10.狩人の眼識
10. Hunter's Insight
目が覚めると、俺は再びあの景色の中にいた。
風に揺れて光る絨毯の上で、気持ちよく寝転んでいたのだ。
「…。」
ぼんやりと、ピントの合わないまま揺れる草々を暫く眺め続ける。
Teusは、どこかへ行ってしまったらしい。
一体どれくらい俺は眠っていたのだろう。まだ空は明るい、そんなに長い時間が経ったわけではなさそうだが。
身体はだいぶ楽になったように感じる。本当に良かった。
まだ暫く横になっていると、ふいに焦点が定まり、ぼやけた草原の奥、木陰で草花を食んでいる一頭の若い鹿が目に映った。
「…っ!? あぁ!?」
思わず声を上げて立ち上がる。その音に驚いて、そいつはどこかへと走り去ってしまった。
ど、どうして鹿がこんなところに…?
意識を集中させると、俺の耳は様々な生物の息継ぎをとらえていた。
動物たちが歩き、立ち止まり、そして駆け、鳴き声にあふれ…探知できるだけでこの森に数十頭はいる!!
一体どうなっている…俺が転寝している間に何が?
「えっ…?」
急に背後から、強い風が吹き上げた。
驚いて振り返り、飛び込んできたその景色を見る。
どうしてか、鼓動は足を速めたのだ。
それが、俺が気づいた、もう一つの異変だった。
戸惑った俺は、目覚めた世界が今までのそれと同じであることを確かめたくて周囲を見渡したが、どうやら間違いなく、ここは俺が眠りに落ちた場所だった。
この森にはもう、俺が狩ることのできる獲物はいないはずだった。
それが今、こうして数多の動物たちをごく近くに感じられるということは並大抵の奇跡ではない。
こんなにも深く眠り込んでしまった自分を恥じた。
いくら熟睡していようと、あんな近くまで動物が近づこうものなら音で気が付くだろう、人間じゃあるまいし。
目の前にまでのこのこと獲物が近寄ってくるというのは初めてだったが、狼の感覚は、周囲の変異に対して完璧なまでに研ぎ澄まされえている。
だからこんなことになれば、俺はすぐさま気づくことが出来たはずなのに…。
警戒を怠ったせいだ、野生として情けない。
それ以上の手がかりもなく、途方に暮れて空を仰ぐ。
Teusが言ったように、春がすぐ近くまで訪れているようだった。
こうして青空を見上げるのも久しくて、気づけばその色は新緑を際立たせるに相応しい輝きを取り戻しつつあった。日の光に目を細めながら、暫し見入る。
なんて気持ちが良いのだろう…。
「…あ゛あ゛っ?」
太陽の方角を見て驚いた。まだ登り切っていなかったからだ。
Teusに会ったのは昼過ぎだったから、少なくとも傾いていなければならないのだ。
一瞬目を疑ったが、狂いはなかった。明らかにこれはおかしい。
…時間の巻き戻しでも起こったというのだろうか?まあ、そんなことを信じる柄でもないが。
…そうすると、俺は例のごとく、白昼夢の中を泳いでいるらしい。
「はぁー…。」
じゃあ俺は、まだ寝ているということか…。溜め息をつくと俺はがっくりと項垂れた。
何なんだ、この夢は。それではこの森へと戻ってきてくれた動物たちも、気持ちの良い春めいた空も、少し上向いた俺の気分も、高鳴ったあの感覚も、全て嘘だったと言うのか?
気付くことなく目覚めれば、良い夢だったなと言って終われそうなものを…。
「…!!」
いや、どうやらこの推測は誤りらしい。
足元には、たくさんの動物たちが歩いた跡と、それを横切るようにしてつけられた人のそれが広がっていたのだ。
俺は思わず微笑んでしまった。あいつにしては、なかなか粋な計らいだとは思わないか?
なるほどな、彼は俺のために運んできた動物たちをこの森に解き放ったのだ。
俺を、まだ元気だった頃の、懐かしい気分にさせてくれるらしい。
空腹を覚えたならば、いつでも好きに食べてくれ、という訳だ。
そしてもし、少し元気になったのなら、ちょっとリハビリを兼ねて身体を動かしてみてはどうか、と言うことのようにも思えた。
「それならば、ありがたく頂くことにしよう…。」
夢じゃないだろうな?痛みによって確かめようとは思わなかったが、こんなに嬉しい夢だった、といって目覚めたくはなかった。
それぐらい、この贈り物に俺は喜んだのだった。後でTeusにありがとうと言おう。
…しかし、と言うことは、だ。
「俺はほぼ丸一日は寝ていた、ということか…。」
ああ…なんという為体。しかしまあ、狼らしいと言えば狼らしいことだ。
狩りを立派に終え、満腹になるまで喰べた狼は、平気で半日以上熟睡することがある。
人敵がいないが故にできる行動ではあるが、その間に何が起ころうと気にせずにいると、こうなってしまう訳だ。
しかし、と言うことは俺は夢を見なかったのだ。
悪夢に苛まれてばかりだったこの俺が。
「…。」
これも、彼のお陰かもしれない。
Teusは一体、どこまで俺を救ってくれるというのだろう。
彼の優しさは、卑屈に捻じ曲がった俺を、容易く変えて見せるのだ。
そして、あっけなく助けられ、変わりつつある自分を、今は笑うことが出来るのだ。
「自分らしくないな…。」
そう呟いて顔を上げる。だがそれで良かったのだ。
さて、それでは。
「久しぶりだな…。」
少し不安だった。今の俺に、できるだろうか?
「“狩り”か…。」
懐かしい、そう思えるほどに、俺は怠ってきたのだ。
だが、自信もまたあったのだ。
俺はこの森に君臨することを許された狼なのだ。
その誇りは未だ胸に、またこの森中を闊歩してやろう、狩れない獲物などいないのだから。
きっと成功させて見せよう。
錆びついてはおるまいな?そう自分に問いかける。
呼びかけに答えるように、身体が本能的に疼きだすのを感じた。
「こんな日が来るなんてな…。」
彼もまた、あの時の中に身を置けるのが嬉しいのだ。
良かった、まだ死んではいなかったのだ。
姿勢を低く構え、前を見据え、張り詰めた感覚でぴたりと止まる。
辺りでは、風の音が騒いでいた。
自分だけがいる、というその瞬間を待ち、
そして、とうとう俺は走り出した。
「はぁっ…はぁっ…!!」
始めこそぎこちなかったが、すぐに走り方は思い出せた。
思えばつい先日、俺はTeusと決死の逃走劇を繰り広げたのだったが、今の走りはあのような酷いそれではない。
気が付いた時には、もう狼のように走っていた。
この森を駆け巡っていた時のように、大地がうねる起伏の流れに沿って進んでいく。
凸凹とした、足場の悪い道なき道でも迷わず足は動いた。
木々の間を紙一重ですり抜け交わしていく所作は、縄張りを知悉した狼にこそできる業だった。
スピードを緩めることなく駆け抜ける緊張感がたまらなく、己の走りに没入してしまえた。
「ふぅ…」
集中が高まってきたところで、俺は一度足を止める。
身体はやはり衰えている。疲労が溜まるのが凄まじく早い。
毛皮を纏っていたからTeusには何も言われずに済んだが、筋肉は酷く委縮し、腹も落ち窪んでしまっている。
俺は見る影もないほどに痩せ細ってしまっていたのだ。
いとも簡単に剥がれた鍍金に、弱っていく自分を認めざるを得なかった。
「はぁっ…くっ…そっ…。」
呼吸を無理に整えながら、空を遮る木々たちを仰ぐ。
葉の間から差し込む光は優しく、木漏れ日はこの時期が気持ちよかったよなと思い出されて、暫く目を細めて眺めていた。
笑ってしまった。大丈夫、体力なんてまたすぐに取り戻せば良い。
そのためには、食べることだ。残された体力と闘いながら、俺はこの狩りを成功させねばならない。
獲物が手に入らなければ、死んでいくだけだ。自然にはそういう厳しさがある。生き残りを賭けなければ、誰も明日など用意してはくれない。
彼の配慮に心から感謝した。これはある種の餌ではあっても、そのことを思い出させてくれたのだから。
さして標的は探し回らずに済んだ。
先刻俺の前に姿を現した若鹿は、まだこの近くにいるらしい。
突如として活気づいたこの森の中で、縄張りの中の動物たちの位置をすべて把握することは難しかったが、すこし耳を傾けただけで射程圏内に十分な数の獲物がいるとわかった。
今日は風も味方してくれたようで、風上からは嗅いだばかりの血の匂いがする。
よしよし、出だしは好調であるようだ。
鼻が示した方角へと進み、標的が移動すれば、耳によってさらに正確な位置を求め、追い詰めることが出来る。
目視が出来る距離までは、ゆっくりと行くことにしようか。
もう一度感覚で獲物の位置を確かめると、俺は周囲の景色に気を向けつつ走り出した。
自分の縄張りにある獣道を覚えているか、確認したかったのだ。
どこで舵を切るのか、この坂はいつまで続くのかだとかは記憶しておけば移動に有利にはたらいたし、何よりこの広大な森の中で生き抜くのに、空の星々と並んで重要な位置情報を示してくれる。欠かせない道標なのだ。
幸い、身体は覚えていてくれていた。
慣れたものだ、流れるように、無駄のない動きで駆け抜けて行ける。
そしてその実感があってから、初めて目に映る景色を見て、懐かしいと思うことが出来たのだった。
今俺は、緩やかな傾斜を、立ち並ぶ細木の間を縫いながら駆け登っている。
この道は鮮明に覚えていた。その先では、小高い山の上から、次の地形がすべて見渡せる。
まだ健在であったころ、気に入って良く訪れた場所だったのだ。
そして乗り超えた先に、狙った若鹿も待っていることだろう。
「…!!」
登り切って突如開けた視界に、俺は思わずぴたりと静止する。
何時見ても、こう驚いていた。また鼓動が足を速める。
それは息が上がっているからではなかった。目が覚めて、後ろから吹き抜ける風を感じたときと同じだ。
そう、あの時と同じ感情を、俺は走っているときにも幾度となく体感していたのだ。
それが何なのかは良く分からなかったが、この感覚が好きだったのだ。
隆起した崖の眼下は盆地であった。こんなにも世界は広かったのかと思わせる、起伏に富んだ土地を一望できる。
今立っている頂上までが、一つのフィールドで、登り切ったその先には、また新たなステージが用意されている。
俺は此処から、その新しい地形をどのように走るか、期待に胸を膨らませ、始まりに喜びながら息巻く。そんな気分だ。
この雄大な、生きた土地は、どこまでも続いている。
覆う空の端はあんなにも広い。
だから俺は、この世界を次へ次へと走って行ける。
俺を待ち受けんとする樹海を、狼のように悠然と見下ろす。
あの鹿の息遣いはもう耳に捉えた。
さあ、獲物までもう少しだ。
此処からは、奴の動きが見て取れる。
ゆっくりと歩みを進めながら、突如として与えられた、新たな景色を楽しんでいるように思えた。
局所的に開いた木漏れ日が、この動物もまた輝くようスポットライトを照らしていた。
もしこれが戯曲なら、俺は間もなく登場する悪役と言ったところだろうか。
何気ない営みが、こんなに幸せで嬉しく思えるのに、俺はこの主人公を喰い殺してしまうのだから。
…別にそれで良かろう。だから、何だと言うのだ。
まだ、こちらには気付いていない。
俺は例のごとく、獲物が殺気を探知するまで接近を試みた。
姿勢を低くし、音を立てないように歩く。風はない、視界にさえ入らなければ良い。
息を殺して、尾を立てる。まだだ…まだ大丈夫、あと少し…。
「…!」
耳がひょいと動いて、鹿がこちらを向いた。互いの目が運命の如く合ってしまう。
「しまった…。」
互いに妙な間をつくると、鹿は踵を返して突発的に走り出した。
「み、見つかった…。」
俺は溜め息をつくと、その後を追いかけ始めた。
忍び寄って迫ってみたところで、見つかるとやはり間抜けだ。…というか図体が大きすぎるんだ俺は。
いくら巧みな立ち回りであろうと、近くまで行けば必ず見つかってしまう。
戦車で暗殺を試みるに等しい。大きくて良かったことなんて一度もないのだ。
そうとわかってはいても、どこまで行けるのかを確かめてみたくて、よくこんなことをする。
距離にしておよそ10メートル。気付かれた時点で仕留めてやることもできた。
Teusに脅してやった時のように、一気に間合いを詰めて、ぱくりとしてしまえば良かったのだ。
きっと、狼に襲われたことすら知ることもなかっただろう。
俺の飢餓の原因はそこにあった。
狩りが容易過ぎたのだ。
実に簡単に手に入る。狩れない獲物など存在しない。そんな意識が飽食を生み出し、食糧に対する危機感を薄れさせた。気付いた頃にはもう手遅れだった。
時間の問題ではあったかも知れない。遅かれ早かれ、こうはなっていた。
だが、喰い物に困らなかった時代の俺を、俺は憎らしく思っているのだ。
俺は普通の狼ですらないから。
でも今は弱り切った怪物だから、今だけは、狼らしく狩って見せよう。
スピードの面でも、持久力の面でも、相互の関係は崩れてしまっているが、本来ならば狩りの成功率は、単独であれば絶望的に低い。
トップスピードが被食者と大差なく、体格的にも高さでやや劣る。
早い段階で察知され距離を空けられるか、群れで身を固められてしまうと諦めざるを得ない場合が多い。
だから狼は、病態、或いは幼体、老体を狙うようにする。洞察によって、普通と異なる様子の動物を見極める。
犬だってまたそうだろう。だから主人の感情の機微を読み取ることに長けている。
…だが今のところ、病態なのはこちらの方なのだ。
それで健康体を狩ろうと言うのだから、Teusの荒療治にもほどがある。
幸いにも距離は左程空けられずに済んだ。ではどうするか。
このまま走り続ける。獲物を執拗に追い回すのだ。
並外れた持久力を備えた狼は、相当な速さを保ったまま、かなりの距離を走り続けることが出来る。
相手の体力が尽きるまで耐える。それが本来の狩りの在り方だ。
獲物は今、生死を分かつ必死の逃走劇を繰り広げている。
狼に追われるのは、さぞかし怖いだろう。無理もないことだ。
草食動物の内で、自らの身を守る術を持たぬものはそうするしかない。
敵を察知したなら、まず全力で相手を振り切り、敵の視界から外れるか、諦めてくれるまで走り続ける。そして、安全であると判断したなら、立ち止まって休む。言わばインターバルトレーニングのようなものだ。
そうせざるを得ないとは言え、あまりにも疲弊する走り方で、体力の消耗が早い。
脚が言うことを聞かなくなるのも時間の問題だ、それに対しこちらは、獲物を見失わない程度の速さで、体力を温存してゆっくりと追尾していけば良い。
後は、仕留めるだけだ。
本来ならば、それなりに時間がかかる。数時間に及ぶこともしばしばだ。
けれどもやはり俺のスピードは圧倒的なわけで、追尾もごく短時間で終わるだろう。
ほらな、もう目に見えて落ちてきた。
だが俺も苦しくなってきた。酷い有様だ、この獲物は逃せないな。
この場所に追い込むことが出来て良かった。後方右寄り追い立てられた獲物は、同じ方向へと曲がりはしないだろう。左手に並ぶ小山の傾斜へと追い立てると、鹿はさらにスピードを落とす。それで俺は追撃の手を緩めてやった。もうその必要はないと思ったからだ。
斜面を大きく、弧を描くようにして駆け上がり、脚が止まりそうな獲物に堂々と側面から近づく。
これで終わりだ。
”ガゥッ…!!”
この瞬間に、いつも胸が高鳴った。
一体どうしてこんなに、俺は楽しい“遊び”をしているような気分になるのだろう。
姿勢を低くし、獲物の胴体を目がけて口を大きく開き、牙を剥く。
鹿は身体を巨大な牙で刺し貫かれ、断末魔の叫びを上げると、息絶えた。
「…。」
狩りは楽しかった。子供のころに憧れた遊びは、今になっても憧れのままなのか、或いは人間の本能なのか。そんなことを考えなくても、狼の本能なのか、狩りを一つの遊びと捉えることにもう抵抗はなかった。
「ふう…上手く行った、か。」
俺は高揚感をそのままに、戦利品を咥え、喜び勇んで洞穴へと帰った。
差し込む日の光から逃れるようにして横たわる亡骸へと、俺は持っていた鹿の死体をそっと差し出した。
「これ…」
たった今、狩ってきたところです。それが何でもないように、俺は心の中で呟いた。
…誰よりもまず、あなたに捧げたかった。あなたのような、立派な狼に。
「…友達が、できたんです。」
ちょっと誇らしげにして見せて、…そんな自分が嫌だった。
「ええ、…わかっています。」
何を俺は、嬉しそうにそんなことを報告しているのだ。
「…ごめんなさい。」
彼には、自分よりも先に肉を食べて貰いたかった。いつだって彼は、俺の憧れであり続けたから。それなのに俺は、Teusに差し出された肉塊を躊躇なく平らげてしまったのだ。そのとき、空腹の余りあなたのことが頭になかったなんて。到底許されることなんかじゃない。
それに…。
俺はまた、首筋の傷を、狼の牙へと触れさせる。
わかっている。狼である俺は、Teusと、人間と、仲良くなどなれない。
「…。」
あいつに治してもらったばかりなのに。
どうしてだろう、居ても立っても居られなかったのだ。
「んぐっ…がはっ…う゛ぅ…。」
ああ…そうだ。これで良い。
まただ。傷口は、始末に負えないくらいに酷い。
「…ぐぇはっ!げぇぇ…う゛ぇほぉっ!!」
咳き込むと、またも大量の血反吐をまき散らす。歯を食い縛って、その場に倒れないのがやっとだった。
痛みは、なかなか治まってくれない。
Teusさえいなければ、俺は何も変わらなかった。
そのうち、此処にいることすら彼に許してもらえない気がして、俺はよろよろと立ち上がった。
もう一匹狩ってくるつもりだ。それを、俺の取り分としよう。
…それは、あなたのものです。どうかお召し上がりください。
そう言い残し、逃げるようにして洞穴を這い出た。
「くそ…中々に手こずらせる…。」
二頭目の標的を探すのは先ほどより骨が折れた。
こういう時に限って獲物までの道のりは遠い。そして変に、上手く集中できない。
そのせいで俺は、お目当ての、鹿の群れに近づくまでに、目測を見誤って何度も軌道修正をせねばならなかった。
結局その群れは諦めざるを得なかった。ようやく見つけたという段になって感づかれてしまったのだ。彼らは移動を始めたのだ。
Teusが放ったと思われる小動物でいくらか喰い繋いだものの、ここに来るまでの道中で消耗しきっていた俺は追いつこうとスピードを上げたが、暫く走るうちに強烈な眩暈を覚え、その場に倒れ込んだ。
世界が回っている。脳だけがぐわんぐわんと揺らされているようだった。
呼吸はさして苦しくなかったのに、身体が言うことを聞いてくれない。
血が足りていない。わかっていることなのに、俺はそれが惰性が故だと責めた。
また起き上がる。俺はまだ走れるはずだと。
「諦めた方が、賢明か…?」
群れに狙いを定めるのは得策ではないようだった。
食や番にありつける機会を犠牲にしてまで彼らが群れるのはなぜか。
その理由の一つは、目と耳を増やすためだ。
敵を察知するのが早いほど、生き延びる確率は増える。一匹では察知が困難でも、一匹でも気づいたなら、それは全体に波及する。そのため気づかれることなく詰め寄るのは、一匹の時より遥かに困難になる。
忍び寄る慎重さも、追尾する体力もない、少なくとも今の俺は、そうすべきではなかったのだ。
自分が犯したミスに激しく動揺しながらも、今度は正しい判断をと悔しさを噛み殺して、俺は洞穴へ戻ることを決めた。今の状態では、狩りを成功させるのは難しい。これ以上体力を消費する前に、一度狩った鹿を食べて休もう。回復してからもう一度、挑戦すべきだ。屈辱的ではあるが、ここは撤退だ。
「駄目だった、か…。」
帰り道は、異様に長い。足取りは重く、歩くので精一杯だったからだ。
歩いているときは、走っているときよりも、余計なことを考えてしまう。
狩りすら満足にこなせない俺は、なんと無能な狼なのだろうとか、このまま手ぶらで洞穴に戻って、彼の前でのうのうと肉塊に齧り付くことなんてできるのだろうかとか。
そのうち歩みすら止めてしまって、周囲の色褪せた景色に促されるがままに、俺は狼なのだろうかとか、どうして俺はまだ生きているのだろうかとか、ずっとそのままでいられそうな問いに耽るのだった。
こうして歩み続ける俺を、この森はいくらでも受け入れてくれる。
本当にもうすぐ、春が来るのだろうか?
俺には秋が、そして永遠の冬が訪れるようにしか思えない。
「…。」
気付けばその場に座り込んでいて、すっかり俺は憂愁へ引き込まれてしまっていた。
そのせいだろうか、帰るべき場所の方角から聞こえる動物の足音が耳に入らなかったのは。
「ん…?」
何も知らず、のこのこと俺の洞穴の近くまでやって来たらしい。まだあれが狼の住処だとわかっていないのだ。耳を澄ませると、それは一頭だけだとわかった。
全く、如何せん俺は縄張り意識が薄い。この森に足を踏み入れる愚か者など、今までに一人しかいなかったから、気に掛ける必要がなかったのだ。ただそれでも、あそこへだけは何人たりとも入れさせるわけには行かない。
まだ彼の存在に気づかれてはいまいが、これがあいつだったらどうするのだ。
とはいえ、俄然狩る意欲が湧いた。
ちょうど帰路にいるのだ。こいつを手土産にして彼の元へ戻れば、先ほどの失態を帳消しにできる。情けない報告などせずに済むのだ。
今はきっと洞穴の中で待っているだろうから、見られてはいないだろう。何喰わぬ顔をしていれば良い。
「よし、狩ってやるぞ。」
俺は気を引き締めると、早速獲物の追尾を始めた。
運よく、風下に入れた。
標的は、同じ種の雌鹿だとわかった。鼻にさっき嗅いだ臭いが運ばれてくる。
距離を縮める間の、ゆったりとしたトロットでさえ、今はしんどかった。
あのまま洞穴に戻るという判断は正しかったのだ。だが今は、多少無理をしてでも奴を仕留める気概に俺は溢れている。
幸い家路は遠くない。すぐさま食事にはありつけるだろう。ただ、これ以上スピードを上げて、どれだけ持つだろうかという不安だけが消えない。
ようやく射程圏内というところで、だいぶ息は上がってしまっている。
ここからさらに脚は回せるだろうか。
力が入らず、腰が引ける。それでも決行するしかないと、俺は心の中で自分に吠えたてた。
もう少し、どうかもう少し、俺の存在に気付かずにいてくれ…。
今は、どれだけ距離を詰めてから襲い掛かれるかが、狩りを成功させるのに大きくかかわってくる。
それなのに俺は、またも鹿と50メートル程というところで早々に見つかった。
「くそっ…。」
どうしてこんな時に限ってなのだと俺は悪態を吐き、渋々走り出す。
別に相手側が鋭い勘を備えていた訳ではない。俺がさっさと、急いで終わらせたいと焦ったのが、先方に伝わったのだ。
何故こんなへまばかりするのだ、俺は。
泥沼に沈みかけているのはもうわかっていた。
一気に片を付けてしまおうといきり、スピードを上げて一気に詰め寄ったまでは良かったが、そこからまた距離が開きつつある。
焦って体力を消耗し、あともう少しというところで力尽きてしまったのだ。なんとか追いつこうと粘り、残った力をも浪費する。
まただ。もう既に狩りが失敗に終わっているのは分かっているのに、諦めて体力を温存するほうが利口だと言うものを、惰性でだらだらと走り続けている。
もう嫌だ、どうしてこんなに俺はものごとが上手く行かない?
更にペースは落ち、俺は遂に走るのを止めた。
”グルルルルゥゥゥゥ…”
俺は鹿に向かって鋭く唸り、吠えた。
“とまれぇ…”
”ケゥッ!?キュー…?”
するとどうだろう。鹿はその命令通り、恐怖で脚が竦んだように動きをぴたりと止めたのだ。
もうそうするしかなかった。
俺は荒い呼吸を繰り返し、苦しそうに喘ぎながら、なんとか動けなくなった哀れな雌鹿に追いついた。
「許せ…こんな事をして、済まない、な…。」
ふらつく前足で、楽にしてやるつもりが、顔から胴の半ばまでざっくりと切り付けてしまう。
”ピギィィーーーーッ!!!”
鹿は苦しそうに断末魔の叫びを上げて、ばたりと倒れた。
「あ゛あ゛っ…あ゛あ゛っ…んぐっ…。」
これでやっと終わりだと思う間もなく、限界まで体力を使い果たした俺もまた、
それに続くようにして無様に倒れ込み、力尽きたのだった。




