第90話 口上、四十秒
窪地の縁の射点に、俺たち五人は、滑り込んだ。
囮は完璧だった。群れの三分の二が入り口へ引き付けられ、水たまりへの射線は、がら空きである。ヴィクとひなたが、並んで構えに入る。
今だ。今こそ、あの口上の時である。
俺は、岩の上に、ばさりとマントを翻して、仁王立ちした。
「聞け!!深淵より湧きし、穢れの泉よ!!」
「(始まった)」
「我こそは漆黒の存在、圭吾!!傍らに立つは、剣が峰の疾風・隼人!!叡智の風・沙耶!!天の胃袋・ひなた!!そして、夜を統べる一族が末裔、我が眷属・ヴィク!!」
「(に、二つ名を勝手に……!)」
「今宵!!否、今朝!!我ら五つの魂が、汝の悪しき苗床を焼き払う!!」
「(……ねえ。あれ)」
「(ん?)」
「(群れの一部、囮に釣られてないのが、いたみたいなのよ)」
「穢れの泉に、裁きの光を!!」
「(圭吾)」
「今こそ、下さん!!往くぞ——」
「「「圭吾!!(けーご!!)」」」
「なんだ!!今いいところだぞ!!」
振り向いた。
沙耶が、いなかった。
正確には、射点の三歩後ろの岩の上で、狼型二頭に退路を塞がれた沙耶が、じと目で、こちらを見ていた。囲まれてから、たっぷり二十秒は経った顔だった。
「終わった?口上」
「い、いつの間に!?」
「あんたの“傍らに立つは”のあたりからよ!!回り込まれてたのよ、こっち側に!!全員あんたの口上聞いてて気づくの遅れたのよ!!」
「なぜ声を上げなかった!!」
「上げたわよ小声で!!口上の邪魔しちゃ悪いかなって思った私の優しさを返して!!」
「優しさの使いどころォォ!!」
完全なる、自業自得である。いや、反省は後だ。
「隼人ッッ!!」
「はいよッッ!!」
エースが跳んで、狼型二頭を、二閃で払った。沙耶が岩から飛び降りて、俺の脛を、無言で蹴った。痛い。正当な蹴りである。
「ちなみに言っておくとね!!あんたが口上やってる四十秒で、ひなたはもう“充填”終わってたわよ!!」
「え」
見れば、射点のひなたは、とっくに構え終わっていた。手のひらに、白い光を湛えたまま、こてん、と首を傾げて、待っていた。
「ん。まだ?」
「待たせてたの、俺たちの砲撃班を!!主に俺が!!」
「四十秒、律儀に待ったのよ、この子!!撃っていいわよ、ひなた!!ヴィク!!」
「ん」
「ああ。……ふ。まったく」
ヴィクが、隣のひなたと、目を合わせた。呆れ顔が、途中から、不敵な笑みに変わる。
「口上の続きは、私が引き取る。短縮版で、な」
ヴィクの両手に、紫紺が灯った。ひなたの白と、並んで。
そして、俺たちの眷属は、息を吸って、言った。
「——行くぞ、我が眷属よ!!」
「「「「!?!?」」」」
「そ、それは俺の台詞!!って、眷属!?誰がだ!?まさか俺か!?」
「五月蠅い!!語呂で選んだ!!ひなた!!」
「ん。いただきます」
紫紺と、白が——重なった。
二色の奔流は、螺旋を描いて絡まりながら窪地を駆け抜け、黒い水たまりに、真正面から突き刺さった。
音が、消えた。
光が、世界を塗り潰した。
——そして。
光が引いた窪地の底には、黒い水たまりの代わりに、湯気を立てる、ただの窪んだ地面だけが、残っていた。泡も、芯も、油膜も、根こそぎ、消えていた。
群れの百五十頭が、一斉に、身震いした。目の濁りが、潮のように引いていく。数拍の静寂ののち、魔物たちは、きょとんとした顔で、三々五々、山へ帰り始めた。
「「「「「…………」」」」」
「消えた、わね。工房」
「ん。……“まずそうなの”、ぜんぶ、きえた」
谷の入り口から、囮部隊の歓声が上がった。姉御の指笛が、谷にこだました。
合流した姉御は、開口一番、俺の肩を、ばんばん叩いた。
「聞こえてたわよ〜、口上!!谷中に反響してた!!四十秒!!」
「く……!!」
「言ったでしょ、十秒までって。ま、でも」
姉御は、にっ、と笑った。
「囮側はね、助かったのよ。あんたの声がでかすぎて、群れの注意が割れた。……結果オーライ。戦場ってのは、そういうもんよ」
「つ、つまり俺の口上が、勝利に貢献……!!」
「「「「してない(わ)(よ)(ん)」」」」
「身内が辛辣ゥゥ!!」
俺は——岩の上で、まだ、震えていた。
「おい、ヴィク!!今の!!今のはずるいぞ!!“行くぞ我が眷属よ”は、俺が言うために温めてたんだぞ!!」
「早い者勝ちだ」
「くっ……!!だが、良い口上だった!!悔しいが、様になっていた!!特に語尾の“よ”の伸ばしが!!」
「べ、別に、褒められても……ふ、ふん。当然だ。師匠が、いいからな」
「今、俺を師匠と!!」
「言ってない!!空耳だ!!」
——騒がしい撤収の中、俺は一度だけ、窪地の跡を振り返った。
消えた工房。焼けた根。……だが、疑問は残る。ヴィクの言った通りだ。三か月で、あそこまで育てたのは——誰だ?
湯気の向こう、谷のどん詰まりの岩壁に、俺の眼は、一瞬だけ、それを視た気がした。
灰色の、外套の裾。
瞬きの後には、もう、なかった。
帰ったら、観測日誌に書くことが、また増えた。




