24.風景の変容 1
24. Scapeshift
「貴様ぁぁあ!こんなところで何寝てやがる!!」
耳元で怒鳴られるという最悪の目覚めとともに飛び込んできたのは、眉間にしわを寄せて唸るFenrirの鼻面だった。
「…!?おは、よ…う?」
「何がおはようだ!俺はどうしてこんなところで寝ているんだと聞いてるのだ!!」
非常に不機嫌そうな彼に寝ぼけ眼で挨拶を返すと、更に怒号で返されてしまった。
「ええっと、ごめん…何かもんだいが…?」
訳の分からぬまま謝るも、状況が全くと言って良いほど飲み込めない。
なんで怒られてるの俺?
「問題だと…?それで風邪をひいたらどうするつもりだったのだこの野郎!!」
確かに次に体調を崩そうものなら、即刻帰宅させられるという約束だった。
だけど別に今までも床でこんな風に寝て…。
ああ、そう言うことか。
「もしかして、なんで一緒に寝なかったんだ…ってこと?」
「……ああっ、そうだっ!!」
俺は笑いそうになるのを堪えて、如何にも反省していますと言った表情で自分の行いを詫びた。
「ほんとごめん、これからはくっついて寝ます。」
この戯けが。Fenrirはきまり悪そうに悪態を吐き、いつもの調子に戻った。
「…もう良い。こんなことをしている暇はないぞ、すぐに出る。」
「え?何かあったの?」
ああ、まったく予期していないことが起きたのだ、とFenrirは答える。
「お前、昨日は外に出て何ともなかったのだな?特にこの森でおかしいと感じたことはなかったか?」
静かなままだったと思うけど、何だか怖かった。俺が人間だからそう感じたのかもしれないけど。
正直な感想のようなものを伝え、答えになっていないかなと笑いかけるが、Fenrirはそれを真面目な顔で聞いて頷いた。
「話はあとだ、とにかくここから離れるぞ。」
まずはゆっくり朝ご飯をと思っていた俺は、突然の展開についていけぬまま、彼の背中に飛び乗った。
背中を小舟のようにして、滝の壁をマントにくるまり切り抜ける。
フードを外して、呑気にも欠伸を吐き出そうとした瞬間だった。
俺は、Fenrirとの旅路がうねりを伴って次の局面へと差し掛かっていることを悟る。
そこには全く別と言って良いような景色が広がっていた。
「…なんだこれ?」
一言で表現するなら、見晴らしがよくなっていた。
俺が昨日目にしたのは、静かな湖畔をそこまで濃くない雑木林が囲む穏やかな光景だ。
それが、今は周囲の木々はまばらとなり、眼下に見渡す限り森の絨毯が広がっているのだった。
行く先は崖の絶壁という訳だ。何か所からか、煙が空へ向かって立ち込めているのが見える。
俺達の眠っていた滝の隠れ家が地面ごと隆起でもしてしまったのか、それとも周りが沈下したのか、とても一晩で起きたとは考えられないような変化だったのだ。
崩れ落ちる世界を、見た気がした。
「Fenrir…これ…。」
俺はFenrirに恐るおそる尋ねる。
「俺にも詳しいことはわからん…。」
自信のない答えが返ってきた。声に彼の緊張が滲み出ている。
「確かなことは、この森は生きているということ。そして一夜にして、俺達の気づかぬ間にここら一帯の地形が大きく変わったということだ。」
そんな、生きているだなんて…。
まるで自分たちが、そうとは気づかず巨大な森の主の背中に乗って暮らしていたとでも言うような感覚だった。彼が動きを見せると言うことは、生かされている者たちの前提となる地盤が揺らぐこと。それが不安に結びつかない訳がなかった。
「お前たちの中にいないか、山を司る神様のような者が。」
その者たちの業に、似たようなそれがなかったかとFenrirは聞いた。
俺は思い当たる節はないと首を振った。豊穣や、災害を沈める力をもつと聞く神はいても、土地を操ることが出来るなんて聞いたこともない。そのような者の指金ではないと断言して見せた。
「神の怒りにはあらず、と言うことだな…。」
そう形容するのも納得するほど、これは人のなせる業ではなかった。
怒りか、と自分でも呟く。でも、そんな大きな変化にどうして気付けなかったのだろうか。
「うむ、昨夜は静かであったように思ったが…」
俺が寝過ごすならまだしも、あれだけ機微に触れることに長けた彼が見逃すのだ。
生き物が体験したことのある天災の類でもないと言うことなのだろう。
「…何か引き金があったとすれば、俺達の来訪と、突如現れた夥しい数の生命が、関係しているのやもしれん。」
自分たちが起こした、人為的な活動のせいだというのか。
半ば死んでいた森だ、急に息を吹き返した生命に驚くのも無理はないかもしれない、と彼は言った。
しかしそんな会話も、ひたすら憶測の域を出ない。
「…昔、一度だけ経験したことがある。」
突然Fenrirがそのようなことを言いだした。
この天変地異ですら心当たりがあるというのだろうか。現状を受け入れられず、半ば動転していた俺だが、その先を聞きたくてはやる気持ちを抑え、彼の追憶を待つ。
暫く彼の耳が思慮深く動くのを頭上から見ていたが、やがて一つの答えに辿り着いたようだ。
「それが、次の目的地となろう。」
「え?それはどういう…」
「とにかく、一度降りろ。早く!」
その様子に、先ほどの迷いは消えていて、次にとるべき行動が分かっているようで安心する。
鋭い声で急かされ、俺は言われるままに彼の背中から飛び降りた。
「ぶわっ!?」
片膝を着いてから立ち上がると、自分の右半身がびしょ濡れになった。
滝を潜った時点でマントは濡れていたのだが、折角それを脱いだところだった。
Fenrirが身体をぶるると震わせて、毛皮の水滴を弾き飛ばしたのだ。
「あ、すまん。」
空かした詫びが申し訳程度に伝えられる。
これは、Fenrirのささやかな嫌がらせであることを俺はこの旅の道中で嫌というほど思い知った。
こいつは俺の体調を心配してくれてるんじゃないのか…?
まるでお前も身体を震わせれば良かろうとでも言うようにそれ以上の謝罪はなく、後ろを振り向いて池の水をぱしゃぱしゃと音を立てて飲んでいる。
「…よし、待たせたな。行くぞ。」
行くって…どこへ?
「この地形の変化がどのような変化をもたらすかわからん。地震のような現象は無かったとはいえ、あの住処が歪み、いつ崩れてもおかしくは無いのだ。名残惜しくはあるが、暫くはここから離れたほうが良い。」
確かにこんな現象を目の当たりにしては、もはやどんな根城も安全ではないような気がしてくる。
短い滞在ではあったが、もう次の場所へ移動するというのだ。
「療養に長い時間を費やすことができず済まなかった。加えて今回は、俺が辺りの安全を確認している暇もない…。それでもついてきてくれるか。」
この旅は、常に死の危険が付きまとう。そのことを、身を以て思い知った。
心強い狼が、いつも自分を助けてくれるという楽観的な期待に頼るようでは、この先は危険すぎる。
これは警告なのだろう。それでも俺は、彼が自分のことをパックという群れの一員として認めてくれたことが、心から誇らしかったのだ。
「行こう…Fenrir。」
狼の背中に再度飛び乗り、変わり果てた世界に飛び込んだ。
まず初めに様子を見に行くことにしたのは、眼下に広がっていた森の中で幾つか立ち上っていた煙の柱の火の元だった。
「ああ…俺も見える、気になっていた。」
突然起こった複数個所での山火事に狼狽えるかと思いきや、彼は意外と落ち着いた様子だった。
「山火事は自然発生的に起こり得るものだ。そんなに珍しいことではない。」
「そうなんだ?」
彼によれば、火山噴火や落雷などで草木が焼けることや、突風で地面に堆積した枯れ葉どうしが擦れ合って、空気の乾燥も相まって発火し、燃え広がることがあるのだと言う。
てっきり森の精霊かなにかの悪戯かと思った俺は、そんなことを口走らなくて良かったと思った。
「恐らくだが、地面が這いずり回っている。そのせいで摩擦が起きたのだろう。」
しかし彼のその表現にも、この森を一つの意識を持った動物と見なしていることが伺えた。少なくとも、木々が足を生やして総出で動き出したのではないらしい。
とは言えこの事態に対処を迫られているのだと緊迫した面持ちを崩せずにいた俺は、彼の何でもない様子に拍子抜けしてしまった。
「…別に何かする訳ではないぞ。火に誘われ見に行くだけだ、お前のようにな。」
最後の一言の意味が分からなかったが、火消しのようなものを行わなくて良いのかと驚いた。
なんとなく、Fenrirが水鉄砲みたいなものを噴射する姿を想像していたと言い返してやる。
「…なんだ、俺が火を吹けるから、何でも吐き出せると思っているのか。」
「うん、Fenrirならできてもおかしくないかなって。」
「考えてもみろ、俺が腹をたっぷたぷにするほど水を溜め込んで…こんなに走れると思うか?」
きっとあまりの重さで一歩も動けん。そもそも、俺が川の水を蓄えているところを見たことがあるか?
面白くもない正論をぶつくさいうので、こちらも正論を返す。
「そんなこと言ったら、Fenrirは腹の中に種火を飼っている訳じゃないだろう?」
「あれはな、俺が常日頃喰っている肉から出たガスに点火しているだけだ。少し汚いが、所謂げっぷと言う奴だな。」
「そうなの…?」
尤もらしいことを言っているように聞こえるが、そんなことが普通の狼はできるのか。
なんとなく理屈は分かったけれど、それとFenrirの尋常ならざる火耐性は別問題である気がする。
「…話を戻すが、俺達が沈火のために奔走してやる必要はない。こうして燃えて行った草木は肥料となって、焦土に再生をもたらすために必要だ。森を殺しているように思うかもしれないが、人為的でなければ、静観しているのが良いのだ。」
あまりにも大規模であると、住民たちは移動を余儀なくされるのが厄介だがな、と彼はせっかく周囲に浸透しつつあった動物たちが俺達とすれ違う方向に逃げて行っていることを教えてくれた。逃げ遅れれば死者が出ることも珍しくないのだという。
もし自分がこの動物たちと変わらぬ原始人であったなら、天災に翻弄される恐怖を目の当たりにしてどうしただろう。きっと興味本位で見に行くなどもってのほかだろうと思った。
滝の家から最も近い火の元へ風上の方から辿り着く頃には、周囲は霧よりも濃い煙に包まれ、ほとんど何も見えなかった。焦げ臭いにおいが目にまで染みてくる、とても焼けた肉のような良い匂いではない。
俺とFenrirはその中へ入って行かぬよう気を付けながら、もくもくと育っていくその様を、息を呑んで見上げていた。
「……。」
火の元など見える気もしない。既に収まりつつあるのか、或いはここから盛んになるのかすら分からなかったが、風で晴れた端の景色は痛々しいものだった。あれだけ新緑の色を喜んでいたというのに今は跡形もなく、残っていたのは焼け焦げた立木と、禿げて剥き出しとなった黒土だけだ。きっと、立ち入れば火傷は免れない。
あまりにも規模が大きい。それ以上近づくのはおろか、今すぐにでも離れた方が良さそうだ。
もし急激に風向きが変わって、俺達の方に熱波とともに迫ってきたら、そう悪い方に考えたくなるほどに、目の前の景色を飲み込む煙幕は化け物じみていた。
焦げついた荒れ地に、真っ黒に炭化したヘラジカの姿のようなものが見える。あれは、逃げ遅れた犠牲者だろうか。
「もう行こう…Fenrir…。」
俺は気づけば不安を声に滲ませ、そう呼びかけていたが、Fenrirは傾斜を登る恰好でその場に立ち尽くしたまま動かない。
「…俺が、守らなくちゃならなかった。」
「そんな、これはFenrirのせいじゃ…。」
「森が死んでいなければ、こんなに被害は出ずに済んだのだ。」
彼に拳があったなら、震えて握りしめていたような感情が、その言葉には感じられた。
鬱蒼と生い茂るばかりの密林ではなく、もっと動物たちによって手入れが行き届いていたなら、こんなに燃え広がることは無かったのだろうか。そもそも俺達の来訪がなければ、このような惨劇に見舞われずに済んだからかもしれない。
そうした元をたどって、この森が、彼の言う死んだ森になってしまったことに、彼自身が責任を感じているらしかった。狩りを通して命を奪う対象であるにも拘らず、この山火事で命を落とした多くの動植物たちへの悼みが伝わってくる。
だからFenrirが、その火災の焼け跡に向かって歩き出した時はどきっとして、思わず慌ててもう一度彼の名を呼んだ。
「Fenrirっ!!」
「あ、ああ…。」
彼は正気であったとは言え、とても弱々しくそう声を漏らす。
まるで敗走の将がそうするように、その惨禍をもう一度だけ見渡すと、俺を安全な目的地へと運び届けるため、再び走り出したのだった。




