第65話 北方古語講座、開講
帰還から三日。我が家は、日常の型を取り戻していた。
朝、観測当番が丘に立つ。帰りに屋台で朝飯を買う。ひなたが台所で「しさく」をやり、沙耶が帳面を締め、隼人が金の勘定をし、俺が洗濯物(聖別済み)を干す。
そして、夜。我が家の広間に、新しい行事が加わった。
「では、第一回・北方古語講座を、始める」
黒板(ブロム棟梁の廃材で自作)の前に、教鞭(ただの棒)を持った小柄な教師が立つ。ヴィク先生である。月謝は、蜂蜜菓子ひと袋(週払い)。
「まず、文字から。北方古語は二十九文字。南の文字と似てるのが十一、違うのが十八。……ここまでで、質問は」
「先生!なぜ俺たちは全員、受講させられているのでしょうか!」
「圭吾。お前が“習う”と言い出したんだろ」
「俺は、だ!なぜ全員参加に!」
「決まってる。教える手間が、一度で済む」
「先生が合理的すぎる!!」
生徒の出来には、差があった。
沙耶は、初日で文字を全部覚えた(「試験勉強は得意なのよ、昔から」)。ひなたは、食い物に関する単語だけ、異常な速さで覚えた(「“パン”は、ひつじゅくご」)。隼人は、数字と金額の表記だけ完璧になった(「読めないと、北で商売できないだろ」)。
俺はというと、初日から、問題を起こしていた。
「先生!!質問!!“深淵”は北方古語でなんと書く!!」
「書かない」
「では“漆黒”は!!」
「北方古語に“漆黒”はない。“夜の色”と“土の色”があるだけだ。北の言葉は、実用の言葉なんだ。狩りと、天気と、飯と、祈り。……お前の語彙は、全滅だと思え」
「なん……だと……!?では俺は、北で、何を名乗れば」
「“よく喋る南の人”」
「実用的すぎる!!」
さらに俺は、発音でも、つまずいていた。
「違う。“ル”じゃない。喉の奥で、“ルル”だ。巻くんだ、舌を」
「ルル……ルゥ……」
「違う。……ああもう、いいか、こうだ。よく聞け」
ヴィク先生が、手本を見せる。喉の奥で転がる、独特の巻き音。俺には、それが、歌みたいに聞こえた。
「(……なあ、沙耶)」
「(ええ。……あの発音、あれよね。岩場の“おまじない”の響きと、同じ)」
「(それと、遊び歌にも、少し似てる)」
北方古語。おまじない。遊び歌。……この世界の古い音は、どこかで、全部つながっている気がする。
「おい、そこ。私語。写経、二枚追加」
「「すみません先生」」
なお、講座の締めには、いつからか、恒例の“実技”が付いていた。実技と言い張っているのは、俺だけである。
「では我が眷属よ!!本日も、締めのアレを!!」
「や、やらないと言って……ええい、一回だけだからな!!」
俺たちの眷属は、こほんと咳払いをして、篭手を掲げる。
「“夜を統べる一族の血よ”」
「“我が右腕に眠る漆黒よ”」
「“封印の篭手の下、血に眠る古の力よ”」
「「“——今宵ひとたび、目覚めるなかれ”」」
W詠唱である。締めが“目覚めるなかれ”なのは、安全性を最優先した儀式だからだ。そしてヴィクの詠唱は、発音といい、間といい、毎回、妙に堂に入っていた。
「ふっ……今日も良い唱和だった。お前、才能があるな」
「な、ないが!?つ、付き合ってやってるだけだが!?」
「(才能、あるのよね。妙に)」
「(ん。ノリノリ)」
「ノリノリではない!!」
先生は、厳しかった。厳しかったが、授業のあと、生徒の答案(石板)を並べて、うれしそうに丸を付けていることを、俺たちは知っている。五年、一人で抱えてきた言葉を、教える相手ができたのだ。月謝の蜂蜜菓子は、たぶん、世界で一番安い授業料である。
——さて。昼間の方は、Cランクの日常が始まっていた。
ギルドの依頼棚には、見たことのない色の依頼票が増えた。Cランク専用の、青い札である。
「見て。護送、長距離護衛、他都市派遣……報酬の桁が違うわ」
「おっ、これいいな。“隣街までの金庫護送、銀貨8枚”」
「あんたに金庫を任せるのが一番怖いのよ」
「信用ないなあ。Cランクだぞ、俺」
「ランクと信用は別会計よ」
と、リタさんが、棚の奥から一枚の札を持ってきた。青い札ではなく、見慣れない、灰色がかった札だった。
「皆さん、これ……受けるかどうかは別として、一応、お見せしておこうと思って」
『北部方面・山裾集落の定期見回り。対象、コルン村以北の三集落。異常の有無の確認と報告。危険度、不明』
「危険度、不明?」
「ええ。……最近、北の集落からの報告が、その、減ってるんです。異常があるわけじゃないんですよ?ただ、定期の報せが“来ない”だけで。人をやると“何もないですよ”って笑うんですって。でも——」
「でも?」
「支部長が、“気味が悪い”って。それで、見回りの依頼を作ったんです。信用できるパーティに回したいって」
俺たちは、顔を見合わせた。
何もない。ただ、報せが来ない。“なんとなく”の匂いが、ぷんぷんする。
「……受けましょう。ただし、準備をしてからだ。数日、くれ」
「はい!……あの、それと、これは余談なんですけど」
リタさんは、少しだけ声を落とした。
「先週から、パーティの“解消届”が、変に多いんです。今月だけで、四組。いつもは年に四組なのに」
「解消届?喧嘩別れが流行ってるのか?」
「それが……喧嘩じゃ、ないんです。皆さん、けろっとした顔で来て、“いや、なんとなく”って」
「「「「…………」」」」
なんとなく。
また、その言葉だった。
——帰り道、誰も、あまり喋らなかった。
夕暮れの大通り。屋台の呼び込み。子供の遊び歌。いつものフォルテの音の中に、俺たちは、耳を澄ませていた。何かが、欠け始めていないか。縁が、痩せ始めていないか。
「……なあ、みんな。今夜の講座のあと、会議だ」
「ええ。……議題は“北の見回り”と」
「“なんとなく”の、正体、ね」
家に着くと、ヴィク先生が黒板の前で待っていた。今夜の授業は、文字の書き取り——の予定だったが、先生は俺たちの顔を見ると、教鞭を置いた。
「……その顔。授業どころじゃない報せが、あるな」
「ああ。先生、今夜は臨時の議題だ。“パーティの解消届が、ひと月で一年ぶん”」
ヴィクの金の瞳が、す、と細くなった。
「——始まってる、のか。ここでも」
我が眷属の声は、静かで、そして、覚悟の色をしていた。




