第94話 北行きの帳簿
北行きの準備は、帳簿から始まった。
「議題。“北の門・見張りの塔、遠征計画”。経理から、現実を言います」
円卓に、沙耶の帳面が、ばん、と開かれた。
「写しの地図から割り出した距離、フォルテから北の門まで、推定、片道二十日。国境の山越え込みで、一か月」
「一か月!!」
「王都の倍以上ね。しかも道中、後半は補給地なし。宿場なし。人里、なし。……必要なのは、冬装備、保存食、替えの武具、そして——」
「そして?」
「雪が来る前に発つか、雪が明けてから発つか。山越えは、冬は、死ぬわ」
全員が、窓の外を見た。秋の空である。雪まで、おそらく、あとふた月。
「ふた月で、準備が整うか?」
「金の面だけなら、詰めれば。でも、ね」
沙耶は、帳面をめくって、別の頁を出した。
「問題は、留守よ。前は王都にひと月で済んだ。今度は、最短でも三か月。……この街の“縁の点検”、観測当番、絆外来。私たちが三か月抜けた穴、誰が埋めるの」
「「「「…………」」」」
重い議題だった。俺たちは、いつの間にか、この街の仕組みの一部になっている。抜けるにも、段取りが要る。
「分担して、片付けよう。観測当番は、新人三人組とじいさんに完全移管。書式の講習を、ヴィク先生が仕込む」
「絆外来は、理屈をまとめて、リタさんとロゼ姉御に“教本”を渡すわ。処方の型は、もう十分溜まったし」
「縁の点検は、もう街の習慣だ。俺たちが居なくても回る。……回るように、あとふた月で、根付かせる」
「ん。たべものの、ほぞんしょく、けんきゅう。あたしの、しごと」
「頼んだ、兵站長」
そして、情報の面である。俺は、二通の手紙を書いた。
一通は、王都のセヴラン導師へ。谷の“工房”の詳細と、「三か月で育った淀み」の観測記録。返事は、期待半分である。だが、あの飢えた目は、この情報を放っておかないはずだ。
もう一通は、ロズリンさんへ。月次報告に、一行だけ、私信を足した。『北部方面の古い記録があれば、写しを頂きたい。特に、“見張りの塔”に関するものを』。
「……総本部の監査官に、私的な調べ物を頼むの、大丈夫なの?」
「大丈夫だ。あの人はもう、俺たちの“担当”だからな。それに、断る時は断る人だ。頼む側が遠慮する必要はない」
準備の噂は、翌日には、街を一周していた。そして、押しかけ支援が始まった。
ブロム棟梁は、頼んでもいないのに橇の設計図を持ってきた。「雪の山越えなら橇だ!!儂が造る!!ガッハッハ!!」。じいさんは携行用の小型計器を試作し始め(「観測は、旅先でもですじゃ」)、屋台のおやじたちは保存の利く燻製の試供品を、ひなたに、山と積んだ。
「あの、皆さん、まだ出発はふた月先で……」
「「「「準備は早いに越したことはねえ!!」」」」
そして、コタが、正座で同行を志願して、正座のまま却下された。
「な、なんでですか!!俺も強くなりました!!」
「なったな。だから、だ。お前は残って、観測当番の“長”をやれ。俺たちの留守の穴で、一番でかい穴だ。……頼めるのは、お前しかいない」
「っ……!!は、はいっ!!」
犬耳が、ぴん、と立った。役目は、時々、同行より重い。
——夜。恒例の屋根の上で、ヴィクは、写しの束を膝に広げていた。
「……解読、進んでるか。先生」
「ん。……八割は、読めた。残りの二割が、古すぎて、私でも読めない。“ばあや”なら、読めたんだけどな」
「ばあやさんは、今、どちらに」
「北に。……無事なら、だけど」
風が、二人の間を抜けた。詮索は、しない。だが、北行きの目的地のリストに、また一人、増えた気がした。
「時に我が眷属よ。ばあや殿は、お前に礼法を仕込んだ人だったな」
「ん。……そうだけど」
「ということは、だ。お前のその“ふ、ふん”という威張り方も、ばあや仕込みか」
「ち、違う!!これは……じ、自前だ!!」
「自前の威張りだったか」
「い、威張ってない!!」
「なあ、圭吾。……ひとつ、聞いていいか」
「ん?」
「お前たちは、なんで、そこまでしてくれるんだ。北行きは、私の……私の家の、勝手な事情だ。一か月の旅も、三か月の穴も、全部、私のための——」
「違うな」
俺は、北の空を見たまま、答えた。
「氾濫の元栓も、空になった集落も、絆を刈る巡礼も、芯の工房も、全部、北から来てる。俺たちの街の、俺たちの家の、俺たちの縁の問題だ。……お前の事情と、俺たちの事情は、もう、同じ糸の上にある」
「…………」
「それに、だ。忘れたか?“見張りの座は、独りでは務まらぬ”。大司教の言葉だ。お前の探し人が、もし、独りで座っているのなら」
俺は、立ち上がって、風呂敷マントを、夜風に翻した。
「——騒がしいのを、九人ばかり、連れて行ってやろうじゃないか」
「九人?」
「五人と、たぶん姉御たちが付いてくる」
「……ふ。ふふ。……その未来、簡単に想像できるのが、怖いな」
観測日誌、本日の特記。
『北行き準備、初日。課題山積。——だが、方角は、もう迷わない』




