13.死線の峠 2
13.Timberline Ridge
今、Teusは焚火を枝でつつきながら、その火で鹿肉の断片を焼いている。
何か栄養のあるものを食べたほうが良いだろう?加熱した方が消化に良いからさ、せっかくだし焼いておくよ。
そう言った後は黙り込んで、火を眺めている。
無論俺も口を開かなかった。
Teusの吐く息が白くて、立ち上っては消えていく。
「Fenrir…」
俺に顔を向けるでもなく、彼は徐に口を開く。
「今から喋ることは独り言みたいなものだから、聞かなくて良い。頑張ってだいぶ疲れただろうから、眠っててくれ…。」
…わかった、聞いていることにしよう。
Teusは火の元を弄りながら語り始める。
「…この前会いに来たときにさ、Fenirirが俺に言ったことを覚えてるか?
“どうして助けてくれたんだ”って、あの時俺に聞いて来ただろ?
俺は、そのとき答えられなくて…それからずっと考えていたんだ。どうして、俺はFenrirのこと助けたのかなって…。」
「…。」
「…後から意味を考えてつけるのは簡単なことだし、それはFenirirが聞きたいことなんかじゃないと思う。俺があの時、どう思っていたかが大事なんだ、そうだろう?
その…俺はさ、ぬるいことを言うかもしれないけど、好きな人や愛してる相手に優しくすることは、当然のことだって思っているんだ。こればっかりは、もうそれ以上追及できないと言うか、どうしてって言われても、そうだからだとしか答えられないと思う。
だからね、俺はFenrirのこと、とっても気に入っていてね、好きでたまらないから、もうそれで良いだろうと思ってたんだ。本当だよ、逢う前からさ、どんな狼なのかな、きっと立派で格好良いんだろうなって楽しみだったし、実際にそうだったから。だから理由としてはもう十分だってね。
だけど…俺、ずっと引っかかっていたことがあって、Fenirirが、自分が狼だから、その…、両親に優しくしてもらえなかったんだって言ったこと。あれが、どうしても俺にはわからなかったんだ。
これも、俺がそう思っていただけなのかもしれないけど、親が子供のこと愛するのも、当たり前のことだと思ってた。そしてさ、自分が愛情を注げる相手にしか優しくなんかできないんだ。
…それじゃあさ、Fenirirに優しさを向けてあげることが出来なかった、君の父さんと母さんは、Fenirirのことを愛していなかったのかなあって…
ごめん、俺にそんなこと言う資格なんてない。ただ、そのせいで、俺がFenrirに対して優しくあろうとすることが当然だって、自信を持って言えなくなっちゃったんだ。
じゃあ、俺は何のために、Fenirirのこと助けたんだろうって。
そう考えれば考えるほど、俺は間違った考え方している気がしてきて…。
ただ単に目立ちたがりで、誰かを救う英雄にでもなりたかったのか、或いはもう、他の人間たちに嫌気が刺して、人間でない相手に肩入れでもしたくなったのか。それとも、俺さ、けっこう今まで悪いことしてきたから、償いのようなことがしたくなったのか…。
…どうやって考えてみても、誰かのために自分が生きたい、という結論になって…だんだんそうかも知れないと思い始めたんだ。
やっぱり俺にはFenirirのことを助ける資格なんて無いのかも知れない。
Fenirirを満足させる答えが、俺にはわからない。
どんな言葉だって贈ってやれる…でも、俺が伝えたい言葉はなんだろう。」
ここまで話続け、Teusは片手に顔を埋め、呻くようにして呟いた。
「Fenrirの父さんと母さんがFenrirのことを愛していたかどうかなんて、俺にはわからないけど…
こんなこと言いたくなんかないけど…。
“自分のために“、という意味では、俺は二人よりももっと酷いことをFenirirにしてしまったのかなあって…。」
…。
俺は呆然としていた。
あまりにも、苦しい言葉だ。
Teusが俺の方を見る。泣いていた。
「あの時は言わないでおいたけど…その首の傷、どうしても疼くかい?」
「…。」
「そうやって傷をつけてしまったのも…今こうしてFenirirは人に助けられていることが許せなかったからだろ?」
今度は俺の目から、大粒の涙が零れ落ちた。
「ごめんなぁ、Fenirirのことを苦しめていたことにも気付けずにいたなんて…。
やっぱり、人間は狼と仲良くなんてできないんだ…。
だから、助けが必要な時は必ず駆けつけるし、食べ物だってちゃんと運んでくるから、
Fenrirがもし、俺と距離を置いて…狼として生き続けたいなら、言ってくれ。」
そんな、俺は…。
「ごめん、俺は友達なんかじゃなかった…。」
俺はぶわっと泣き出してしまい、噦り上げながら必死でTeusに謝った。
「ちがうぅっ…違うんだティウぅ…。」
もう、手遅れだと思いたくなかった。
けれども、もう何を言っても無駄であると言うことも、認めざるを得なかった。
「ごめん…やっちまったんだあぁ…。」
深く抉った傷口が物語っている。
同時にまた咳き込んでしまい、酷い呼吸音を鳴らしながら血を零し、喘ぐ。
Teusはそんな俺を冷ややかに見つめ、何もしない。
そう思ったのに、寄り添って背中を摩る。
そんな彼から、俺は自分から目を逸らしてしまっていた。
俺は自分以上に、彼を傷つけてたのだ。
それなのに、彼は願い出る。
「傷口…。もう一度、見せて貰えないかな?」
あぁ、とか、うあ、としか泣き続けることしかで出来なかった俺は、もっと酷く泣いた。
どうしてそんなこと言うんだ?
Teusがまだ、俺に歩み寄ろうとさえしている気がしてしまう。
俺が死ぬことだけ無いよう、よそよそしい態度で処置を行ってくれているに過ぎないのだと考えなおしたが、それでも俺を見捨てようとしないだけで、Teusは他の誰よりも優しい。
ぼろぼろと大粒の涙を零し、なかなか泣き止むことができずに、えぐ、えぐとおかしな声を出す俺を見て、言いたいことは伝わったのか、手当の準備を始めた。
以前と、してもらったことは変わらなかった。
膿を除いて傷口を洗い、薬を塗布していく。
ただ一つ訝しく思ったのは、彼がまた、例の小瓶に一滴だけ、あの雫を持って来てくれていたことだった。
じっとしていなくてはならないとわかって、ようやく俺は泣くのを止めた。
怖くて仕方がなかったあの瞬間も、すんなり受け入れて、されるがままになっていた。もう強がる気力なんてなかったのだ。
風のせいで強くなっては戻る雨音と、ただゆっくりと揺らめく焚き火の罅ぜる音だけが洞穴に響く。
それはもう、お互いに話したいことがないということを暗示していた。
そのまま彼は処置を終え、明け方には俺のもとを去るだろう。
やはりTeusが滴下してくれた薬は強力だった、痛みがすぐさま引いて行く。
けれども以前ほどは、傷を塞いではくれないようにも思える。
だがもう喋れるくらいには回復した気がした。
Teusは既に、彼の思いの丈を語りつくしたのは事実だ。
しかし、俺は、まだだ。
「…これも…。」
頼りなかったが、声は出せる。
「…これも、ただの、独り言、だ…。」
Teusは俺が口を開いたことに驚き、無理に喋らないよう諭すかに思えたが、その前に言葉の意味を悟ったらしい。顔を曇らせるものの、咎めはしなかった。
「俺は、…今までずっと悩んできたのだ。俺は、狼なのか、それとも人間なのか…。」
彼に話しかけると言うよりは、炎の揺らめく先を見て話していた。
これも、独白なのだ。
「どちらにも思うことがった。…二人と暮らしていた頃は、勿論自分が人間だと思うことの方が多かったが、一匹で暮らすようになってからは、今となっては、狼であると信じている…。
確かに自分が “狼なのか、人間なのか” と言いまわしたり、“一匹” と言っているだろう。昔はどう言っていたかなど記憶にないがな…。
だが…どの時代の俺にも共通してあった考えは、きっとその狼と人間の境界は曖昧で、答えなど初めから無くて、俺はその両者を絶えず揺れ動く存在なのだろう、と言うことだ。
実際その通りだ。…現に今も、俺は迷っている…。
だが…それでは俺は、狼でも人間でもない…得体のしれない “怪物” のままだ。
それは嫌だ。何も考えずに、ただ漫然と生きる訳には行かぬのだ…。
お前がここにやって来るまでの間、ずっと考えていた。一匹でな…。
俺が知っているのは、人が言うことを理解して、自分の思いを伝えることになんら
問題もなかったのに、人と同じことが出来るのに、外見は…。
狼と呼ばれるものだと言うこと。
それだけだった。
これだけのことかれでも、明確な境界線は引けそうだった。
だが欲しいのは、生物学だとか、行動心理学的な見地じゃなかった。
理由は執拗に求めるくせに、俺がどう生きるのかが問題なのに、その文脈の中に俺がいないことが納得できなかったのだ。独り善がりだろうが、俺が生きる中で一緒にいてくれる視点で、自分について考えるしかないと思った…。
その視点は結局俺だった…。
そして外見からは狼だ、疑いようもない。…口さえ開かなければ、誰も俺から人間の特徴なんて見出さないだろう。でもそんなことはもう、たいして重要ではなくなった。
内側からは?…一匹で生きる以上、そのこと以外はどうでも良くなったのだ。どうしたって、俺が好んでそうしない限り、外側から見る必要がなかったからな。
だから、俺がどう生きたいのかは、俺が決めることになるのだと思った。
…どう生きたいのか、そう考えている時点で、俺はどちらのようにも振舞えるのだと思ったが…そんな都合よくは行かなかったのだ。
昔は、周りには人間しかいなくて、狼がどんな生き物であるかも、見聞でしか知り得なかったから…それなら、まあ人間のようにして周囲に溶け込んで生きられるのなら、周囲の目さえ気にしなければ、自分が目を向けさえしなければ…ちょっと特別な人間で良いのかな、ぐらいに思っていた。
だがすぐに、俺は、俺を見る目が、他の人間を見る目よりも怖くて恐ろしいことを、否応もなく理解させられた…。
俺は二人にさえ見放された。…俺は神様から追放された、そうだろう。
正しい帰結からは必死に目を背けて、それが何を意味するかばかりを考えていた…。
俺は人間じゃない。人として生きたいと思うことは、もうできまいと悟った。
だけど同時に、人ではないものが、人として生きることが出来ない理由も必要だったのだ。
それがなければ、俺はまだ二人と一緒にいられたはずなのだ…!!
これでようやく俺は…俺が狼であるから拒絶された、だからもうあそこに居場所がないのだと気付いたのだ。
人ではなくて…なおかつ狼だったから…。
…もう狼として生きたいと思うことしかできなかった…。人である望みを絶たれた俺はもう…逃げるようにして狼になろうとしたんだ…。
出来る限り、この森にいた、あの狼を手本にして生きてきた…。
俺は狼だ。狼だから、俺は人と生きられなかった。そう信じてきた。
でも時々、そう思えなくなるのだ。
今までずっと、俺が狼だからだと思って来たけれど…。
もし俺が怪物だからだったとしたら…?
…俺は時々、お前にも “俺は狼なのだ” という言葉に頼りなさを覚えて、 “怪物なのだ” と言ってしまったと思う。
狼として憎まれるよりも、怪物として憎まれる方が、よっぽど辛いのだ。
わかるか…?もし俺が怪物だったとしたら…俺は以前と同じように、狼ですらいられなくなるんだ…!!
もうどれだけ醜くても、狼であることに縋っていたかった!!
そうでないと、俺はもう、生きて行けなかったのだ!!」
気付けばもう、Teusに向かって語り掛かけていた。
彼がどんな目をしていたかなんて、考えたくもなかった。
「だがお前の…Teusの “お前は人の心を持った優しい狼だって信じてる” という言葉は、もう俺を狼でいられなくしたんだ!!」
Teusのことを、俺は喰い殺してしまいそうなぐらいの憎しみを湛えていただろう。
怖かったに違いない。
「どうしてかわかるか!? お前が人だからだ!!」
「…。」
彼は震えていた。
これから何を言われるのか、見当もつかなかったろう。
「そして狼であるとも言った!!そのとき悟ったよ、ああ、やはり俺はどちらでもないのだ、とな…。」
急に語尾に力がこもらなくなったかと思うと、また俺はTeusに喰らいつくようにして迫った。
「でもお前ははじめて、他の誰にもしてもらえなかったような優しい言い方で、俺が “怪物“ だと言ってくれた!!」
「…。」
「それは悪いことだ!!」
間髪入れずに俺は叫ぶ。
「でもお前が言ってくれたことが全てなんだ!!
…はじめて俺は怪物に戻って来れて嬉しいと思っている!!
やっと新しい生き方を探せると思うから…!!
…でも、そのままにして…俺を、置いて行かないでくれ!!」
「…。」
「お、俺は、Teusに、一緒にいて欲しい理由を言えば、Teusが戻ってきてくれるなんてバカなことを思って…。
でもぉ…でももう理由なんて良いからあ…一緒にいてくれないか?
もう寂しくて耐えられないんだぁ…。」
「もう一匹は嫌だあ゛っ……わあ゛あ゛あ゛あ゛…。」
また大声を上げて、子供のように泣き喚いた。
あの時のように、またTeusを困らせる。
目の前はぼやけ、彼がどんな表情をしているかわからない。
きっとどうしたら良いかわからない、そんな顔をしているに違いなかった。
「大丈夫だよ、一緒にいるから。」
でも、返って来た言葉は、いつだって俺を安心させてくれた。
Teusも泣いている気がした。笑ってくれている気もした。
両耳のあいだにぽんと手を置いて、優しく撫でてくれるから、俺はそんな考えも吹き飛んで、もっと激しく泣いたのだった。
「薬はもう塗り終わったよ。今日はもう休んで…俺は火の番してるからさ…あっ、しまった!!」
ようやくおさまりかけた俺を宥めるように言ったTeusは、何かを思い出したかのように慌てて振り向いた。
「ああ…」
何だろう。雨足はだいぶ弱くなった気がする。
「あの…焦げちゃったんだけど、たべる…?」
Teusがおずおずと笑いかける。
長時間放置されて真っ黒になったそれは、もう肉であるかすらわからなかった。
……。
「たっ…た、べるっ…!」
「え゛っ!?」
前足で炭化した肉塊をひっ掴み、思いきり齧り付いた。
に、にっがい…。
唖然とするTeusを尻目に、俺は気にもかけずに喰い進めた。
なんとなく、彼が笑ってくれるかなと思ったのだ。
「ほんとにもう…。」
「ねるっ…。」
それを確かめようともせず、強引に俺は目を瞑る。
大丈夫、目が覚めても、彼はきっとそこにいる。
彼が笑うのが聞こえた。
「…よかった。」




