第89話 苗床の谷
翌朝。谷の入り口の岩陰から、俺たちは、それを見下ろした。
窪地に、魔物が、ひしめいていた。
狼型、猪型、熊型、名前も知らない型。ざっと百五十。姉御の報告より、増えている。全頭が、争いもせず、鳴きもせず、ただ、窪地の奥の、黒い水たまりを、囲んでいた。
そして、その水たまりは——大きかった。
ヤナギ瀬の水車の溜まりの、十倍。いや、十五倍。黒い水面が、油膜のように、ゆっくりと渦を巻いている。
「……視るぞ」
俺は、視線を絞った。加護が、走る。
淀み。深度: 深い。状態: 活性。特記: “生成中”。
水面に、ぽこ、と泡が浮いた。泡は、粘つく色の小さな塊、つまり“芯”になって、ふよふよと漂い、近くの狼型の胸に、すう、と沈んだ。狼型が身震いして、目が濁った。
「……見たか、今の」
「ええ。……本当に、産んでるのね。芯を。あの水たまりが」
「工房、稼働中ってわけかい。……で、先生。見立ては?」
ヴィクは、岩陰から長いこと水たまりを睨んで、口を開いた。
「……三つ、言う。一つ。あの淀みは、もう“溜まったもの”じゃない。“育ってるもの”だ。ここまで育つには、何年もかかるはずなのに、姉御の三か月前の遠征じゃ、影も形もなかったんだろ?」
「ああ。あの谷、普通の枯れ谷だったよ」
「三か月で、あの規模。……あり得ない速さだ。誰かが“育てて”るとしか、思えない」
「「「「…………」」」」
「二つ。芯を植えられた群れは、放っておけば、また南下する。今度は百五十だ。コルン村の柵じゃ、保たない」
「三つ目は」
「今なら、消せる。育ち切る前の、今なら。私とひなたの同時撃ちで、根まで焼ける。……やるなら、今日だ」
「待って。撃つの?浄化って、あの歌……詠唱で“ほどく”んじゃなかったの。ヤナギ瀬の水車の時みたいに」
「あれが効くのは、淀みがまだ“絡まり”のうちだけだ。私の浄化は、絡まった糸をほどいて、世界に還す術だから。……ほどく速さより、育つ速さが勝ってる相手には、一生かけても終わらない。そして、あそこまで育った淀みは、もう絡まりじゃない。“根”だ。地面に、食い込んでる」
「だから、ほどかずに」
「焼き切る。根ごと、一撃で。……それができる火力が、俺たちには二門ある」
「ん。どーん、の、しゅつばん」
作戦は、野営で詰めた通りだった。
一、《酔いどれ猫》と隼人が、谷の入り口で「音」を立て、群れの注意を引く(交戦はしない。引き付けて、逃げる係)。
二、手薄になった窪地の縁を、俺と沙耶が駆けて、撃ち手二人を射点まで護衛する。
三、ヴィクとひなたが、水たまりに向けて、同時に撃つ。
四、撃ったら、全員、全力で撤退。芯を失った群れが正気に戻って散るのを、入り口で見届ける。
「単純明快。……いいね、あたし好みの作戦だわ」
「では作戦名を発表する!!名付けて“漆黒の——”」
「あ、紳士くん。ひとつだけ、姉御から忠告ね」
「なんです」
「開戦のとき、口上やるでしょ、あんた。短くね。戦場の口上は、十秒まで。それ以上は、事故のもとよ。B級の経験則」
「ふ……ご心配なく、姉御。俺の口上は、事故を招くのではない。勝利を招くのだ」
「(あ、これ、やるわね)」
「(ん。ぜったい、やる)」
身内の信頼は、正確だった。
「姉御。囮役、ほんとにいいんですか。一番危ない役だ」
「あっはっは。囮はね、紳士くん、B級の十八番よ。逃げ足の年季が違うわ」
「ん。けいご」
配置につく直前、ひなたが、俺の袖を引いた。
「きょうの、どーん。……いつもより、おっきくなる。ヴィクと、あわせると、たぶん、すごく」
「ほう。予算超過か?」
「ん。だから、ごはん、いっぱい、よやくしておいて」
「経理!帰りの宴、大盛りで確定です!」
「もう見積もってあるわよ。……二人とも、無事に帰って、食い尽くしなさい」
——配置、完了。
谷の入り口で、姉御が、盾のデガンに合図を出した。デガンが、大盾を岩に、がん!!と打ち鳴らす。
百五十の頭が、一斉に、入り口を向いた。
「始まるぞ」
俺は、風呂敷マントの結び目を、締め直した。
さて。ここで、白状しておかねばならないことがある。
この時の俺は、決めていたのだ。今日という日に、あれをやろうと。
五人での、初めての大仕事。眷属の、正式加入後の初陣。ならば、開戦の口上は、史上最高のものでなければならない、と。
昨夜の見張りの岩の上で、俺は練りに練った。全長、約四十秒。五人の名と二つ名を織り込み、韻を踏み、最後は「往くぞ、我が眷属よ!!」で締める、完全版である。
……そう。
四十秒。
この四十秒が、どうなるかを——この時の俺は、まだ知らない。




