20.果てなき空 3
20. Endless Sky
森もまだ人の行く手を阻むほどは茂っていなかったし、ちょっとFenrirに乗るのを警戒したつもりなのだが、彼は意にも介さなかったようだ。
運ばれる風はまだ少し冷たくて、木漏れ日の下を歩くのが心地よい。雨の日を考えて厚手のブーツを履いてきたが、じき必要なくなるかもしれないと思った。
まだこの土地を訪れて二月と半分だった。
新しい街だとか都というのは、それだけで輝いて見えて、とにかく新鮮と言うだけで退屈しないものだ。
しかし同時に溶け込めない虚しさや不安もつきまとう。そう感じるのはその土地の市場だとか祭りを見かけるときであり、この土地に不慣れだと相手が知った時の表情が曇ったときである。
この森は、何かを騒がしく見せてくることも、剣呑な表情をすることもなかった。
それなのに、あんなに拒絶されなければ俺は彼の毛皮にしがみついていたかったぐらい不安で仕方がなかったし、それでいて、彼と一緒に地の果てまで走っていけそうな気がしていた。
「すぐにそんな考えは改めることになるだろう」
意外なことにFenrirはそんな俺の話を笑い飛ばした。彼のことだから、代弁者としてこの森は静かだ、みたいなことを言って聞かせてくれるんじゃないかと期待していたのに。
「確かにこの森は静かだがな、お前が思っているほど平和ぼけしていないのだ。」
平和、という言葉が少し引っかかったがそうなの、と返しておいた。
いずれわかる、長旅だからな。Fenrirはまたそう繰り返す。自然と離れた人にはわかるまい、と言ったところだろうか。
まあ実際そうだし、言い返すのはやめておいた。
彼は流れの無い小さな池で丹念に口元を洗っていた。どうにも牙と口元が血で染まっているのが気になるらしい。水面で牙を剥いては、見た目に食べ汚しが残っていないかを確認している。
「綺麗好きだね、Fenrirって。」
「まあな。牙の手入れは不可欠だ…。」
「歯磨きしてあげよっか?」
「骨や木の枝を齧っていれば良い。まあ、歯ごたえがあるものが欲しいんだが、あれば持って来てくれよ。」
「ああ…骨ねえ…。」
考えておくよ。Fenrirみたいに大きな動物がいれば良いけどなあ。
流れのある川なら水でも飲もうかと思ったが、水筒にはまだ余裕があったので我慢することにした。これで腹でも壊したらそれこそ笑えない。
小休止を挟んで、俺は再びFenrirに飛び乗った。
お昼は過ぎたところだろうか、彼はもう今日の寝床へ向かうと言う。
「もう目的地決まってるんだ?」
乗り慣れてしがみつく力も多少抜けて、喋る余裕ができたつもりだ。
「古巣のようなものだ…。俺も寄りたいと思っていてな」
ふうん、と呟き、どんな場所だろうと想像しながら後ろへと飛ぶ景色を眺める。
彼はあの洞穴のような巣穴をこの森にいくつか持っていて、そこを転々としているのだろうか。
今はあそこに居を構えているものとばかり思っていたけれど、ひょっとすると彼は自分が思っているよりも頻繁に寝床を移し、この森を見守っているのかもしれない。
そんな狼の冒険の想像は膨らみ続けたが、今度こそ俺はFenrirの家に入れてもらえるのかと思っただけでなんだか悪くない気分だった。
古巣に着いたら、彼のその昔話に聞き入るとしよう。
まだ空は明るかったが、段々と曇り始めた。雨が降る様子はないものの、先ほどの散歩で感じたような陽気さは既にない。
風のざわつく音だけが耳を撫でるので、俺は彼が没頭している走りを邪魔しないよう、毛皮にぴたりと寄り添っては考え事をする。
それは、Fenrirがどうして自分を助けたのか、泣きながら尋ねたその答えだ。
どれだけ戸惑わずに彼を見つめようとも、俺に選べる言葉は、そんなに多くないという気がしてしまう。
でもちゃんと、その場を設けて彼には伝えなくてはと思っているから。
少しだけ、これからも時間があったら、想いを巡らせたいな。
静寂を破ったのは、Fenrirのほうだった。
「掴まっていろ…」
「ん…?」
かれこれ小一時間走り続けていたFenrirが遂に終着を告げたのだ。
ただただ居心地の良い彼の背中でのんびりしていた俺は気の抜けた声で返事をする。
「ああ…了解」
心なしか彼はスピードを上げ、その巣穴への歩みを速めた。
とはいえ先刻の狩りに立ち会ったときに比べれば驚くに値しない、あの時は彼の意表を突く動きにしてやられたけれど、今回はそんなこともないから安心…。
そう慢心した直後、突如周囲を覆っていた木々が消え、視界が晴れた。ここら一帯の森林地帯を抜けたのだ。
「Fenrir…此処どこなの!?」
「言っても分かるまいが。ヴァン川を遥か北へ上ったところだ。」
彼は走りやすくなったと言わんばかりに更にスピードを上げる、流石に怖くなって、俺は毛皮をつかむ手に力を込めた。
凡その場所はつかめたとして、彼の言う古巣は本当に見晴らしの良い場所に設けてあるのだろうか?
人間に決して姿を見せたがらない狼だから、この辺りなら安心だろうとはいえ、どうも似つかわしくないような気がする。
「ねえ、いまどんな感じ…」
俺はFenrirに貼りついていた上体を少し上げ、恐る恐る行き先を確認した。
肝心の前方は彼の愛くるしい頭で全く見えなかったが、それでも状況は容易に理解できた。
「…!!」
前方には巨大な割れ目が見渡す限り広がっていた。
―崖だ
左右どちらを見渡しても、その裂け目からのぞく岩肌の壁が果てしなく続いて顔を見合わせていた。底は見えないけれど、轟々と喚く奔流が頭に浮かぶ。
血の気が引いて、彼がやろうとしていることを本気かと疑う。
…まさか、この崖を跳び越えようと言うのか?
対岸の淵までは一目見ただけでも遥か向こうだ。どれほど離れているかは分からなかったが跳んでそちら側に行く、という発想が愚かしく見える距離であることは確かだった。
いくらFenrirの身体能力がずば抜けているからと言って、とても届くはずがない。
ここから見えないというだけで、正面に向こう岸にかかる桟橋がかかっているのだろうか?だがもしそうだとしてもこんなに彼がスピードを上げている説明がつかない。本当に跳ぶ気なのだ!
「ひぃっ!!」
待て待て待て、そんなの絶対無理だ!! 情けない声が漏れ、俺は再びFenrirにしがみつく。
まもなく彼は狙いすましたタイミングで踏み切って空へと跳びあがる、その衝撃に振り落とされないよう俺は彼の背中と僅かに間を空けて備えた。
Fenrirのばかっ。対岸に着いたら、覚えてろ…!
…ところが次の瞬間、体感のスピードが急激に落ちた。
一瞬が永遠に感じられる、という奴だろうか。きつく目をつぶって耐え凌ぐも、彼はいつまで経っても地面から離れない。
なんだ、一体どうなってる?
ついに止まるんじゃないかというところまで落ちた。
…え?ひょっとしてもう着地した、とか?
そんな瞬間移動じみた芸当すらこの狼ならやってのけかねないせいで、訳の分からない憶測が立つ。
とにかく現状を確認したいと俺は乗馬するように上体を起こし、あたりを見渡した。
…なんだ、まだ崖のこちら側にいるじゃないか。淵にたどり着いたようだけど…
そう把握して前を向き直した時、俺は完全にFenrirに縋る手の力を抜いていた。
「…!?」
突然俺は落下している感覚に襲われた。たとえるならば、ジェットコースターの頂点から、そうと知らずにその先の景色をそっくり保存しながら急降下していくのに似ているだろうか。
なにが起こっているか分からない。ただ浮遊感でお腹のあたりがすっとして不安になる。
そして次の瞬間には俺は重力に従って彼の背中から前方へゆっくり投げ出された。
そのまま彼の頭にぶつかりながらでんぐり返しをする。
「えっ…えっ…!?」
遂に俺はFenrirと空中分離してしまった。崖の壁面と逆さに相対するようにして、離れていく。
その刹那は文字通り止まっているようで、見えたのは壁に四肢の爪を喰い込ませて張り付く狼の姿だった。
落ちると理解した瞬間、Fenrirの俺に気づいた時の目の感情の無さといったらなかった。
眼下には俺が想像したよりもっと勢いのある濁流が轟音をとどろかせていた。あんなのに飲み込まれたら流石に神様だって死ぬ、こうなってしまえばただの人だ。
こんなとき、下を向いては決していけない。半ばパニックになっていた俺はなぜか冷静にそんな教訓を噛み締める。
ああ、こんなことになるなら馬以外の現し身をもっと練習しておくんだった!!
「うあ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛!!」
絶叫する俺に対してFenrirのほうは冷静だった。俺が滑り台のように彼の背中を転がってしまったせいで、岩壁に張り付くFenrirとはかなり距離があったのだが、重力も駆使していち早く俺より先に壁を垂直に降りると上のほうに向きなおり、両前脚をふわりと浮かせ、俺を受け止めにかかった。
そうせざるを得なかった訳だが、両方の後ろ脚の爪を岩壁にひっかけているだけの不安定な体勢のFenrirの顔面に、俺はお構いなしにしがみつく。
「んぐうぅぅ…!!」
彼の顔にほとんどぶつかるようにして俺は受け止められた。Fenrirは目を一切閉じずそれを確かめると壁との唯一のつながりを視点にしてぐるりと頭から落ちていく。
ここで彼から離れたりすれば本当に終わりだ。彼にとっては邪魔で仕方がないだろうけれどきつく目をつぶってじっとしていた。汗がどばっと噴き出しているのがわかる。
彼はなんとかほぼ半回転の落下を耐え凌ぎ、身をくるりと回転させ壁と正対すると、右前足の爪を岩肌に向かって突き立てた。
「よいっと…。」
ガリガリッと擦れる音を立てて爪が縦に傷跡をつくると、彼の巨体は大きく減速しはじめる。それから四肢の爪も併せて喰い込ませると、やがて音は止み、落下は完全に終わった。
数メートルにわたって伸びた爪痕が、この救出劇が狼なくしては成り立たなかったことを物語っていた。
「…。」
石屑のぱらぱらと転がる音すら消え、それでも声が上手く出せない。
恐る恐るFenrirの方へ向き直ると、彼が俺をより目でのぞき込んでいた。
「…掴まっていろと言ったはずだ。」
「だ、だからさあ…」
それでようやく力が抜けた。
本当にあり得ない、こんな嫌がらせを、それも二度もまじめにやってのける狼がどこにいると言うのだろう。
今度からFenrirの掴まっていろ、は絶対に信じないと心に決めた。
「早く背中に移れ、邪魔だ!」
「はいいっ…!!」
牙を剥いて怒鳴らなくてもと思いつつ、今度はそろりそろりと慎重に彼の背中に掴まる。毛皮はいくら強くつかんでも良いとのお達しだ。次変な事したら引っこ抜いてやる所存だ。




