Ⅴ
王宮の自室に着くや否や、リリーは大急ぎで控室に向かった。
既にスタンバイしていたジュリアは、手際良くリリーのドレスを脱がすと、用意しておいた簡素な侍女の服に着替えさせた。髪を下ろし、化粧も拭う。
ジュリアが片付けをしている間に、机の上に昨日用意した書類の一式を出す。今日の成果も付け加える。
リリーの失踪を誘拐事件だとでも勘違いされては困る。小さな紙切れに数行の書置きを記し、デュークが気付きやすいよう、食卓に置く。
丸い小さなテーブル。
2人で囲んだ食事。最初は気まずさが先行していたのに、いつからだろう、楽しみな時間になっていたのは。
「リリー様、参りましょう」
感傷に浸っていたリリーを現実に引き戻す侍女の声。はっとする。
素早く廊下を確認し、ジュリアが手招きする。頷くと、2人は連れ立って部屋を後にする。
もう、後戻りはできない。
侍女の振りをしながら厨房を通り、食材を運搬する馬車用の出入り口へと向かう。すれ違う家臣や侍女たちも、夕食の準備に忙しい今時分は余裕なく動き回り、誰も2人に注意を払わない。
あっさりと出入り口を通過する。
門の衛兵も、侍女の出入りにいちいち干渉はしない。制服を着ていることで、信用たる人物だと思われているのだ。
外は既に暗くなっている。今夜は細い月。
しばらく道を歩み、衛兵がこちらを見ていない隙に暗闇に紛れて門の陰に滑り込む。
そこに隠していたトランクを取り出し、乗せておいた木の葉を払う。女性の腕でも容易に持ち運べる重さだ。
静かに、2人は夜道へと歩を進めた。
石畳の舗道。等間隔に街灯が立っている。店は既に閉店しており、2階以上の住居部分に煌々と明かりが灯る。
夜の街は静かだ。繁華街を除けば、通行人もほとんど居ない。
2人は実家への道を急いだ。いつもの速足を更に早く動かした。
とにかく早く実家に辿り着き、事情を説明し、匿ってもらわなければならない。王宮の人々が、リリー達がいなくなっていることに気付く前に。
繁華街寄りの明るい道は遠回りになってしまう。少し抵抗はあったものの、少し薄暗い川沿いの最短ルートを進むことにした。
数メートル先は闇。リリーは心細さを覚え、小さく身震いした。
「リリー様、あと少しですよ」
見透かしたかのように、ジュリアが励ましの言葉をくれる。
ジュリアもこのような時間に外に出歩いた経験など無いだろう。主人のため、懸命に平気なふりをしているに違いない。
「ええ、そうね。あと少し、頑張りましょう」
微笑み合った次の瞬間だった。
眼前に体格の良い男が2人立ちはだかった。思わずつんのめってしまいそうになる。
素早く脇道から飛び出して来たため、気付くのが遅れた。
「お嬢さんたち、どこへ行くんだ?」
「痛い思いをしたくなければ、金目の物を置いていってもらおう」
後ろを振り返ると、更に3人。
物盗りだろうか。伸ばされた髭、薄汚れた衣服。手にはナイフや棒を握っている。
治安が良いと言われているアドリアーノとはいえ、夜に女性だけで出歩くことは推奨されない。夜の闇に紛れて、強盗や物盗り、誘拐や強姦等の犯罪もあるのが実態だ。
今更ながら、急いでいたとはいえ、明るい道を選ばなかったことが悔やまれる。
男たちはじりじりと歩み寄る。リリーたちは川を背に追い詰められ、すっかり周りを囲まれてしまった。
万事休すだ。焦りと緊張から、冷や汗が背を伝う。
咄嗟にジュリアが前に出てリリーを背に庇う。体は小さくても、主人を守る役目を忘れはしない。
「勇ましいお嬢さんだ」
ケラケラ笑い声を上げながら、男が棒を振り上げた。力任せにジュリアの持つトランクに打ち下ろされる。
「ジュリア!」
勢いそのままに、ジュリアがトランクを抱えたまま石畳に転ぶ。拍子に腰を強打したようだ。立ち上がれずにいる侍女に駆け寄り、リリーが庇う。
「荷物はお渡ししますから。どうか、見逃してください!」
声が震えないよう努める。本当は足が竦み、膝がガクガクしているが、気付かれる訳にはいかない。
男がずいと顔を寄せ、いやらしく笑んだ。
「ハハハッ! よく見たら、凄い美人じゃないか! こいつも連れて行こうぜ」
「なっ!?」
リリーの手首を乱暴に掴むと、後ろ手に捻り上げた。抵抗しようとしても、男の太い腕の前に全く敵わない。
それでも諦める訳にはいかない。
「 嫌っ! 離してください!!」
「うるせぇっ!」
叫ぶリリーに対し、男が手を振り上げる。力でねじ伏せようとする。
叩かれる――身を竦め、目をきつく閉じる。来るべき衝撃に備える。
怖い。助けて。
誰か――脳裏に浮かぶのは、恋する彼の人。
「デューク様っ」
刹那。
馬の蹄の音が聞こえた気がする。
だんだんと近付いて来るのと同じくして、近距離でガンッと衝撃音が響いた。
「何……?」
リリーに痛みはない。いつの間にか掴まれた手首が解放されている。
不思議に思って恐る恐る目を開く。目の前の男が膝を付き、頭部を押さえながら地面に突っ伏そうとしているではないか。
後ろに飛び退くと、男が地面に倒れこんだ。
近くには剣の鞘が落ちている。これが衝突した音だったのか。
一体、どこから?
心臓が早鐘を打つ。
近付いてくる馬の駆ける音。顔を上げると、馬が男たちを薙ぎ払い、リリーの前に立ちはだかった。
「リリー! 無事か!?」
この声は、まさか――。
馬上の人。煌めく金の髪。
月光を背にして顔が陰っていても、リリーにはわかる。
「デューク様っ!」
さっと馬から飛び降り、リリーに駆け寄り両肩を掴む。素早く視線を全身に向ける。
「怪我は無いな!」
ようやく安堵の表情を浮かべる。
息が上がり、肩が上下している。城の外だというのに、シャツにパンツという至ってラフな格好だ。上着さえ身に付けていない。
デュークがどれだけ急ぎ、焦ってここまでやってきたのかが分かる。
――信じられない。
顔をじっと見つめてしまう。間違いない、デューク本人だ。
助けに来てくれたのだ、リリーを。
だが、喜ぶ気持ちよりも先に、恐怖が湧き上がる。
リリーは震える手でデュークの袖を掴んだ。
「ど、どうしてこのようなところへ! お1人で来られるなんて、何をお考えなのですか!」
一国の王が、このような危険な場所へ単身赴くなんて。何かあってはどうするのだ。
自らが危険な状況にあること等すっかり忘れ、リリーは怒った。自身の身よりも、デュークにもしものことがあったらと思うと、震えは大きくなる。
だが、デュークも引きはしない。厳しい顔でリリーを怒鳴りつける。
「大馬鹿者はお前だ! 行き先も告げず……お前にもしものことがあったらどうする!」
こんな風に声を荒らげるデュークを見たのは初めてだ。驚きながらも、リリーも引くわけにはいかない。負けず、声を張り上げる。
「私の代わりはいくらでもおります! それに、心配不要と書置きも残したではありませんか! 放っておいて下されば良いものを」
「そんなこと出来る訳が無いだろう!」
「何故です? 真に想う方と結ばれる絶好の機会ではありませんか!」
「お前は色々勘違いをしている!」
とにかく、と言って彼は背を向ける。
「俺の許可無く、いなくなるな!」
有無を言わさぬ口調に、リリーはようやく口を噤む。
話は終わりだとばかりに踵を返すと、よろよろと立ち上がり始めた男たちに向き直った。手にしていた抜き身の剣を構える。
「俺を追って、すぐに衛兵が駆け付ける。それまで堪える」
リリーは倒れているジュリアを守るように抱き寄せる。デュークの背中を心配そうに見つめながら。
馬に蹴られた位で大人しく引き下がる男たちではないだろう。
手にしていた武器を振り上げながら、デュークに向かって一斉に突進する。
「許さねぇぞ!」
「オラァ!!」
リリーたちを背に、デュークは次々と攻撃を剣で薙ぎ払う。
涼しい顔で剣を持つ手を返した。2人同時に飛びかかって来る。1人の男の手首を柄で叩きナイフを落とさせ、腹に蹴りを一撃。そのまま、もう1人が振り下ろした棒を避け、手刀で首の後ろを一撃。
無駄の無い流れるような動きで、的確に相手を痛めつける。リリーの前で流血を避けようと、むやみに剣で切りつける事はしない。
鮮やかな身のこなしに、思わず見入る。恐らく、並の騎士よりも強い。
デュークの動きに気を取られていたリリーは、一瞬気付くのが遅れた。気絶して倒れこむ2人の男の陰から、ナイフを構えた男が突進してくる。
血走った目でリリーを捉えている。あまりに恐ろしい表情で、恐怖のあまり、金縛りにあったかのように体が動かせない。
「リリーッ!!」
一瞬のことだった。
男とリリーの間に割り込むように、デュークが身を滑り込ませる。
「え……?」
すぐにデュークが男の横面を柄で殴り、蹴り飛ばした。地面に突っ伏す男。
だが、リリーは見てしまった。
デュークの腹には、ナイフが突き刺さっている。
街灯の薄暗い明りの中でもわかる。じわじわと赤い血が滲み、服を染めていく。
悲鳴を上げそうになるリリーを片手で制し、デュークはよろめきながら立ち上がった。
「案ずるな」
剣を構える。手加減する猶予はない。
その時だった。
多くの馬の駆ける音が響く。デュークの所在を認識し、ピーッと警笛を鳴らしながら近付いてくる。
「来た……!」
茫然と、馬の姿を目で追う。王家の紋章を頂いた兵の姿を見、胸を撫で下ろし、強張らせていた肩の力を抜く。リリーは思わず泣きそうになるのを堪えた。
デュークの事を街中血眼になって捜していたに違いない。蹄の音が四方八方から聞こえてくる。
ただ事ではない。残る男たちは真っ青になりながら一目散に逃げ出した。何人かの兵がその後を追いかける。
「やっと来たか」
ようやく力を抜いた。大きく息を吐くとその場に座り込んだ。
「デューク様!」
リリーは侍女をそっと横たえると、慌ててデュークに駆け寄った。顔色が青く、汗が顎を伝っている。
「大丈夫ですか!? 傷は!?」
追い立てるように早口で問いかけるリリーに、デュークは苦笑する。「うるさい」と人差し指をリリーの口に立てる。
「お前が無事で良かった」
あまりに優しい微笑み。リリーを慈しみ、心から安堵する笑み。
デュークの言葉に偽りは無い。
きゅっと胸を掴まれたように感じる。
――信じよう。
堪えたはずなのに、涙腺があっさりと決壊する。リリーの頬を伝う涙を拭いながら、デュークは腕を掴んで引き寄せると、耳元に唇を寄せた。
「やっと手に入れたんだ。逃がしはしない……絶対に」
ドクンと大きく跳ねる鼓動。顔に熱が集まる、まるで火が付いたように。
リリーはそっと彼の胸に頬を寄せると、か細い声で呟いた。
「もう……離れませんから」
離れられない。
やっとの思いで離れることを決意したというのに。
実感させないで。こんなにも、デュークに捕われていることを。
満足げに頷くデューク。青ざめた唇のまま、口角を上げて見せた。
「陛下! ご無事ですか!?」
兜を身に付けた兵が馬から飛び降り、デュークに駆け寄る。兵隊長だ。姿を確認し、デュークは気付かれないように「遅いぞ」と悪態を吐いた。
倒された夜盗は縄で縛られて連行され、ジュリアは駆け付けた兵によって抱き起こされた。
隊長はデュークの怪我を見て焦りの表情を浮かべる。部下に救護隊を至急呼ぶよう指示を出し、応急処置をしようとハンカチを広げる。
邪魔になってはいけないと思い、リリーが体を離そうとしたが適わなかった。デュークが、掴んだ腕を離そうとはしなかったから。
「隊長」
鋭い視線に射抜かれ、兵隊長は息を呑んだ。ブラック王子のまま、デュークが兵隊長を見上げている。
オンにする余裕が無いのかもしれない。普段との様子の違いに、戸惑いを隠せないようだ。
「俺が目覚めた時、リリーが目の前に居なかったら、お前を厳罰に処する」
城を抜け出したリリーが罰を受けたりしないよう計らえ、と暗に命じているのである。
「この状況でそのような無茶な命令を下すなんて」と唖然とする隊長に、「わかったな」と念を押す。
「はっ」
国王の勅命に逆らうことなど出来はしない。
隊長が了承するとすぐ、デュークは安心したように意識を失い、その場に倒れ込んだ。
――決してリリーを離すことなく。
彼の座っている周辺は血溜りになっている。出血が多い。
彼を乗せる馬車と救護隊がやって来るのに時間はかからなかった。
「リリー様もご一緒に」
兵隊長に促され、リリーは城へ戻る馬車へと乗せられたのだった。




