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【続編連載中】Wolfhound(ウルフハウンド) ー神話に殺された狼のやりなおし  作者: 灰皮 (Haigawa Lobo)
第1章 ー 大狼の目覚め編
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11.もぐもぐ

11. Munching


昨晩から続いた大雨も明け方には止んだようだな。

朝日の照らす濡れた草木の煌びやかな景色の中を、俺は気分よく進んでいった。


溢れかえった都の神様たちに嫌気が刺していた俺は、一人になりたくて喜んでこの森に足を踏み入れた。

しかし自分の思い通りに行かない道なき道を歩くにつれ、結局は勝手の良い前の生活が恋しく思えてきてしまっているところがある。それでようやく人間味のある、それも程よい世界に戻ってくることが出来るようになると、今度はこちらでも上手くやって行けないと思うようになってしまっていけない。


結局は、居場所など何処にもありやしないのだろうか。

いいや、神様としての意義を本当に失いつつある今、自分が変わらなくちゃならないということなのだろうな。




それでも再び訪れた森で、今は美しいと思えるだけの余裕があるのだから。思い詰めるのは止めておこうか。


なんて自分勝手なのだろう。そう思わないでもなかったが、これくらいの生温い立場で今の俺には丁度良いのだ。

「良いものだな…。こんな朝の過ごし方も。」

感嘆の声を漏らす。実際それで満足していた。



例の洞穴の前へと到着し、俺は姿を人へと変えた。

開けた周囲を見渡すが、彼はいない。今日は外でお昼寝じゃないのか。

「Fenirir―?」

洞穴の前で暗闇を覗き込み、声を掛けるも、返事は虚ろな木霊だけだ。


なかなか目が慣れない、案外広いのだろうか?まあ、彼がゆったりできるだけのスペースはあるのだろう。

眠っているのだろうか、中に入って確かめようかと思ったが俺は思いとどまった。

これでも彼の家である訳だし、勝手に入り込むのは良くない。それに、中にはなんだか何かが潜んでいる気がして、少し怖かったのだ。


きっと出かけているに違いない。そう考えなおした。

だって、Fenirirは俺が来るのを誰よりも楽しみに待ってくれているはずだから。寝過ごすなんてありえない。


彼のことだから、獲物を口に咥えて、ちょうど狩りから帰って来たところだとか言って、俺に元気なところを見せようとしてくれるんじゃないかな。

それなら、もうちょっと辺りを散歩して、景色を楽しませてもらうとしようか。

それで俺は、今来た方角とは逆の茂みの中に足を突っ込み、探検を始めたのだった。



「Fenrir~、いるなら返事してね…?」

雨露で足を濡らしながら、それ程起伏のない林の中を歩いていくと、やがて小川に出た。

両岸を白樺の木々に見下ろされ、水辺にはマガモの番が穏やかな日の光で身体を温め休んでいるのが見える。

なんて朝日が似合う景色なのだろう。そこの芝生に座りたいと思った。

静かなせせらぎに、さえずりまで聞こえてきそうだ。

ちょうど良い。此処なら彼も、家へ戻ってきてすぐに、自分の存在に気付くだろう。





「…あれ?」

何だ、あれ岩じゃないな…?

偶然此処へ訪れたことを幸運に思った。

余りにも自然に擬態していたのだが、小川の向こうに、なんとも巨大な動物が横たわっているのが見えたのだ。



あ、こんなところにいる。

「おーい、Fenrirー!!」

なんだ、本当に寝てるのか。

しょうがないな、起こしに行こう。



あまり濡れずに済みそうな浅瀬の砂利を選んで対岸へ渡ってFenrirに近寄り、俺はさっさと起きろと声を掛ける。

「Fenrir…?」



「Fenrir…これって…?」

俺は近くまで寄ってようやく、陰に隠れた動物の存在に気が付いた。それを啄む鴉が、自分の声に驚いて空を舞う。


…鹿だ。

でも様子がおかしかい。


右目が抉り取られ、そこから胴の中央まで、深い爪跡が伸びていたのだ。


これは…よもや鴉の仕業ではないだろう。

Fenrirがやったのか?



毛皮が濡れている。昨夜からここにずっといたのだ。


惨殺された死体と並ぶようにして倒れる狼を見てぞっとした俺は、彼もまた無残にも死んでしまったのではという疑念が過り、狂ったように彼の名を叫んだ。



そんな、まさか。




「Fenrir?…おいFenrir!Fenrir!!」





――――――――――――――――――――――――――





「うん…?」

目が覚めると、誰かが耳元で物凄い剣幕で怒鳴っているのが聞こえた。


俺は、また何か悪いことをしでかしたらしい。

あまりにも眩しくて、目が明けられない。もう少しこのままでいたい。


だがその声は止まなくて、それは俺の名だとわかった。

一体誰だ、聞き覚えがあるな。

「…?」



これは…確か、そう。



Teusだ。

「…!Fenrir!」


そして同時に、俺は現状を理解した。これはちょっとまずい。

「ああ…来てくれていたのか。」

笑顔を取り繕って、まだ輪郭のはっきりしない彼に挨拶する。

起き上がろうとしても、身体が動かない。かなり焦ったが、そんな様子はおくびにも出さないようにした。


「Fenrir…どうして…何があった…。」

表情は酷く強ばっていて、今にも泣き出しそうにも見えた。

もしや、俺がここで息絶えたと思ったのだろうか。

だとしたら、俺はまた彼のことを心配させてしまったのだ。それは良くなかった、これ以上は絶対にTeusに迷惑はかけまいと思ったのに。

「いやあ…すまないな。こんなに良い日和だったから、気持ちよくなって眠ってしまったのだな。…洞

穴で待ってやれなくて悪かった。」


即座に俺は、元気な声で答えて見せた。

「え?いや…」

「そうそう、こいつを狩っていたのだ。ありがとうな、お陰で体力もだいぶ戻ってきたのだ…。ただ、少し疲れてしまって、ここで休んでいたのだ。」

そう言って、試しにもう一度上体を起こしてみる。辛うじて前脚に身体を預ける姿勢になれた。急にぎこちなく身体を動かす俺に、Teusは少し驚いた。


「あ、ああ…そうか…。」

一方的に、俺は喋り続ける。

「それにしても、良く此処が分かったな。だいぶ探したのではないか?」

「…?…ああ、留守みたいだったからさ、ちょっと辺りを散歩してみようと思ったら、たまたま…。」

「そうだったか、…本当に悪かったな、もう大丈夫だからよ…。ここも良い場所なんだがな、…さあ、あちらへ戻るとするか。」


そう言って、俺は立てるかどうかも心配だったが、ふらつく身体をなんとか支えてTeusに笑いかけた。洞穴にこいつが勝手に入り込まなかったかも心配だった。


今日の彼は、黒緑色のマントを羽織っていた。きっと今朝はさぞかし冷え込んだのだろう。

かく言う俺は身体の芯まで冷え切っていて、毛皮が濡れて、ずっしりと重かった。

足先の感覚が薄い。

「どうした、早く行こうぞ。」

それで、彼は俺の目ではないどこかを凝視していたのだが、ふと我に返ったようだ。

「ああ…行こうか。」

そう、笑顔で答えてくれた。







正直歩くのでさえ、しんどかった。

家路がこんなにも遠く感じられたことはなかった。道中Teusと何の会話をしたか覚えていないが、歩くことに集中させて欲しかったと思った。

「ぐぬぅ…。」

辿り着くと、俺は震える膝を折って、半ば崩れるように座り込んだ。

呻かないように気を付けて前脚に顔をあずけ、安堵の溜め息を漏らす。


「おお、済まないな…。」

「良いよ、全然気にしないで。」

鹿肉は彼が運んでくれた。俺がやると言って聞かなかったのだ。

とは言っても、担いで運んだとかではなくて、気づいたら消えていて、気づいたら今目の前にあった。

神様というのは、いやはや都合よく便利だな。


「では失礼するぞ。朝食代わり、だ…。」

寒い、冷めた鹿肉であっても、食べてしまおう。

ちらりと俺は空を仰ぐ。毛皮の乾きも気になった。今日は暖かいだろうか。

ぎこちない手つきで獲物を貪っている間に、Teusはまた例の巨大な箱から牛やら羊などの大人しげな家畜を引っ張り出しては、俺の目の前に置いてくれた。


「ごめんな…この森に放つには相応しくないかなと思って、かえってFenrirに大変な思いさせたみたいだ。」

おお、ありがとうなと仕草で示して、俺はそんなことはないと言った。

「嫌々、久しぶりに楽しい狩りだった。こいつらでは力を持て余していただろうさ。…まあ、こいつであっても、少々てこずるぐらいだったがな。」

「ほんとかい?」

「ああ、心配するな。」

「そっか…。」

有難いことに、彼はそれ以上詮索してはこなかった。


代わりに俺の向かいに座り込んで、子供に注意するように言う。

「今度はゆっくり食べるんだよ?ちゃんと良くかんで。」

「ああ、そうするよ。」

もう吐くのはごめんだと笑った。


今日は俺が話したがりだと踏んだのか、或いはゆっくり食べさせるためなのか、彼は洞穴の方をちらと眺めて食事中の俺に聞いた。

「…この洞穴に住んでるんだよね?」

「ああ、そうだ。」

歓迎だ、気が紛れて良い。

それにこんな会話ができるなんて、素直に嬉しかった。

「どれくらい長く住んでるの?」

「ここに来てから一度だけ、旅に出たのだが。結局ずっとだな…。もうどれだけ経つか。」

そう答え、けれども数えようとはせず、次の一口を咥えて運ぶ。


「へえ、巣穴を一度も変えずに?こんなに広い森だから、どこかへ移り住んでもよさそうなのに。」

「ああ…いくつか仮の古巣はあるのだが、ここは色々と思い入れがあってだな…。」

今度は、俺が遠い目で洞穴を眺める。

そして、また彼のことを思いだす。

「最後には、戻ってきてしまうのだ。」

「…特別な場所なんだ。」

「ああ、そうだな。」



「聞かせてよ、そういう話。」

Teusは興味があるらしい。

「…話せば長くなるな。」


そう言ってはぐらかした。喋るつもりは毛頭なかったから。

「かまわないよ。俺、Fenrirのこと全然知らないからさ…今までどうやって生きてきたのか知りたいんだ。なんでも良いから教えてよ…これから時間はたっぷりある、だろ?」

「…。」



口を動かしながら、食い下がってきた彼にどうしようかと考える。

んん…どうしようか。折角乗り気なようだし、俺も話したい気がした。


でも彼のことは、言いたくなかった。

「…悪いな、また今度だ。今はそんな気分じゃない。許してくれ。」

微笑んで、そう詫びて見せる。

「そっかあ、残念。」


Teusはがっくりと肩を落とす。うむ、かわりに話してやれることはないか…。

「…ねえ、ちょっと中覗いて良い?」

そう逡巡していると、彼は腰を浮かしてそんなことを言った。それはまずい。

「駄目だ、入るな。」


ついついきつい口調になってしまうが、気にしていないようだ。

「中ってどんな感じになってるの?」

「聞こえなかったか!?」

怒鳴り声に近い声量に、立ち上がりかけたTeusはびくりと身体を動かす。


「…お前をあの中へ入れる訳には行かぬのだ!これ以上の穿鑿は止めてもらおう!」

「ごっ、ごめん。悪かった…。」

そこまで言って、Teusを委縮させてしまったことに気づき、あんな大声を出す必要はなかったと悔いた。

不可侵な場所であるために、本能的に威嚇するような態度をとってしまう。

鼻に皺を寄せるのを止め、慌てて血にまみれた牙を引っ込める。

「すまない、…その、どうしても話せないことがあるのだ。悪いが、それについては、聞かないでくれるか…。ごめんな…。」

「いや、こちらこそごめんね。心にしまっておきたいことだってあるよな…。」

Teusがなんとか取り直そうとするが、どちらの会話もぎこちない。


互いに妙な間をつくってしまうのが嫌で、また肉に齧り付き、大袈裟にした仕草の間に、どうしようかを必死で考える。

…そうだ。では今度はお前の話を聞かせてくれ、と俺の方から話題を投げかけた。


「ずっと気になっていたのだが、初めてお前がこの森に入り込んできたとき、お前はこの洞穴へと殆ど迷わず向かって来たと思うのだ。やはりあの時にはもう、俺がここにいると分かっていたのか?」

しょぼくれていたTeusは、俺の方から話しかけてきたことを意外に思ったようだが、喜んで答えてくれた。

「いいや、全然どこにいるかわかってなかったよ。」

「なんだと?では一体どうやって…。」

「勘っていうかね、昔から運だけは良いんだ。大抵こういう時だけは迷わない。この洞穴の近くまで来て、Fenrirが付けてくれた目印を見つけたときに、ああ、今回も導かれたんだなあって思ったよ。」

「…。」

なんだそれは、答えになっていないぞ。適当に彷徨っていただけだと言うのか?直感だけを頼りに。


意味ありげに微笑む彼に、野生動物を凌駕する感覚が備わっているようには到底見えなかった。

あいつらに、俺は常に監視されているものと思い込んでいたが、彼が吐く嘘にしてはあまりにも馬鹿げているのだった。

そして俺の虚栄は、彼のための道標としか受け取って貰えなかったようだ。

「ちなみにFenirirはどれくらい前から気づいてた?俺のこと。」

「ん?ああ…この森に足を踏み入れた時から、気づいてはいたぞ。」

「嘘だろ!?どれだけ前から…。」

今度はTeusがぎょっとした表情を見せる。

どうやら俺たちは、互いのことを見誤っていたようだ。


「この森は、まだ俺の縄張りだからな。…それに今ほど賑やかではなかった、索敵も容易だったのだ。」

「なんて聴覚だ…。さすが狼!」

ふんと鼻を鳴らして受け流すと、さっきからずっときまりが悪かった俺は、その埋め合わせのようなことがしたくて、すこし自分のことを話し出した。

「…俺が初めてこの森に足を踏み入れた時も、ここがどこなのかもわからず、ただ歩いていたのだが、なぜか、この洞穴に辿り着いたのだ。そのときは偶然だと思ったが、…お前が容易に此処まで来れたのも、もしかすると似たような体験なのかもな。」

「へえ、そうかもし知れないね。」

Teusもうんうんと頷いてくれた。




「それで、今は別の方角から訪ねてきているように見えるが?」

これは正直に気になっていたことだ。

ああ、とTeusは答える。

「そうだね、初めてFenirirと会って別れた後に、この森を抜けたら大きな川に出て、その対岸の集落にお世話になっているんだよ。」

ヴァン川のことで間違いないだろう。また地図もなくそこまで行けたのではないだろうな。

そしてその集落のことも、知っている。概ね予想した通りだった。

「成程、それなら近いな。」

「そうは言っても片道2時間かかるんだけどね。」

Teusは苦笑いする。お前なら、そうだろうな。


「と言うことは、暫くそこに居を構えるのだな?」

「うん、そのつもり。あの村のこと知ってるの?」

「ああ、多少はな。」

ヴァン川には、幾度となく訪れていた。水を飲むだけだったなら、他にも綺麗でお誂え向きな河川は沢山ある。それでもまだ動けた頃は、毎日のように通ったものだ。




「あの川はな…。」

特に、意味はないのに。

「この森と…俺達がいる縄張りと、人が住む領域とを分かつ神聖な川なのだ。だから俺はあの川の向こうへと渡ったことはないし、あの集落の奴らも決してこの森へ足を踏み入れることはないのだ。」

「境界線、みたいなもの?」

俺はそうだと答えた。


「約束なのだ、互いに干渉しない、というな。…お前等と同じであろう。」

その物言いはまずいか。一旦言葉を切って、少し茶化した。

「それほど昔からある了解でもないのだがな。それに、その辺の事情を知らぬ子どもが、まれにこちらを冒険しにやってくることもあった…そいつらを追い払おうのも、俺の役目だという訳だ。」

「ええ!?あの川渡ってくるの?」

「ああ、上流は川幅が狭くてな、それ故氾濫も多いのだが…。冬にその辺りの薄氷を渡ってきた馬鹿どもがおったのだ。…こちらの姿を晒すわけには行かん。上手く忍び寄って恐ろしい唸り声を上げてやると、皆一目散に逃げて行ったよ。」

「うわあ…それ子供たちトラウマになるよ。」

「教育だ。」

Teusはそうだねと大笑いしてくれた。




「どうだ、あの集落のことは良く知らないのだが、周囲の人とは上手くやって行けそうか?」

うーん、Teusは苦笑いをして、俺のやや突っ込み過ぎた質問に曖昧ながらも本音を吐露した。

「ぼちぼちかなあ。なんだかさあ、昔はそんなこと思わなかったけど、余所者ってどこへ行ってもあんまり歓迎されないんだね。」

と言うことは、関係は良くないのだ。

「そうか…。お前みたいなやつならば、誰とでも仲良くなれそうだと思っていたが…。」

「まあ、しょうがないよね。いきなりこんにちはってやって来られても、簡単に心は開いてもらえないよ。」


笑って流そうとするTeusに、俺は詫びの一つ入れずにはいられなかった。

「ごめんな…俺のせいで、こんな辟境の地でその輩と付き合わなくてはならなくなってしまった。…しかし俺では何をしてやれば良いか…。」

「ああ!良いの気にしないで。別に元居た場所でだって、全ての人と上手くやって行けた訳じゃないし、慣れてるから。そのかわり、こっちに来たときは仲良くしてよな?」

「お、おう…。」

勿論だったが、それは俺の方から頼みたいことだったから、少し戸惑った。



彼の言う元居た場所とは、あいつらが暮らしている、神々の集う都のことだ。そしてそれは、俺が生まれ落ちた場所でもある。

そんな場所のことなんてもうあまり覚えていないし、もう戻ることもないのだけれど。何故か今、そこがどんな様子なのかが知りたくなった。



人が、どのように生きているのか。俺はいまだに気を惹かれるのだ。

「今度で良いから、そちらがどのような様子かも教えてくれるか。色々と興味がある…。」

今は、聞く勇気は無いのだけれど。

「うん、何でも聞いてよ。」

…ありがとう。






スローフードを堪能するも、俺は順調に動物たちを食べ進め、11頭目に巨大な牡牛を頂くことにした。

うむ、やっぱり大きい肉の方が幸福に感じるな。

あんまり食べ過ぎると、と思っていても口が止まらなくて、今度こそはこれで最後にしようと迷い抜いて選んだ一頭だ。ゆっくり、味わって食べることにしよう。



一頻り会話が済んだかなと思ったところで、俺がご機嫌になったと見たのかTeusが遠慮がちに口を開いた。

「ねえ、もし良かったらさ、こっちでの生活がどんな感じなのか、聞かせてくれない?」

俺は肉塊を頬張ったまま、そんなお願いをするTeusの窺うような顔を見つめた。

「…。」

いや、悪いことをしてしまった。そんな聞き方しかできなくさせてしまったのは、他でもないこの俺なのだ。


彼のことはどうしても言えない。だが自分自身のことなら全然かまわなかった。

そのことを伝えることができないのはもどかしかったが、今は快く、ああ良いともと答えた。


こいつは初めての、かけがえのない話相手なのだ。

「この森で、生きるようになってからのことだな…。」

頷くTeusに向かって、ちょっと記憶を辿りながら、言葉を選んで語りかける。



「この森に追放されてから、さっき言ったように、俺は偶然この洞穴に辿り着いて…、それから此処を住処とするようになったのだ。それで、一匹で生きていかなくてはならなくなったのだが、俺は狼として何も知らなかったのだ。今までは室内で眠り、喰い物も与えられていた訳だが、これからは外の世界で、獲物も自力で捕えなければならない。…狼でありながら、狩りすら知らなかったのだ!」

そこで一度言葉を切り、その先をどうしたものかと彼の方を見る。

「だがこの森にも、…かつて狼がいた。俺は…その狼に倣って、狩りや森の駆け方、それ以外のこと…狼のすべてを学んだのだ。」

嘘ではない、が、何とも歯切れの悪い話だ。


「!?この森にも狼がいたの?」

案の定、彼はその痛いところに興味を示す。

「ああ…今はもういない。その…詳しく話してやれることはできぬのだが、その狼のお陰で、俺はこの森で生きて行けるようになったのだ。」

分かってくれるかなと戸惑いながらTeusの方を見るが、それ以上は聞かないで置いてくれた。


「ようやく此処での生活が軌道に乗ってからは、この森を探検するようになった。昔から一匹で遊んでばかりだったが、慣れてはいたが、それはやはり退屈だった。だがこの森は…広くて、深くて、俺を受け入れてくれた。どこまでも未知の世界だった、毎日が大冒険だったのだ!…お前は俺が一匹でずっと苦しんできたと、そう言ってくれたが、…そりゃあ孤独であることは恐ろしいことであったが、そんなに…そんなに酷い毎日ではなかったのだ。…だからもし、Teusが、俺は日々を呪いながら生きていると思っていたのなら、そんなことはないのだ。

お前が思っているほど、壮絶な一生ではない。…存外それなりに楽しんでいたのだ。」

これは、本当に俺の率直な気持ちだった。勿論苦しかったが、決して強がっているつもりも無かった。


しかし、Teusはどうとってくれただろう。

ただ、この旅が、いるかもわからない狼の仲間を探していたことは、伏せておいた。




彼は黙って聞いていた。憐れまれてしまったかなと思いつつ、俺は続ける。

「とにかくこの森は広大だ。そしてその全てが、俺の縄張りだったのだ。だから俺は全土を走り抜けて、飽きることなく遊んで、見て回ったのだ。そして最後には…十分に一匹で生き抜く力を身に着けたと思って、此処に帰って来た。」

「…。」

Teusはすっかり聞き入っている様子だった。

「またこの洞穴で暮らすようになってからだな、今と同じような生活をするようになったのは。この周辺で獲物を狩って、好きな場所へと遊びに行くか、あの岩の上で昼寝をして、色々な思索に耽っていた。

今お前が居を構えているあの集落のことは前々から知ってはいたが、特別意識するようになったのもこの頃からだな。それまではただの好奇心で対岸を眺めていたものだが、まあ今でもそうなのだが…、それだけではなくて、お互いはこうしてヴァン川によって隔てられているが、実は今までに幾度か交流があって、その上で俺たちは沈黙を守っているが、またその時が来るような、…そんな気がして、俺はよくあの川を訪れるのだ。

他にも様々なことを思案してきたぞ、時間は恐ろしいほどあったからな…。」


当然のように口下手な俺は、垂れ流すように言葉を連ねてきたが、ようやく自分からTeusへと意識が戻る。

少しTeusへと視線を下げ、でも彼の眼だけは見ないようにして話し続ける。


「その後の話は、お前も知っての通りだ。

昨夏の終わりぐらいから、めっきり獲物の姿が見えなくなった。…まあ、自業自得だ。俺がこの森の均衡を崩したのだからな。全く何も喰うものが無かったわけではない。…鳥や狐、兎も…まあ腹の足しには心許なかったが、見つけたときは逃さず喰った。果物だって実れば貪った。それでも冬を越すだけの栄養は得られなくて、狩りをする体力もなくなって、雪解けを迎えるまで殆ど何も口にできなかった。もう最後には、ずっと眠っている日が多かったよ。そして、あと数日だろうかというところで…。」


Teusの目を見据えて、短く告げる。


「お前が来た。」

「…。」




話し終えて訪れる沈黙に促されるようにして、俺は今自分が語ったことを、本当に、体験したのかを確かめるようにして回顧する。

怪しいものだ。



話に夢中になりすぎて、肉に殆ど手を付けていなかった。

「まあ、そんなところだな。」

明るい調子で話を締め括ると、俺は残りをかき込んだ。


彼はすこし動いて居ずまいを直して暫く黙り込んでいたが、やがて唸るような声を漏らした。

「…なんて言うか、わからないや。今聞いただけじゃ、想像を絶する生き方をしてきたことしか…。」

そうだろうな。


「Fenirir、大変だったんだな…。」

「ふん、本の一冊でも書けそうか?」


朗らかに笑って俺は言う。


「俺の生き方が、人間のそれとあまりにもかけ離れているからだろうな。だから逆に、俺はお前の話を聞きたい。きっと俺も、お前と同じように、思うのだろう。」


だが、と俺は最後のひと塊を大きな口へ放り込み、良くよくかんで飲み込んだ。


「今日はもう、これで終わりだ。…疲れてしまった。少し眠らせてくれ。…旨かったぞ、感謝している。」

気持ちは満たされていたものの、具合は悪かった。今すぐにでも横になって休みたかったのだ。

眠れば、この不穏な寒気も、だるさも抜けてくれると信じよう。


「あ、ああ…わかったよ。ごめんね、無理に話させちゃって。ゆっくり休んで…。」

「大丈夫だ。…その、また聞きたいことがあるならばなんでも言ってくれ。できる範囲でなら、喜んで話す。今日は、楽しかったぞ。」



「こちらこそ!…それじゃあ、邪魔しないように今日は帰ろっかな。またな…あんまり無理するなよ?」

「…。ありがとう。」

慌ただしく立ち上がるTeusはまだ何か言いたそうだったが、俺はそう呟いて身体を丸め、目を閉じた。


お休み、とだけ聞こえた気がする。


彼が帰ったかを確かめる間もなく、喜びに弾んだ意識は遠のいていった。



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