第98話 北の空の色
その朝の観測当番は、俺とヴィクだった(家族湯の罰当番の、振り替え分である)。
夜明け前の西の丘。いつもの岩の上。いつもの書式。——だが、その日の空は、いつも通りでは、なかった。
「……圭吾。北を、見ろ」
夜明けの薄明かりの中、北の地平の際で、いつもの灰色の帯が、変わっていた。
濃くなった、のではない。
「動いてる」
帯が、ゆっくりと、うねっていた。停滞していた雲の壁が、生き物の背中みたいに、波打っている。そして、その端が、わずかに、南へ、伸び始めていた。
俺は、視線を絞った。距離は遠い。遠いが、俺の眼は、輪郭だけを拾った。
雲、に非ず。特記: “流れ”。北から、南へ。……巨大な、魔素の、流れ。
「……観測、記録する。“帯、南進を開始。速度、不明。性質、魔素の流動”」
ヴィクの羽根ペンが、震えないように、ゆっくりと動いた。書き終えて、我が眷属は、長く、息を吐いた。
「白いのが、言ってた通りだ。“次の季節には、北の空の色が、はっきりする”……あいつは、これを知ってたんだ」
「時間の見積もりは」
「分からない。でも……あの流れがこの地方に届くのが、次の氾濫か、次の工房か、それとももっと悪い何かか。どれにしても、雪解けよりは、後であってほしい」
「つまり、俺たちの北行きと、競争か」
「……ん。競争だ」
——その日の午後、ギルドの支部長室で、会議が開かれた。
出席は、グスタフさん、ヘクトルさん、リタさん、ロゼ姉御、じいさん、そして俺たちの五人。議題は、観測結果と、この街の、これからである。
「……“帯が動いた”、か。正直、儂には空模様にしか見えんがな。だがな」
グスタフさんは、机の上の書類の山を、指で叩いた。
「北の集落の空洞化。魔物の南下。絆の解消届。淀みの工房。……全部、お前らの観測と報告が、最初の一報だった。ゆえに、儂はもう、お前らの“気のせい”を笑わんことにしとる」
「支部として、正式に決める。第一。観測当番を、ギルドの正規業務にする。給金つきだ。観測官・沙耶、体制づくりを頼む」
「……!はい!」
「第二。“縁の点検”を、フォルテの定例行事にする。月に一度、街ぐるみでな。……教会と、屋台組合と、湯屋には、もう話を通した」
「第三。《腐れ縁》の“北行き”を、ギルドの正式依頼として、支部が発注する」
「「「「!!」」」」
「北部の実態調査。集落の追跡確認。そして、“見張りの塔”とやらの、現況確認。依頼主、フォルテ支部。報酬、支度金込みで、たっぷり弾む。……文句あるか」
俺たちは、顔を見合わせた。
私的な旅が、公的な任務になった。つまり、装備も、金も、後ろ盾も、この街が持つ、ということである。
「……支部長。理由を、聞いても?」
「ふん。決まっとろうが」
グスタフさんは、にやりと笑った。
「“気味の悪い北”に、儂の街でいちばん出鱈目な連中を、送り込んでおきたい。それだけよ」
「ガハハ、と笑うところですよ、支部長」
「ガハハ!!」
会議の最後に、ロゼ姉御が、手を挙げた。
「はいはい、《酔いどれ猫》からも一件。あたしらも、行くから。北」
「「「「!!」」」」
「姉御、いいんですか。三か月ですよ。B級の稼ぎ時を——」
「紳士くん。あたしの忠告、覚えてる?“畑を潰された農夫は、次はもっと遠くに畑を作る”。潰しに行くんでしょ、その畑の大元を。なら、B級の逃げ足が要るわよ、絶対」
「恩に着ます!!」
「それと、道中の酒代は経費でよろしく」
「それは要相談です」経理の返しが、間髪入れずだった。
——散会の後、ヘクトルさんが、俺たちを呼び止めた。
「……貴様ら。出立までの、ふた月。俺の訓練に、付き合え」
「教官の、特訓ですか」
「北は、俺の故郷に近い。タウラの平原の、さらに北だ。……あの土地の冬と、あの土地の獣と、あの土地の礼儀は、俺が、教えられる」
狼の耳が、ぴん、と立っていた。
「貴様らを、死なせるわけには、いかんのでな。……ゆ、行くからには、だ!!全員で帰ってくるのが、礼儀だからだ!!それだけだ!!」
「教官、それ、心配って言うんですよ」
「言わん!!」
——夜。屋根の上。
北の空の、動き出した帯を、五人で並んで見た。
「……競争、か」
「ああ。だが、悪くない条件になった。街が後ろにつき、教官が仕込んでくれ、雪解けまでに、支度の時間がある」
「ん。ほぞんしょく、かいはつちゅう」
「観測体制も、引き継ぎの目処が立ったわ」
「金も、依頼になったから、心配が減った」
ヴィクは、皆の顔を、順番に見て、それから、北を、見た。
「……待ってろ」
小さな呟きが、誰に向けたものかは、もう、聞くまでもなかった。
観測日誌、本日の特記。
『帯、南進開始。——こちらも、北進の支度を始める。負けない』




