第63話 王都よ、また来る
出立の朝は、挨拶の行脚から始まった。
一日前倒しの帰還である。世話になった顔ぶれに、朝駆けで別れを告げて回る。
最初は、ロズリンさんだった。総本部の執務室で、彼女は書類から顔も上げずに言った。
「一日前倒し。理由は、聞いた方がいいですか」
「……聞かない方が、報告書が薄く済みます」
「では聞きません。これ、道中の携行証明です。Cランクの正式な。検問で困らないように」
差し出された書類の束は、完璧だった。例の“同行者一名”の欄も、更新済みである。
「監査官さん。あなた、実は私たちの担当になってから、仕事が増える一方では」
「ええ。……ですが、退屈は、していません」
眼鏡の奥で、事務の鬼が、ほんの少しだけ笑った。
「フォルテの観測日誌、月次で写しを送ってください。観測官さん。あれは、良い記録です。総本部で読んでいるのは、たぶん私だけですが」
「読んでくれてたんですか!?」
「“朝飯の味”の欄まで、毎回」
次は、ユリス卿。侯爵邸に寄ると、寝起きの金の巻き毛が、寝間着のまま転がり出てきた。
「か、帰る!?もう!?聞いてないよ!!」
「急用ができまして。世話になりました、御曹司。飯は全部うまかった」
「うぐぐ……母上が悲しむよ!次はいつ来るんだい!」
「さて。……ま、縁があれば」
「縁なら、あるとも!君たちのは“切れない”そうじゃないか!ならば、また会うのは決定事項だね!」
理屈はめちゃくちゃだが、嫌いになれない理屈だった。ユリス卿は、別れ際、荷馬車に酒とチーズの箱を三つ押し込んできた。貴族の友情は、物量で来る。
魔導院のセヴラン導師は、朝から研究室にいた(たぶん、帰っていない)。
「帰るか、外れ値ども」
「はい。検証への協力、これにて」
「ふん。……最後に、ひとつだけ、老人の忠告を追加しておく」
導師は、黒板の前で、こちらを見ずに言った。
「お前たちの周りに、近頃“影の薄い者”がうろついておろう」
「「「「…………」」」」
「……気づいて、いたんですか」
「わしの研究室の計器はな、感度だけは大陸一なのだ。先週から、王都の魔素の“流れ”に、妙な淀点が二つ、ふらふらと動いておる。生き物のようで、生き物の反応がない。……わしはあれを、五十年前の記録で一度だけ読んだ」
「五十年前……北方の書が、消された年」
「ほう。そこまで調べたか」
導師は、初めて振り向いて、飢えた目を、俺たちに向けた。
「記録には、こうあった。“灰色は、数えに来る”。何を数えに来るのかは、書いておらなんだ。……せいぜい、数えられんように、するのだな。お前たちは、どうせ“数えられん”のが取り柄なのだから」
「それ、褒めてます?」
「わしなりの、餞別だ」
最後に、大聖堂。西広場の炊き出しに、最終日の手伝いで顔を出した。
トマ司祭は、俺たちの出立を聞いて、目に見えてしょんぼりした。
「そう、ですか……虫干し、来年も、その、もし縁があれば」
「ええ。縁があれば、必ず」
「ひなたさん、これ、修道院の焼き菓子です!皆さんで、道中に!」
「ん。トマ、いいひと。——てんしょく、するなら、フォルテの教会に」
「て、転職!?」
炊き出しの列の子供たちにも、別れがバレた。
「くちじょうずのざこ、かえっちゃうの?」
「うむ。だが、悲しむな、少年少女よ。この漆黒はいずこに在ろうと、諸君の空の下に——」
「ようするに、かえるんだな」
「要約が早い!!」
「じゃあ、さいごに、かげ、うねらせて!!」
「よかろう!!見よ!!我が影の、最後の胎動を!!」
「「「うごいてなーい!!」」」
「王都の諸君、達者でな!!(涙目)」
子供たちは笑いながら、それでも列を作って、ひなたと指切りをしていった。「またくる」「ん、またくる」。約束は、三十人ぶん、積み上がった。
そして——広場の端に、白と金の法衣が、供も連れず、立っていた。
バレアス大司教は、俺たちが近づくと、先に口を開いた。
「発つか」
「はい。……猊下。写本を、どうか」
「案ずるな。あれは今日から、もっと深い場所で眠る。錠も、増やした。……それより」
大司教は、ヴィクのフードに、静かな目を向けた。
「名も知らぬ御仁。ひとつ、老人の言葉を持って行かれよ。“見張りの座は、独りでは務まらぬ。されど、独りで座ろうとする者ほど、その座に呼ばれる”。……五十年、書庫の言葉を預かってきた者の、勘だ」
ヴィクは、何も答えなかった。
「良い連れを、持たれた。それだけで、そなたの旅は、先代の見張りたちより、もう幸いだ」
ヴィクは、深く、深く、頭を下げた。フードの奥の言葉は、声にならなかったが、たぶん、届いていた。
——昼前。東門から、乗合馬車が出た。
車窓の向こうで、白い城壁が、ゆっくりと遠ざかっていく。大聖堂の尖塔。大書庫の屋根。ひと月弱の、大きすぎる街。
「……行っちゃうわね、王都」
「ん。おいしかった、王都」
「食った感想なのよ、それ」
「なあ。結局、王都で稼いだ金額と使った金額、どっちが多かったんだ?」
「聞きたい?帳簿、読み上げようか?」
「「「「やめておこう(く)」」」」
騒がしい荷台の隅で、ヴィクは、写しの束の入った胸元を、そっと押さえていた。五年の答えと、北の地図と、独りの見張り番の願いを、抱えて。
「……なあ、圭吾」
「ん?」
「フォルテに帰ったら……観測日誌の書式に、欄をひとつ、増やしたい」
「ほう。何の欄だ」
「——“北の空の色”」
「……いいな。採用だ、我が眷属よ」
馬車は、街道を西へ。
灰色の視線は、王都の門を出てから、一度も感じない。……今のところは、である。




