21.電脳の森 1
21. Electric Forest
彼より先に目が醒めたことは当然と言えるほど、最悪の朝であった。
「むぅ……。」
どんな夢を見ていたのかは、覚えていない。
きっとこいつのお陰だと思う、彼が傍にいたから、追っ払ってくれた。
しかし、その悪い夢も、誰かが隣で眠ったりしなければ、見ずに済んだものだと思ったのだ。
彼よりも早起きをすることは、この旅において余程重要であるという気がする。
お陰で口の中のものを捨てておくことができたし、洞穴の入り口から昨日とは逆の風景を一匹で眺めていると、初めの場所をここに選んで良かったと思えてきたから。
体調も回復した。俺は昨日より、強い狼だろう。
やっと目を、醒ましたか。
彼は俺が再び起こしてやった焚火に当たり、飲み物をゆっくりと口へ運んでいる。
肩からずり落ちそうなマントを身体に寄せては身体を震わせ、いたく寒そうにしていた。
「おはよう…Fenrir」
俺が戻ってきたことに気づいたTeusは、少し眠たそうに挨拶をする。
「あぁ…」
まるで特別な朝であるかのような、彼がかけた言葉にはそんな力があった。
思えばそう言ってもらえる相手を失って久しい。口ごもりそうになりながら俺もぎこちなく返した。
「おはよう…」
「ねえねえFenrir、ちゃんと付いてきてよ?」
「ああ、言われずとも隣にいるぞ。」
日も差し込んでくるようになり、Teusは洞穴の探索をはじめた。
産まれて歩き回れるようになった子供は、そんな冒険をしたがるものだ。どれどれ、付き合ってやるとするかな。
と言っても、この寝床には何か特別なものがあるわけではない。彼が退屈しないよう、俺は案内役を買って出る。
「こっちだ…。」
どれ、久しぶりに覗いてみるとするか。
「結構長く続いてるみたいだけど、何処かに通じていたりするの?」
昨日火を囲んだ場所が洞穴の最奥であるとばかり思っていたらしく、彼は並んで歩く俺に驚きの声をあげた。
声の反響具合で分かりそうなものだが、視認できなかったのでは仕方あるまい。
「いいや、記憶ではもう少しで行き止まりだ…」
全長およそ200mと言ったところだ。途中で大きくうねって僅かに下り、再び崖の方向へ戻る一本道になっている。よく耳を澄ませば、Teusでも濁流の音が聞こえてくるだろう。
流石に暗くなってきて、俺は予めTeusに用意させた松明に灯をともさせた。
「わっ!!」
明りに反応したのか、眼前に黒い物体が飛んできて彼は大きく仰け反って俺に寄りかかる。
「なんだよ、コウモリか…」
俺くらいの視点が一番コウモリに邪魔になる、彼に明かりを持たせて正解だったようだ。
記憶に反して、最奥は松明の明かりに加えて僅かに明るかった。天井を見上げると人が一人やっと出入りできそうなくらいの穴から、朝日が幾筋か降り注いでいた。
「ここが終点だ…、足元を照らしてみろ。」
彼は頷いて、掲げていた松明をゆっくりと下ろす。
「…? これ…藁?」
「だろうな。」
「これ、ここにけっこう積んである…なんで…?」
彼が照らした先には言う通り、俺がちょうど冬を越す時に用意したぐらいの寝床がこしらえてあった。
一度静まり返り、唾を飲み込む音が聞こえる。彼がこの冒険を心から楽しんでくれているのが伝わってきた。
「Fenrir…昔はここで暮らしてたの? それとも…」
実に勘が良い。
「誰か使ってたのか…?」
今その質問、特に後者について答えるのは難しい。
「これを見てくれ」
俺は藁の山の脇へ彼を案内すると、再び足元を照らすよう促した。
「読めるか?」
「…!! これは…」
彼は屈んで俺の示す先へ明かりを持つ手を伸ばした。
俺が彼をここまで招き入れた理由は他でもない。
「待って、これ壁中に書いてあるのか!?」
Teusは驚きの声をあげ、立ち上がった。
松明を振りかざしてみるも全貌は掴めないようだが、概ね正しい。
一つは地面に爪で引っ掻いたような筆跡で書かれている文字のようなものだった。
「なんかあれだね、Fenrirが書きそうな感じの文字だよね。」
実際その通りなのだが、その文字は俺が読み書きできるものではなくて、Teusに聞けばわかるかもしれないと思ってここまで来てもらったのだった。
「うーん…ごめんだけど俺も読めない。」
彼に見せたときの表情から、何か知っているのではと期待したのだが残念だ。
「でもさ、こういう古代文字って周辺の村の年寄りが知ってたりするかも。俺、村へ戻った時に聞いてみるよ。」
Teusはそう言って鞄から紙と筆記具一式を取り出して、わざわざ書き写してくれたのだ。
上手く書けてるかな、と俺に見せるので、上出来だと伝えた。
彼の気遣いに心から感謝した、もしかすると往年の謎が解けるかもしれない。
そしてもう一つは、こちらは明らかに何か塗料で壁一面に描かれていた。
これが何の絵であるのか、彼は端から端まで壁を照らして歩き、ようやく答えに辿り着いた。
「Fenrirだ!!」
いや、違う…。
「でも、こんな巨大な狼なんてFenrir以外ありえないだろ?」
別にどんなスケールで絵を描こうが良いだろう、と反論したいところだったが実際のところその立派な壁画は忠実に俺の原寸大であると言えた。
それでも俺は自画像を描いてもらった覚えは無い、と返す。
「考え方としてはこうだ…」
何から話して良いのか、少し頭を整理する。
「ひとつは、信じ難いことかもしれないが…俺以外に、怪物のような大きさの狼がこの森に存在していた、ということだ。」
妥当な期待だろう、という言葉にTeusは頷く。
「そして俺には、その目星がついている。」
えっ、と彼は心底驚いた表情を見せた。
「だがその狼がこの世にはもういないことも知っているのだ。」
彼の中で物語が紡ぎだされる前に俺ははっきりと告げた。
Teusはどこまで知っているのだろう。あの洞穴の亡骸をちらとでも見ただろうか。
「そうか…でも!!」
「その通りだ、いるかもしれない。…まだこの森のどこかに、俺と、この絵と同じ、狼が。」
暗がりでもはっきり見えるTeusの表情は、そのように結論した時の俺と全く同じであったに違いない。
「飛び上がらんばかりに喜んだとも。そして胸を膨らませながら俺は、大冒険を始めたという訳だな。」
そう、この旅路は、追憶の形をとるのだ。
「…もう十年では、きかないぐらい前の話だ。」
結局、見つからなかった。
俺は本当に走ったのだ、怪物として与えられた力の全てを駆使したのだから、その現実を受け入れるほかなった。
暗い話がしたいのではない、外へ出ようと促す。
「まあ、諦めがついたからな。一匹で生きる決心というか、そう悟ったのだ。」
既にこの物語は萎んでいると告げたせいか、Teusは悲しそうだった。子供に現実を突きつけた大人のように、なんだか申し訳ない気分になる。
「だがな、もうひとつ分かったことがある。」
「え…?」
松明を持つ右手すら下げてしまっていたTeusが顔を上げた。
「俺もあの文字は爪で刻んだものだと思っている。俺が唯一知っている狼のものだと考えて間違いないだろう。そして…」
去り際に俺はもう一度岩壁のほうを鼻面で示す。
「あれは人が描いたものだと思っている。」
俺には絵心が無いが、筆を走らせることはできる。だが人間が狼を見て、それを描いたのだと考えているのだ。
あの狼は自画像なんて柄でもないしな。
「つまり…?」
「Teus。俺はな、人間とともに生きていくことなんて出来ないと思っていたのだ。だから、その考えは間違いだと。」
そう思っていたのだ。
「…だが、お前がいる。」
今度はTeusにも、物語が紡がれ始めたようだ。
「俺以外にも、いたってこと、か…」
狼とともに生きた人間が。
「少なくとも、お前と出会って真っ先に思い当たったのが、そういったものだったと告白しておこう。」
「…なんだか変な気分だ」
同感だな。
「俺はこの狼のことをおそらく知っている。もしかすると、お前はこの描き手を知っているのかもしれないな。」
「そうか、確かにそうかもしれないね。」
何の根拠もなかったが、その憶測は楽しかった。
「此処へ連れてきてくれてありがとう。見れて良かったよ、それに…」
まだまだ見せたいものは山ほどあるのだぞ、と返そうとして俺は口を噤んだ。
「ちょっと自信がついたよ、間違ってなかったんだって。」
「…そうかい。」
俺は耳を平らにして無関心に答えた。
それから暫くは、この断崖絶壁を拠点に構えて過ごしていた。
Teusはすっかりこの玄関が気にってしまったようで、地上に這い出るまで俺にしがみつくのを何かのアトラクションのように楽しむようになっていた。一度、僅かにせりだした岩の縁を伝って登ろうとして滑落してからずっとこうだ。安全安心な狼の背中が一番という訳だ。
出かけるときというのは大抵が俺の狩りが目的だったが、時折Teusは草食動物を再びあの扉から野に放ったりして頭数を確保してくれている。
「うん、この辺りはもう大丈夫そうだ。」
今、周囲にどんな動物が、どこに、どれくらいの数いるのかを、俺の耳で正確に伝えてやるとTeusはほっとしたような表情を見せた。
彼なりに再導入という旅の目的は上手くいっているらしく、こちらも一安心と言ったところだろうか。
「それでは…、そろそろ次の場所へ移動するとしよう。」
もう移動するのかあ。Teusは名残惜しそうに崖の縁に立ち、遥か下方の洞穴を見下ろす。
始めに訪れたときはトラウマになったかと思うような経験をしたと言うのに、意外と図太い。そんなところに突っ立ってると後ろから突き落とすぞ、と言う脅しにも耳を貸さなかったのだ。
「…また連れて行ってくれる?」
「どうだろうな」
そこは素直にうん、って言ってよ。Teusは半笑いで俺の背中に乗り込む。
勿論いつでも望みどおりにしてやりたいと思っているし、我ながらひねくれた答えだとも思ったが、本心でもあった。
「俺だって、またここへ訪れるとは思っていなかったのだ。」
実際、感慨深い。あの時見た景色を抱いて死ぬ筈だったから。
Teusが口を噤んだのがわかった。
「…Fenrirが乗せてくれないと遠すぎる。」
呟くぐらいの調子で言うので茶化す甲斐もない。
「そうだな。運賃は、腹いっぱいの肉だ。」
次の目的地までは、初めの洞穴からここまでの道のりの倍はあった。
大地に大きく開いたこの亀裂に沿って北側へ走っていけば良いのだが、途中水脈の音が地下からはっきり聞こえてくるあたりでその流れに沿う必要がある。
どのあたりで水脈に突き当たるかは、正直うろ覚えだった。数年前にこの道筋を辿って以来だからな。その近くに来ていると感じたところで、周囲の見覚えがある手掛かりに気を配るしかなさそうだった。
俺の臭いは、もう多分残っていないだろうから。
だが、そのせいで俺は走っている間、記憶との照らし合わせに気を取られてばかりで、もっと大事なTeusの異変に気が付かなかったのだ。
「次の目的地は遠いってことは、どこかで一泊するってこと?」
幸いにも日が暮れる少し前に水脈の音を捉え、俺たちは再び飲み込まれた森の帳の中を歩いていた。
「そういうことだが、野宿はできるか?」
「うん、大丈夫だよ。」
今までもほぼ野宿だったし、と言うので雨風も今夜は凌げないのだぞと念を押す。
まあ、この数日で彼が思っていたよりタフだと言うことはわかっていた。
育ちの良い人間が生きて行けるほどこの森は甘くない、と斜に構えて見ていたのだが彼は実に上手く適応した。
硬い床で眠っても、まだ冷たい川で水を浴びても、俺が馬鹿にするからかもしれないが全く不満をこぼさない。そうした経験でもあるのだろうか。
鑑みれば、Teusは一人でこの森に入り、俺に初めて会いに来てくれた奴だ、当然と言えばそうなのかもしれない。
今宵は月明かりも見えなかった、研ぎ澄まされた耳と記憶だけで、荒れ果てた獣道を歩く。
「…遅くなって済まない、やっと休めるぞ。」
そう言って屈み、Teusに小さい声で呼びかけた頃にはすっかり夜も更け、真夜中になってしまった。
彼は俺の背中の上で安らかな寝息を立てて眠ってしまったのだった。
乗り心地が良かったのであればゆっくり歩いた甲斐があると言うものだが、そのまま起きようとしないのは困ったことだった。俺は一つため息をつくと、細心の注意を払ってTeusを鼻の上に乗せ、起こさないよう寝かせた。
夜風が強く、毛皮が靡く。
目が醒めれば、見晴らしの良さに驚くだろう。
「世話の焼ける…」
俺はTeusが纏っていた外套を恐る恐る口に咥え、身体を包んでやった。
この外套は風に靡くと背後で音を立ててうるさい、けれどもまだ必要なのだろうな。
春とは言え、やはり夜は凍える。
Teusの近くで口を開けるのは緊張する。こんなものかと止めた。
少し離れたところで俺はTeusに尾を向けるようにして、ゆっくりと腹這いになった。
疲れた…。
殆ど丸一日使って森を縦断したので、流石にへとへとだ。明日もこれと同じ距離を走らなければならないと思うと、少し朝寝坊したい気持ちだった。それと大量の朝ご飯が必要だろう。
とにかく、こいつが早起きしないことを祈るばかりだ。
視界はぼやけ、微睡んでゆく。




