14.陽の抱擁
14. The Embraced
「…。」
目を開いてみると、意に反して彼の姿はそこにはなかった。
守り続けていたであろう篝火は消え、冷たくなっていた。
白く燃え尽きくすんだ灰は、ある意味見慣れた朝の光景でもある。
Teusはどこだろう。
不安に思い辺りに目を向けると、外套やタオル、鞄がそのまま放置してあり、俺はほっとして慌てて起こしかけた頭を前脚の間に埋めた。暫くぼうっとして、洞穴の外を眺める。
俺に迎合でもしたつもりか、雨は止んでいて、薄ぼんやりとした陽の光で霧が晴れていくところだった。
その中に人影が見えた。まだそこにいると安心した俺は、もうひと眠りしようかと思ったが、彼に会いたかったのと、今の身体の状態を知りたくて起きることに決めた。
今日は暖かくなりそうだ。間抜けなぐらいの明るさも、今はありがたい。
外に這い出てそんな平和な感想を述べ、俺に気づいて振り返る彼に言う。
「…おはよう。」
「おお、Fenrir…おはよう!」
鑑みれば、初めての朝だった。
「ごめんな、俺もさっき起きたんだけど、起こしちゃったかな?」
「いいや、そんなことはない…。ちょっと腹が減っただけだ。」
「体調はどう? 苦しくない?」
「だいぶ元気になったよ、お前のお陰でな。」
ここぞとばかりに、俺はゆったりと振舞って見せる。
「良かった…峠は越えたみたいで。薬が効いたみたいだね。」
薬なんかのせいじゃないさ。
「ああ…かなり苦かったがな。」
「ごめん…本当に忘れてたんだ。」
彼は失笑し、霧に向かって手を伸ばしたと思うと、その先にはもう、あの動物たちの眠る箱があった。
Teusはこちらに向き直る。
「今度はちゃんとしたやつだからさ?」
「人間は毎日あんなものを喰っているのかと思うと…狼で良かったやも知れぬなあ…。」
「誰もあんなもの食べないだろ、物好き以外は。」
「ふん、俺はこちらのほうが好みだ。」
「はいどうぞ…。」
今度こそ、たっぷり喰ってやる。
朝目覚めてすぐ、労せずして食事ができるなんて贅沢を堪能するのはいつ以来だろう。
目移りしてしまう御馳走の山からとっておきの一匹を選び出し、それだけで口の中が涎で一杯になってしまう。
俺はご機嫌だった。なにより、こんなに回復できたのが嬉しかった。
「はぁっ…ぶぁっくしゅ…!」
「お前の方こそ大丈夫なのか?」
Teusがああさむ、と漏らすのを聞いて、俺は思わず尋ねる。
「うーん…昨日あのまま寝ちゃったから…。」
「済まないな…俺のせいで風邪をひかせてしまった…。」
ずぶ濡れになったまま、自分のことはすべて投げ出して彼は看病してくれたのだった。
「大丈夫、気にしないで。こんなのすぐに治るから…。」
そう言ってもう一度盛大にくしゃみをする。
「…待っていろ。火を、焚いてやる…。」
何かしてあげよう、そう思い立って俺は走って洞穴へと戻った。
ついさっきまでそこで眠っていて、そして昨夜までは本気で苦しんでいた光景がそのままで、俺は思わず足を止めた。
昨晩の出来事は、本当にあったことなのだ。絶対に忘れないようにしようと心に誓った。
また彼の亡骸の前を遠慮がちに通り過ぎ、そう言えば、まだ俺は一頭も自分で狩った鹿を食べていないなと思いながら木切れを咥え、帰り際に彼の外套やら鞄やらを上手に鼻先に引っ掛けて帰投した。
「お、ありがとう!」
荷物を受け取り、Teusが礼を言う。
「うむ、少し待っている…。」
枝木を適当に地面に広げ、それに向かってふぅっと息を吹きかける。
「わぁっ…!!」
木々に着火し、燃え上がる。
「火が吹けるのか!」
「そんなところだ…怪物らしいだろう?」
「とっても助かるよ、怪物さん。」
戯けてみせる俺を、彼は咎めたりなどしなかった。
黙ってしまい、小枝をくべようと炎の中に前足を突っ込んだ。
「えっ!?あぶない…熱くないの?」
「どうしてだかな…。」
それが、獣が昔から火に親しみを持つことが出来た理由の一つだった。
火の元を直にかき回し、こんなものかと調節する。
「よし、…その外套も乾かすと良い。」
「うん、そうさせて貰うね。ほんと…」
「昨日は…ありがとう。」
焚き火越しに、唐突にそう言って俯いた。
どうしても言いたかったのに、言えずじまいになりそうだったのだ。
妙な間が生まれてきまりが悪くなると、俺はその場に座り込み、さっき選んだ鹿肉を手繰り寄せる。
「…よく頑張ったね、助かってほんとに良かったよ!!」
「…。」
彼の言葉がよく頭に入って来なくて、どうして良いかわからず、両前脚で掴んだ獲物に視線を落とす。
「それじゃあ、ありがたく使わせてもらうよ…。」
頑張ったのは彼のほうだ。
俺は、何一つしてなどいない。
そう心の中で呟き、大きく口を開けて肉塊に牙を突き立てた。
…。でも…
俺…助かったんだ、もう大丈夫なんだ…。
そう思った瞬間、じわっと涙が出てきて、
口で肉に齧り付いたまま、わっと泣き出してしまった。
「う゛ぅ…うっ…う゛ぁぁっ…あぁぁっ…!」
「…Fenrir!? おいどうしたんだよ…」
驚いた様子を一度は見せたが、彼には通じたようだ。
「ほっとしたんだね、大丈夫だよ。もう。」
そう言い、頭に手をやった。
俺は泣きたくなんかなくて、でも泣きながらじゃないと食べられなかった。
「うあっ…あううっ…う゛ぁっ…。」
やっと、その実感が湧いたのだ。
眼下では、春が芽吹きを始めていた。
今は、それに抱かれていれば良い。
やっと始まったのだから。
春だ。
俺はTeusが優しく見守ってくれる中、涙をぼろぼろと零しながら、
彼に笑っていてほしくて、肉をめちゃくちゃに喰った。
生乾きの外套を膝にかけて火にあたりながら、Teusもなにか食べようと鞄から奇妙な形の保存食を取り出し、朝ご飯にしていた。
なんだそれは、全然旨そうじゃないな。
「…だいぶ、食欲戻ったんじゃない?」
泣き止んで食事に没頭する俺を観察していた彼は感心する。
「…ああ、そうだな。ようやく心置きなく食べられる気がするよ。」
既に一昨日よりも多くの動物に手を付けているが、まだまだいけそうだった。
「まだいっぱいあるから、好きなだけ食べて良いけど…お腹には気を使ってあげてよ?」
「吐かぬよう注意するさ。」
「…なあ、本当に今具合悪くない?ちょっとでもおかしいなってところあれば言ってよ?」
「んん…そりゃあまだ病み上がりで倦怠感も残ってはいるが、こうしている分には何ら問題ないな。」
「また無理してないか?」
Teusが念を押す。
「今度こそ大丈夫だ、心配かけたな。」
「そうか…いや、その。」
彼はとても言いにくそうに切り出した。
「…実は俺、一度向こうに帰らなきゃならないんだ…。」
「…?」
彼が言う“帰る”とは、集落の方ではなく、神々の住む都の方だ。
俺がショックに打ち拉がれた顔でもしていたのか、Teusは急いで説明した。
「いや、Fenrirに逢ってから、もうかれこれ一週間経つだろう?君の状態について皆に一度、報告をしなきゃならないんだ。それに、このままだとFenrirの食糧だって底をついちゃうから、新しく補給路も確保しなきゃならなくって…。」
「…どれくらいで帰ってくる?」
「うん、2週間はかかると思う…。」
「…そうか…。」
「だから結構長い間、会えなくなっちゃうからさ。本当に大丈夫かなって…。もしFenrirに何かあっても、今度はそう簡単には助けられない。もしまだ不安だったら、もう少しこっちにいて回復するまで待つから。」
それでしつこく大丈夫かと探りを入れていたのだ。
2週間か。
それは今まで俺が待ち続けていた時間に比べれば、たいした日数ではなかった。
一匹でも十分やって行ける。
それにも拘らず、俺は元気な声で待っているぞと言おうとすればするほど、Teusに俺がしょげかえってしまって、行かないで欲しいと思われるのではないかという気がして、どう答えたものか逡巡した。
それが寧ろ動揺ととられ、いけなかった。
「やっぱりもう少しここにいよう、心配だから…。」
俺は慌ててTeusに思いとどまらせた。
「いや、俺は大丈夫だ…寧ろほら、俺の喰い物が足りなくなる方が困ってしまうだろ…?」
「そうだけど…」
まだ、迷っているようだ。
「…今度は、良い子にして待っている。…だから」
だから…そう
「だから必ず、戻ってきてくれ。」
寂しいから、とどうか受け取らないで欲しかったが、こんな言い方ではな。
「…うん、わかった。必ず戻ってくるよ、なるべく早く。
それじゃあ、絶対に安静にしてるんだよ?無理して狩りになんて行かなくて良いから、箱の中が空っぽになるまでここから動くんじゃないぞ…それからもし何かあった時のために薬とか…。」
それでも心配なのか、Teusはやたらとお節介を焼こうとする。
ちゃんと約束してくれて心から安心した俺は、はじめこそはいはいと彼の言葉を調子よく聞き流していたが、次第に鬱陶しくなってきた。
「もうわかったから早く行ってこい!俺は一匹でも十分生きて行ける!」
「よーく言うよ、ついさっきまで瀕死になってたくせに!今日の夜に寂しくなって、悲しく遠吠えでもするんだな!」
「なっ…。ああっ、お前がいなくて喜びの雄叫びでも上げてやろう!!」
まるで意味のない口論をしたりしている間に、いよいよTeusが出発する時間になってしまった。
暫しの別れだ、やはり寂しい。
「それじゃあな、Fenrir。俺がいない間に死ぬんじゃないぞ?」
「もう良い、わかったから行ってこい。」
「あ、そうだFenrir。」
「なんだ?」
「せっかくあっちに戻るからさ、何か欲しい物ない?もしあればお土産に持ってくるよ。」
「ううむ…。いや、良い肉だけ持って来てくれれば十分だよ。」
「そっか、わかった。期待しといて。」
そう言い背中を向けるTeusを、俺は一度呼び止めた。
「ああ、待ってくれ。」
「…?」
またとない機会だ。やはり何か頼むとしよう、そう思ったのだ。
俺は幼少期の細い記憶の糸を辿った。
そうだな…あれが良い。
「本を…持って来てくれ。」
「ほん?…Fenrir、本読むの?」
「ああ…何でも良いのだ。あれば何か…頼む。」
「ふうん、本ね…よしわかった。持ってくるよ、それじゃあまた!」
「ああ、またな」
何か持って来て欲しいと頼めば、それが俺の方からの約束になると思っての願いだったが。
彼はどんなそれを持って来てくれるのだろう。
「お土産、楽しみに待っているよ。」
やがて森の中に溶けて消えるTeusには聞こえないよう、俺はそっと呟く。
一匹の寂寥に胸を焦がすのは、慣れているさ。




