23.白日の下に 2
23. Bring to Light
「ぶはぁっ……!!」
大慌てでまだ冷たい濁流の中をくぐり抜け、俺はようやく外の世界を拝むことが出来た。
実際、水浴みができたのは良かったと思う。
鬱屈していたのだと明確に分かったし、喧嘩していたのだと冷静にもなれた。
それに、自分でもちょっとにおいが気になっていたところだ、鼻の利くFenrirはもっと気にしてただろうか。
しかしまあお陰でびっちょびちょだ、風邪ぶり返したら困らせてやる。
あ、速達で送り返されるんだっけ?
まあ良いか。なんとでもなるでしょ。
携えていたなんでも入る鞄から着替えを取り出し身に着けると、俺は散策を開始した。
どっから来たんだろう?それすらもわからない。
湖畔を取り巻く静かな森を見渡しながら、ここだけが陽だまりとなっていることに気が付く。
それでこの池が狼の古巣、憩いの場として見合う場である理由が分かった気がした。
滝つぼから鳴る轟音も周りに沁み込んでいくだけで、洞穴の中より遥かに静かだ。
「へえ…。」
水面もそこから離れてしまえば穏やかなもので、ゆったりと陽の光を受けて輝いている。
岸辺には小枝の残骸が漂着しており、そこに座って透き通った水辺に足を泳がせてみたいと思った。
この旅の間、片時も止めることのなかった想像は、Fenrirがその場所でどうやって過ごしていたのかだった。
彼だったなら、その隣あたりで、転寝を決め込むだろうか。幼少期の彼はもっと活発だったろうか。
一つ言えることは、きっとFenrirは、自信をもってこの住処を選んでくれたのだろうということだ。
気に入った、と彼に示す意味でも、早く帰るよりも、少し遠出してみよう。
一人で森に踏み込むのはやはり緊張する。帰り道に迷う、なんてことは運よく今までなかったのだけれど、自分がどこにいるかという不安だけはいつも拭えなかった。
目的もなく歩く今に至っては、退き際がわからない。やっぱり周囲を見渡してみると、起伏に富んだ林の中で佇んでいるのが、はじめは冒険をしていると胸が高鳴っても、すぐにどうしようもなく怖くなってしまう。
今日はこれくらいにして、帰ろうかと気弱になる自分を奮いつつ、何処まで歩けば終わりにしてやろうかと心の奥底で伺うのだった。そんな心情のせいで、立ち止まればすぐに汗が引いて冷える。
それがいやで、またもう少し歩くのを繰り返していた。
まるで何処かに行き着くのを期待しているかのように、彷徨い歩き続ける。
そんな足取りだったからか、この森はどこにも自分を引き合わせてはくれなかった。
あるのは相変わらず、森の住人にしかわからない道のみ。
ようやく眼下に見つけた小川に、足を滑らせないよう恐る恐る降りていき、そこに腰を下ろすことにする。
木々に遮られ、陽はほとんど差さなかった。そのせいか少し寒い、物思いに耽るのならば、池の傍で座り込むのだったと後悔した。
気づいたら、Fenrirがいてくれたらなあ、と呟いていた。
少し登れば陽だまりがあるとわかって、あとでそちらに行こうとぼんやり眺めながら、落ち着かない気分のままその場で休む。
「Freyaは…。」
その続きを、今になっても考えている。
Fenrirには、すまなかったと思っている。
あなたが此処に戻ってくるのを、何千年先も、ここで待ち続けています。
彼女が俺に最後に言った言葉だ。
それからまた、こうして出会うまで、まだ千年も経っていないのだけれど。
普通に言葉を交わせていたから、俺はてっきり、今度こそうまくいっていると思い込んでいたのだ。
けれども彼女が俺に伝えた言葉、それは先のそれと寸分たがわぬものだった。
「…。」
思わず頭を抱え込んで唸った。思い出すだけで顔から火が出る。
彼女が待ち続けている自分は、まだ違うのだということはいくら鈍い自分でもわかった。
俺はもう、ただ彼女が認めてくれるならと、喜んで今の地位を捨てた。
感覚はもう既に麻痺しきっていたけれど、人の命を奪うための神であることに、嫌気もさしていた。
新たな人生というにはおこがましすぎるけれど、一生かけて償って、できることなら彼女と寄り添い続けたい。
俺がFenrirという狼の名前を口にしたとき、Freyaの表情がわずかながら動いたのを俺は見過ごさなかった。
それまで、怪物と言われているけれど本当は優しいやつ、程度に言葉を濁し、今回はそいつを助けるためにこの村に戻ってきたのだと彼女には伝えていた。
もうだれも殺さない、自分は本当に神であることをやめたのだと胸を張って、といっても内心はお察しの通りだが、俺は彼女の前に図々しくも姿を現したのだ。
しかしそれが彼女にとって、俺たちが都合のいいようにその”怪物”を手懐け、飼いならそうとしているように思えるのは、むしろそれが皮肉にも真実であるだけに弁明の仕様がなかった。
あわよくば殺すのでしょう。
そう言い放たれた時は、言葉に詰まり、果たしてそうだろうかと考えさせられさえした。
それから、一度も、会えていない。
彼女には、どうしても俺がその怪物を手にかけるように見えてならないだろうし、それはどうしようもないことだった。
どうしようもないことだろうか、結局、俺は、何も変わっていないのだろう。
このまままた、同じ言葉を浴びせられる前にと、ひどく取り乱したまま彼女のもとを離れたのがひどく滑稽だった。
どうしたら彼女に、俺は誠意を見せることが出来るだろうか。
自分が彼女に愛想を尽かされていないと自惚れていられるのは、ひとえに彼女の“待ち続けている”という言葉があるからだけだった。
実際、あれだけの美しさを湛えているだけあって、何度か求婚の話があったとも聞く。落ち着いてなど当然いられなかったけれども、彼女が一度も首を縦に振ったことがないというのが、わずかながらの誇りでもあったのだ。
結局自分がとった行動というのは、洗いざらいを彼女に打ち明けることだった。
“怪物”と表面上仲良くしているのではない、ということを、Freyaに知ってほしかったのだ。
Fenrirという名前の狼に、彼の住む森を案内してもらえることになった。
誕生日プレゼントのお礼だってさ。大丈夫、取って喰われやしないってわかってるからね。
長旅になる、きっと。しばらく戻らないだろう。
最後にそうとだけ言い残して、足早にFenrirのもとへ赴いた頃には、彼女はFenrirとの邂逅を果たしていることになる。
それで彼女が焼き餅でも焼いてくれれば儲けものだったが、そんなことは当然なかった。
けれどもこの旅が小さな一歩になってくれればと、まるでこの森を歩くぐらいの自信のなさを伴って踏み出したのだった。
「この仕事が終わったら、俺は神様であることをやめる。
俺がもし、この”怪物”を、Fenrirという狼を救うことが出来たなら、
すべてが終わった時には、Freya…」
気が付けば、思い定めていた陽だまりは消え、周囲は一段と暗くなっていった。
こうなってしまっては、もう寒くて座り込んでなどいられない。
…仕方ない、ちょっと気が進まないけど、帰るとするかな。
Fenrirのことだから、日が暮れる頃には迎えに来てくれるんじゃないかと期待していただけに、もう少し待とう、もう少しだけと粘ってみたが、本当に風邪をぶり返して仕舞いそうだ。
まだ、怒っているのかな、あいつ。
あれ、自分はぼんやりとして、こんなところに座り込んでいたのだったか。
立ち上がって辺りを見渡すと、俺は見覚えのない場所に立ち竦んでいた。
もともと訪れたことのない、ましてや密林の中で、そうだと言える自信はあまり無いのだが、どこか違う気がする。
「は、早く帰ろ…。」
それは最悪、来た道に自信が持てなくなると言うことでもあったから、何事もなく洞穴へたどり着いたときは、安心するどころか、寧ろ腑に落ちなかったぐらいだった。
「ただいまー…。」
Fenrirは、珍しくいつもの体勢ではなく、四肢を投げ出して身体を横たえて眠っていた。
俺の大き目な独り言に目を覚ました様子もなく、狸寝入りを決め込んでいる訳ではなさそうで、腹をだしてすうすうと寝息を立てている。
出迎えるどころか、口を聞いてもくれないのか、少し寂しいなあ。
幸い火の番だけはしてくれていたようで、丸太の背もたれの前には、彼が用意してくれた果実と、肉の切れ端が置いてあった。
それを喰って、さっさと寝ろ、と言うことなのだろう。
「いただきまーす…。」
耳がちょっとだけ動いた気がしたけれど、やっぱり返事はないのだった。
俺は手早く食事を済ませると、今日だけはちょっと彼から離れたところで、マントを身体にきつく巻き付けて眠ったのだった。




