくれたのか。
彼の中で、幾つかの旅程を変更すると言及していたことを思い出し、けれどもその可能性も否定できないように思うのだった。
「もう一つ、理由がある。」
それが、彼の似たような経験、だった。
「俺は初めてその遺跡の存在を知った時、林の淵から隠れるようにしてその様子を確認しようともせず、尻尾を巻いて逃げ出したのだ。何と言うか、人間の痕跡に対して、反射的に逃げ腰なのだ。それから、今後の行動範囲を占う為にも、もっと注意深く観察しなければならないと覚悟を決めて、再びその場所へ舞い戻った…。」
人間を避けるためには、避けては通れなかったわけだ。狼の苦労が感じられる。
「それで、また林が途切れる境界を沿って、その村を探したのだが…」
話の全貌が分かった時、俺は鳥肌が立つのを感じた。
「ああ、どこにもその村は無くなっていたのだ。」
「うごい、た…?」
その通りだ、とFenrirは答える。
「正確には、消えてなどいなかった。だがその村の場所は、西の方へ山を一つ越えた先の丘の上へと変わっていたのだ。」
ヴァナヘイムから逃げるような方角だ。
その予想を遥かに超える大移動は、たった一日で起きたに違いない。それもきっと、何の前触れもなしに、だ。
「言うまでもなく、俺は夢の中で足掻いているか、蜃気楼に惑わされたと思った。…それか、森で迷子になるような狼の成りそこないか、とな。」
Fenrirに限って、そんなことはないだろう。
間違いない、この土地は動く。そんな絵空事のような話が、裏付けられ、現実に立ち現われる。
「…Vesuva、そのように呼んでいる。」
辿り着けるのか、その遺跡へ。それすら確信を持てないような気がしてくる。
「でも、その場所を、Fenrirは知っているのか?」
彼は朗らかに笑うと徐々にスピードを落とし、石ころで足場の悪そうな小川が走る、静かで見晴らしの良い丘で休憩のために俺を下ろした。足をくじかぬよう注意して飛び降りる。
彼は小さな山を一つ乗り越え、更に聳え立つ険しい山脈に対峙しようかというところだった。
膝までも浸からない川に口を突っ込み、がぶがぶと水を飲み込む。
「…お前のことを見くびっていたようだ。この旅を通してそう反省している。」
手放しに褒められているのか良くわからず、俺は黙っていた。
「お前が今の話から、一度Vesuvaを目にしてから、再度訪れる頃には、それは別の場所に移動しているのだから、もう一度そこへ訪れても、もうそこにVesuvaはない、ということを瞬時に悟るとは思っていなかったぞ。」
そう、つまり次の目的地は、Fenrirが最後に見つけた場所からまた移動してしまっているのだ。
「それが此処だ。」
ここにかつて、人が暮らしていたとは到底信じられない。Vesuvaの跡形は欠片もなかった。
どこか楽しそうにそう教えてくれる彼は、朝食がまだだったなと俺に動物の恵みをよこせと強請る。
そう言われてみれば、起きてからまだ何も口にしていない。森の意志に翻弄され、衝撃の連続で正直空腹すら忘れるほどだったが、彼にとっては欠かせない燃料を補給する時間だ。
食べているうちに、身体も腹が減ったことを思い出すだろうし、一度落ち着いても良さそうだ。
動物たちを用意している間に、そそくさと彼は火を起こしてくれる。
正直、それはしないでほしかった。
あの火事が頭にちらついて、妙に離れない。
既に昼もだいぶ過ぎて、寝床の確保が成就するかが気がかりになってくる。俺は一夜で拠り所が崩れ去ってしまう力を目の当たりにして、不安に押しつぶされてしまいそうだった。もし野宿の間に地面が割れ、逃れ得ぬ災害に巻き込まれでもしたらと思うと、怖くてたまらない。
上の空で口を動かしていると、Fenrirに窘められた。
「そんな顔で喰うな。喰われる側の気持ちになったことがあるか?」
ごめん、と呟くも、食事が喉を通らない。それを見かねて、彼は俺の顔を覗き込んだ。
「…安心しろ、とは言わない。次に何が起こるか、俺にも分からないというのが本音だ。だが、もうあんな苦しい目に、二度とお前を合わせたりしないから。」
「…うん。」
それで会話が途切れかける。
昨日と一緒だ、どうして良いかわからなくて、Fenrirが狼狽える所なんて見たくないのに、黙り込んでしまう。俺はこういう時、その名に反して逃げるような奴だった。運が味方してくれるような戦いしかしてこなかったのだ。彼の助言は、正しかった。
俺は彼の言う通り、諦めて帰っていればこんな思いをせずに済んだのかもしれない。
「…ごめん。」
俯いたままでいると、頬を優しく撫でる気配を感じた。
「…Fen…rir?」
俺は項垂れていた顔を上げ、優しく触れる毛皮の主を見る。
心底驚いた。彼が今まで、自分から進んで俺に触ってくれたようなことは…。
あの時以来だ。
あの寒く冷たい夜に、彼は自分が手を持たないことを泣きながら、身を寄せてくれたんだ。
その時と変わらず、俺は両腕で彼の鼻面を抱き返す。
「Teus、聞いてくれ。」
お前の言う通り、俺には居場所がわからない、お前を連れて行ってやりたい場所が。
でもお前なら、見つけられるはずなんだ。
「…お前の力が、必要なのだ。」
始めは彼が何を言っているのか分からなかった。
狼ですら見当もつかぬその土地を、地の利を持たない人がどうして探し出すことが出来ようか。
しかし次の言葉に、俺は今日体験したどんな出来事よりも背筋が凍り付くのを感じた。
「お前は…神様として何らかの “運” を司っているな?」
「…。」
心臓が止まりそうになった。言葉を返すどころか、表情を変えることすらできない。
…この狼は、どこまで知っている?
沈黙を是と受け取ったのか、彼は俺の視界から顔を退けるとぽつぽつと喋りだした。
「俺はお前が、ただ命知らずだというだけで此処へ遣わされた神だとは思っていない。それどころか、余程重要な役割を担っているに違いないと思っているぞ。本来ならば動くことのないような地位だ。
運が良かった、では片付かない。悪運と言って良いぐらい強大な、何らかの後ろ盾になる力がなければ、この物語は、どちらかが既に命を落としていても全くおかしくなかったのだ。」
優しい口調で周囲をじわりと取り囲んでいく。まるで俺は探偵の推論を聞かされる真犯人のようだった。
「それは何だ…? 金運のようなものか、それとも恋愛の神様であったか? その割には彼女との道のりは多難であるようだが。まあ、別に何でも良い。お前も言いたくないようだったし、俺がそれを知ったところで、お前との関係が変わるとも思わなかったからな。」
これが、狼に狙われる獲物の気分か?
「だが…お前は呪われているかのように運が良い。違うか?」
初めてFenrirのことが怖いと思った。
昔から自分は運が良いと口にしてきたが、本当に彼に伝えたことはそれだけだ。
そこから弾き出される答えではおおよそ無かったにも拘らず、それは殆ど俺の首をかき切ろうとしていた。
いや、言及こそしなかったが、恐らくもう彼の中では、正確に俺が何の神かを導き出している。
それでも、俺はFenrirに向かって自白をすることが出来なかった。
だが彼は、俺に何ら期待などしていなかったらしい。
「その力を、俺に貸してはくれないか。」
「ま、待ってくれ、俺は…。」
俺は空っぽだった腹から無理やり言葉を絞り出した。
もうこんなの耐えられなかった。彼に隠し事をしたまま笑顔を取り繕うぐらいなら、今ここで洗いざらいぶちまけて、罵って貰えた方がましだと思った。苦しかった、都合の良い立場で彼に近づいても、彼はそんなことも知ることが出来ないなんて。
吐いてしまおう、今言わなければずっと引きずる。
Fenrir、俺は…。
「待たない。…生憎そんな時間はないのだ、Teus。」
「…?」
鋭い声で制され、俺はせっかく吐きかけた言葉を口に溜める。
「俺は、お前と違って運が悪い。生まれつきそうだ。」
彼はぞっとするような笑顔で空を見上げた。
「こういう時に限って、いつもそうだ…。」
じきに、天候が崩れる。それは俺の目から見ても明らかだった。空に感情があったなら、彼女は泣きたいと言うよりは、俺達に泣いてほしいと思っているのかもしれない。
もう少し樹林が葉をつけてくれていたら雨宿りも出来ようが、屋外でこうなっては火を焚くこともままならないだろうとFenrirは自分の見解を述べた。それが死に直結はしないだろうという見込みが甘いことは、俺とFenrirが一番よく理解していた。
何としてでも、俺達はVesuvaを見つけ出さなくてはならなかったのだ。
さあ、背中に乗ってくれと彼は目で合図をする。
「でも…」
俺はまだぐずり、今まで隠し通そうとしてきたくせに、自分が誠意を見せられないことを嫌がった。
「まだ…言えてない。」
「構うものか、俺はお前が檻の中に入ってきてくれただけで良いのだ。外の世界でどんな悪人であっても、お前はただ一人俺に会いに来てくれた優しい神様だ。」
それだけで良い。Fenrirはそう言い残して、あとは好きに喋るが良いと俺に任せた。
「…。」
Fenrirと出逢ってから、俺は変わってしまったなと思う。
彼に言わせれば、俺の辛気臭い性格が移ってしまったのだな、などと茶化すのだが、強ち間違っていないなと思う。なんだか、人前で良いように取り繕うことが、できなくなってきた気がする。
でもそれは、Fenrirに出会う前から、なんとなく感じていたことでもあった。
それはいつからだろう。
「…Fenrir。此処一帯のこと、わかる範囲で教えてくれないか?」
俺は立ち上がり、彼の胴の毛皮に手を当てた。
「もちろんだとも、その役に立ててくれ。」
彼の上に跨ると、俺は自分がその神であることを信じ、この先に幸運が訪れることを願った。
「…今から、あの山を越える。」
「…ご武運を。」




