第97話 旅袋と、本棚
事件は、ブロム棟梁の一言から始まった。
「おう、角の嬢ちゃん。あんたの部屋にも、そろそろ家具を入れんか?見積もり、してやるよ」
「え。……か、家具?」
「棚とか、机とか、寝台とかよ。……あんたの部屋、まだ旅袋ひとつなんだろ?コタから聞いたぜ」
「「「「(あの犬耳、いい仕事をする)」」」」
そうなのである。ヴィクの部屋は、居着いてから四か月、いまだに、旅袋ひとつと、毛布と、壁の篭手だけだった。いつでも出て行ける部屋。五年間の旅の癖が、部屋の形で、残っていた。
「べ、別に、私は、今のままで」
「よし、全員で家具屋に行くぞ」
「話を聞け!!」
——家具屋である。
「まず寝台ね。あなた、毛布で床に寝るの、今日で終わりよ」
「床は、慣れてる。すぐ動けるし」
「“すぐ動ける”を、寝床の基準にするのを、やめるの。ここは、あなたの家なんだから」
「…………」
「はい、この寝台。角が枕に引っかからないよう、頭側が広いやつ。……ちょうどいいのがあるものね」
なお、俺は俺で、店の奥の逸品を発見していた。
「見ろ!!黒檀の、燭台!!蝋を灯せば、まさに闇の祭壇!!」
「今日はヴィクの家具の日!!あんたのは却下!!」
「ぐぬ……で、では、せめてヴィクの部屋に、この漆黒のカーテンを——」
「私の部屋を、お前の趣味で染めるな。……で、でも、まあ……黒は、嫌いじゃ、ないけど」
「よし店主!!カーテンは黒で!!」
「話が早すぎる!!」
次に、机。ヴィク先生の講座の教材づくりと、観測日誌の清書用である。我が眷属は「機能的だ」と三回言いながら、天板を撫でていた。
そして、本棚。
「ほら、ヴィク。お前の写しの束と、教材と、日誌。全部床積みだろう。棚に並べろ」
「本棚……」
ヴィクは、店先の小さな本棚の前で、立ち止まった。
「……本棚って、その、あれだろ。“ここから動かない”やつの、家具だろ」
「まあ、持ち歩く奴はいないな」
「旅人は、持たない。持てない。……本は、重いから。五年間、私は、読んだ本を全部、置いてきた。次の街、次の街で。……本棚なんて、考えたことも——」
「なら、考える時が来たんだ」
俺は、その小さな本棚を、ひょいと担いだ。
「これは、俺たちが買う。加入祝いだ。遅ればせながらな。お前はもう、“置いていく側”じゃない。“溜めていく側”だ」
「…………っ」
「あ、ずるい!じゃあ私は机代を出すわ」
「俺、寝台な。一番高いし、恩を売れる」
「動機を口に出すんじゃないよ、まったく」
「ん。あたしは、つくえの上の、おかしいれ」
「それはお前が食う用だろ」
「はんぶん、ヴィクの」
——夕方。ヴィクの部屋に、家具が入った。
寝台。机。本棚。菓子入れ(共同管理)。窓辺には、コルン村の子供たちがくれた木彫り(鼠か鼬かは、いまだ係争中)と、野の花の束(乾かして飾った)。
本棚には、写しの束と、講座の教材と、観測日誌の綴りが、並んだ。まだ、半分は空いている。
「……変な、感じだ」
ヴィクは、部屋の真ん中で、ゆっくりと一回転した。
「部屋に、物がある。……私の物が、ある。動かせない物が。……なのに、変だな。息が、詰まらない」
「詰まりそうになったら、屋根の上があるからな」
「……ん。それも、そうか」
そして、ヴィクは、空になった旅袋を、畳んで、本棚のいちばん下の段に、そっと、しまった。
捨てなかった。しまったのだ。いつか北へ行く日のために。だが、今日からは、棚の底で眠らせるために。
「(……いい絵ね)」
「(ああ。……居着いてから四か月。長かったな、ここまで)」
——夜。恒例の講座は、進級試験だった。
「発表する。北方古語講座、初級課程。全員、合格」
「「「「おおー!!」」」」
「沙耶は首席。ひなたは食物単語のみ満点。隼人は数字のみ満点。圭吾は——」
「俺は!?」
「発音だけ、なぜか、妙にいい。合格」
「発音“だけ”!?」
「明日から中級。教材は、私の新しい机で作る。……本棚の、二段目に並べていくから、勝手に読んでいいぞ」
先生の声が、少しだけ、誇らしげだった。
棚は、これから、埋まっていく。この家で。この街で。
——それが、旅人が旅人でなくなるということだった。




