第79話 フードの、落ちる音
紫紺の炎、だった。
ヴィクの指先から放たれた光は、炎の形をして、炎の色をしていなかった。夕闇の広場を、紫紺の奔流が薙ぎ払い、先頭の猪型を、正面から、呑み込んだ。
巨体が、吹き飛んだ。
冗談みたいに。木の葉みたいに。淀みのもやごと焼き払われた猪型は、広場の端まで転がって、動かなくなった。
二頭目の猪型が、怯まず突っ込む。ヴィクの手が、横に薙がれる。紫紺の鞭が空を裂き、巨体の足を刈った。転倒。地響き。三頭目の狼型が、跳躍。上からの強襲。
「っ、上は……!!」
ヴィクが、仰いだ。両手を突き上げる。紫紺の光が、傘のように開いて、狼型の巨体を、空中で、受け止めた。
受け止めて、押し返した。
小柄な体の、どこにそんな力が。広場の石畳に罅が走り、ヴィクの足が、ずり、ずり、と沈む。それでも、両腕は、落ちなかった。背中の子供たちには、風ひとつ、届かなかった。
——その、一瞬前。
俺の眼は、視ていた。狼型を頭上に受け止めたまま、ヴィクの唇が、小さく動くのを。
“もう、いい”
何が「もう、いい」のかを、俺はまだ、知らなかった。
「ぁぁああああっっ!!」
裂帛の声と共に、紫紺が爆ぜた。
狼型は弾き飛ばされ、地に落ち、二度転がって、残った二頭と共に、脱兎のごとく、夜へ逃げ去った。
——静寂。
広場に、立っているのは、小柄な影ひとつ。肩で息をして、指先から紫紺の残光を零して。
俺たちが駆けつけたのは、その時だった。村の衆も、避難所から顔を出した年寄りも、腰を抜かした子供二人も。全員の目が、広場の中央の、小さな守護者に注がれた、その時だった。
その時、ヴィクの体から、何かが、剥がれた。
薄い、光の膜だった。肌の上に纏われていた、あの“読めなさ”の正体が、ぱき、ぱき、と硝子の霜みたいに罅割れて、夜気に散っていく。
隠形の、術。
三連発の大魔法が、維持の魔力ごと、根こそぎ持っていったのだ。いや、違う。俺は視ていた。あの“もう、いい”を。あいつは知っていて、撃ったのだ。これ以上撃てば、術が保たないことを。それでも、背中の子供たちを選んだのだ。
力尽きた膝が、折れる。夜風が、緩んだフードを、さらった。
長い紫の髪が、夜風に、広がった。三つ編みがほどけて、月明かりを受けて。
そして、髪の間から。
月光に、つやりと光る、二本の、小さな、黒曜石の角。
五年間、術で隠し続けたものが、そこに、あった。出会った夜からずっと俺の眼を弾き続けた膜の、一番奥に仕舞われていたものが。
そして、偽装は、角だけでは、なかった。
膝をついた小さな体の上で、外套の下の見慣れた旅装が、砂絵みたいに光にほどけていく。現れたのは、夜色の生地に、銀の刺繍。詰まった襟の、隙のない仕立て。月明かりの下でも分かる、格の違い。どこかの国の姫が着るような、王侯の装いだった。
広場の時間が、止まった。
「……つ、角……」
誰かが、囁いた。囁きは、さざ波になった。
「角だ……角が、ある……」
「紫の髪、金の目、角……ま、まさか」
「——魔族」
その一言が、落ちた瞬間。
広場の空気が、変わった。
さっきまで「ありがとう」の形をしていた村人たちの顔が、恐怖の形に、塗り替わっていく。誰かが子供を抱き寄せた。誰かが、後ずさった。誰かが、鍬を、握り直した。
魔族。北の、恐ろしい、伝承の。村ひとつを一晩で消すという、あの。
ヴィクは、動かなかった。
動けなかったのだと、思う。五年間、フードの下に隠し続けたものが、月明かりの下に、全部、出ていた。逃げ場のない広場の真ん中で、何十人の視線に、串刺しにされて。
金の瞳が、ゆっくりと、俺たちを、見た。
恐怖とも、諦めとも、謝罪ともつかない色で。ああ、こういう目を、俺は知っている。祭りの夜、屋根の上からこちらを見下ろした、あの目だ。いつでも逃げられる場所から、輪の中を見ていた、あの目。
だから、俺は、いつも通りに、した。
一歩、前へ出て。風呂敷マントをさばいて。広場中に届く声で、言った。
「——92点が」
夜気を、俺の声が割った。
「——100点に、なった」
「「「「…………は?」」」」
村人たちが、固まった。ヴィクも、固まった。
「言ったはずだぞ、我が眷属よ。初めて素顔を採点した日に。“惜しい、あと角があれば完璧だった”と。あったじゃないか。しかも黒曜石の逸品が、二本も」
「お、まえ……」
「よって、本日づけで、100点。文句なしの、満点だ。……ずいぶん待たせたな、答え合わせ」
ヴィクの金の瞳が、揺れた。大きく、揺れて、潤んで。
——それでも。
ヴィクは、首を、横に振った。
「…………だめ、だ」
小さな、掠れた声だった。
「見ただろ。あの人たちの顔。……これが、私だ。私が居ると、こうなるんだ。お前たちの街でも、村でも、いつか、必ず。だから」
僕、ではなかった。
初めて聞く一人称が、夜気に、ぽつりと落ちた。偽りをひとつ、脱ぎ捨てた者の声だった。
紫紺の光が、足元で膨れた。
「ヴィク——!!」
「世話に、なった」
光が、爆ぜた。
目が眩んだ、一瞬の後。広場に、我が眷属の姿は、なかった。
夜空の彼方、北の丘の稜線を、小さな影が、跳ぶように駆けていくのが、視えた。俺の眼だけが、追えた。追えて、届かなかった。
広場には、落ちたフードだけが、残っていた。




