20.果てなき空 4
20. Endless Sky 4
「さて…、結果論ではあるが良い高さまで降りることができたな。もう少しだ。」
「え?…どういうこと?」
いまだに目的地が分からない俺は、彼に説明を求めて緊張の声音を保ったまま尋ねる。
此処までやって来ておいてなんだが、これはFenrirが俺の肝を冷やすアトラクションに過ぎなかったのではないか、と訝しんでいるのだ。
「なんだ、今更気付いたのか。」
「は?本気で言ってるのFenrir!?」
「んな訳があるか。うるさいから耳元で騒ぐな。」
「また変な動きして俺が落ちたらどうす…」
「黙れ。耳が痛い。」
だ、黙れって…
「こっちだ……。」
直分かる、と言うことなのだろう、Fenrirはそれ以上の問答に付き合うことを止め、壁を平行にそろそろと這いだした。
そしてまあこの体勢が背中にいると非常に辛い。
結局一度止まってもらって俺はFenrirの左横腹にしがみつき、それまで事の成り行きを見守って貰っていた。
滑り落ちたら、またキャッチして貰わないといけない。
「くすぐったくない?大丈夫?」
「振り落とすぞ」
心配して聞いてるのに。
「…その、爪で岩肌ひっかいても痛くないの?」
「ん、これか?そうだな…」
思えばようやくまともな質問にたどり着いた気がする。付け焼刃の知識ではあるが、狼の爪は獲物をがっちり捕らえるのには適しているが木登りは得意ではないと、最近読んだからだ。
「お前たちに例えるとだな…そうだな、ケーキに指を突っ込むような感じだ。」
「そんなこの壁甘くないよ」
Fenrirの爪が尋常じゃなく頑丈だということはよくわかった。
しばらくしてようやく彼の巣穴がどういうものだったのかがわかった。
「ここだな…」
たどり着いたのは崖の下にぽっかりと開いた空洞だった。
ちょうどFenrirと初めて出会ったあの洞穴と同じくらいで、彼の巨体が出入りするには不自由しなさそうだった。
入口らしきものが僅かにせり出しているが、そこへつながる道らしきものは見当たらない。
…いや、俺たちが来た方とは反対側の崖の壁沿いに、人間が勇気を出してようやく通れそうな道が緩やかに伸びていた。おそらくこれが地上と唯一つながる道なのだろう、こうやって壁を歩くのを除いては。
「掴まっていろ…」
全く…爬虫類かよ。身をかがめてお尻をふりふりとくねらせながら進んでいるFenrirをぼんやり眺めているところで俺は全身が強張った。
待って、今度は何をしようと言うのだ!?
Fenrirは殆ど入口の真上まで来ていた。ああ、なるほど。今から飛び降りて着地すると言うのだな。今度こそ騙されないぞと俺は彼の背中へ移動しにかかった。
ようやく彼の行動に予測がつくようになったなと自賛していたが、なぜか彼の背中から身体が離れていく。
「蜘蛛かよもうっ…!!」
最終的に両手で彼の立派な背中の毛の先だけを掴むだけの体勢になった頃には、Fenrirはなぜか洞穴の天井に張り付いて侵入していたとわかった。
まあこの高さなら死にはしないだろうと、半ば苦笑いで何の抵抗もできずに落ちていくが、彼はいち早く天井を蹴り地面に着地すると、背中でふわりと俺を受け止めた。
最早掴まっていろとすら言わないので、俺ももう何も言わない。
屈んで促してくれたので、ありがとうとお礼だけ言って降り立つと、ようやく洞穴を見渡す。
「……。」
日はだいぶ傾いてきたためか、洞穴の奥までは見通せない。しかし彼と初めて出会ったあの巣穴のように、巨大な狼が動き回るのには不自由しなさそうな広さだった。
けれども地面の様子はまるで違っていて、殆ど立ち入ることを許されなかったあの巣穴は余程手入れが行き届いていると見えた。
普通に歩けるのは入り口付近だけで、そこからはごつごつとした岩ばかりが積まれていた。隙間に足を取られないよう注意しながら後に続く。
「…今日はここで休むとしよう。」
唐突にFenrirが歩みを止め、首をゆるゆると振ると俺にそう告げた。
ぼんやりとしかもう狼の姿が見えないほど暗かったが、先ほどより歩きやすく、横になっても問題なさそうだとわかった。
ここが寝室みたいなものなのだろう。
「ふうう…」
俺はゆっくりと息を吐くと、ほどけた表情で彼の走りを労ってお疲れと言った。
「…暗いな。薪でも持ってくるとしよう」
「え?あ…うん」
ぶっきらぼうな奴だ。彼の尻尾がどんな表情をしているのかさえよく見えないのは困ったことだった。
「ついてくるな、足手纏いだ」
「はーい。」
ぎらつかせた眼だけは、いつも通り、狼らしく良く見える。
俺だってもう一度こんな救出劇の主人公やるのはごめんだった。
Fenrirに甘えて調達してもらった方が速そうだ。
彼はさっさと洞穴を出ていってしまう。古巣と言うぐらいなのだからもう少し紹介してくれても良いのにな。
とは言えこちらから聞いたりすることは絶対にしないことにしたのだから、俺は客人としてもてなされるよりなかったのだった。水を打ったように静かだと、静かに話し出す彼の口調が思い出されてたまらない。
怒られない程度に中でも歩き回るとしよう。
「ああ…忘れていた!!」
Teus、といつになく上気した声でFenrirが呼ぶ。
どうしたのだろう、俺はまだ少し明るい入り口付近へ急いで戻った。
「これをぜひお前に見せてやりたかったのだ。」
早く見てくれ、とせかすように顔と目線を外へと向ける。
「…!!」
それは夕日が沈む風景だった。
聳え立つ谷の狭間は、ちょうど太陽の通り道だったのだ。
どこまでも続く岩壁は、遮られることなく沈む日に照らされ、琥珀色に輝いている。
それは心の中にしっかりと焼き付くほど、いつまでも続いた。
気づけばFenrirはいなかった。沈まぬうちに戻ってきてくれればそれで良い。
旅の初日はことさら疲れる、あの時もそうだったのだから。
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Teusはその日の夜はやたらと俺に話しかけたかったようだ。
この洞穴は自由に見て回っても良いのか、いつから使っていたのか、ここに住んでた時の思い出話もしてよ。
あと床は硬いし寒いからその丸くなった真ん中のスペースで寝させろとか、そんな調子だった。
最後の意味不明なお願い以外はすべて答えてやりたかったのだが、今日はもう休む、また明日だとだけ告げて寝る体制になった。
なおもぶつぶつ不平を垂れていたが、近づいてきたときに牙を剥いて絶対一緒には寝ないと言う断固たる意志を示すと大人しく諦めてくれた。
あいにく、体調が悪かったのだ。
少し冷たいか、と思わないわけではなかったが、それ以上にTeusに俺の異変を嗅ぎ取られたくなくなった。
情けない話ではあるが認めざるを得ないことで、一日中走り続ける、と言うことを暫くやっていなかったせいで身体中が疲労でこわばってしんどかった。
寒気に近い、じっとしているのも辛かったが眠るより無いと思った。というよりも眠れば楽になると信じる他なかった。
これだけ苦しい中を耐え凌ぐことにも、慣れたと言いたいところだったが、俺は甘くて今が苦しいことをことさら伝えたがる。過去にはもっと、死の淵でのたうち回っていたときがあっただろうとか、そうした時に俺は救われただろうとか、どうしてか糧とならない。
…済まない、大袈裟だった。少ししんどかっただけだ。
それよりも俺の中に大きくのしかかって来るものが一つあった。
Teusだ。
彼を乗せて走ることにはようやく慣れてきたと言ってよいだろう。時折こいつはあらぬ方向にすっ飛んで行ったりするのが面倒だが、この遊説とやらでこれ以上苦労することはないだろう。
しかし、彼が眠っている時間をともに過ごすことは並大抵の所業ではないように思われたのだ。
片眼を開け、焚火の向こうでマントにくるまって眠る彼を見る。
顔は覗けないが呼吸は深く、恐らく眠っている。
何が怖いかと言うと、それは……。
俺が彼を殺してしまったりしないだろうかということだ。
血迷ったことをと考えるかもしれないが、正にそういうことなのだ。
万が一にでも俺の気が狂って、ほらここに一匹の人間が転がっているぞと彼を喰いちぎる。
そんな一面が俺の中にあって、それは俺が眠って意識を明け渡すのを今か今かと待ちわびている。
そうした妄想に憑りつかれ、延々と苛まれていた。
Teusが怯えるであろう狼が、俺の中にいる。
そんな疑念が頭を擡げ、その通りに巨大に育つ。
体調も相俟って、その思考のぬかるみに俺はずぶずぶとはまっていく。
早く、意識よ飛んでくれ、ときつく目をつぶる。
だから彼と身を寄せ合って眠るなどもってのほかだったのだ。
おちおち欠伸もしてられない。
開いた口でガブリと行ったらどうするのだ。
「……。」
…よく寝ていられるな、俺に喰われないと思っている証拠だ。
それではまるで寝るのが悪いことのようなので流石に自分を諫める。
駄目だ、収拾がつかない。消え入る火を見てため息をつく。
まあ、考えていた方が苦痛が紛れる。それも良かろう。
どれ、薪でもくべてやるとするか、あいつ寒がりだからな。
余っていた枝きれをそっと口に加え、焚火に近づけたときだった。
「…!?」
Teusが寝返りを打ち、がばっとこちらに身体を向けた。
驚いて思わず枝を取り落として音を立ててしまう。
…大丈夫、だったか?
良かった、起こさずに済んだようだ。
悪いことをした。彼と話をしていた方が、俺は楽だったかもしれない。
俺は切れ端を拾いなおすと、火を乱さぬようそっと差し込むと、再び身体を丸め込んだ。
その晩、俺は本当にTeusのことを、身体の一部を喰ってしまう夢を見た。
見てみれば、あいつの身体がどこか欠けていて、口の中に変な感触がして、それで喉元まで何かが一気にせりあがってきた悪夢だった。
目が醒めたとき、彼が身体を隠して眠っているのを俺は心底恨んだのだった。




