第62話 灰色の外套
祈りが通じなかったのは、翌日の夕方だった。
帰還準備の買い出しから宿舎に戻る途中、学問区の裏道で、ひなたが、ぴたり、と足を止めた。
「……ん」
「どうした。屋台か?」
「ちがう。“へんなの”が、いる」
全員の足が、止まった。ひなたの「へんなの」は、俺たちの警報の中で、いちばん信用できる部類である。
「方角は」
「うしろ。……ずっと、ついてきてる。においが、しない、ひとたち」
「匂いが、しない?」
「ん。ひとは、みんな、においがする。ごはんとか、汗とか、せっけんとか。あのひとたち、なにも、しない」
振り向かずに、俺は視線だけを、ガラス窓の反射に走らせた。
——居た。通りの角。灰色の外套が、二つ。フードの奥は、影。
加護が、走る。
——状態: 【???】
「(読めない)」
背中に、冷たいものが走った。これまで、俺の眼が読めなかった相手は、ただ一人。隣にいる、俺たちの眷属だけだ。
それが今、二人、通りの角に立っている。
「(ヴィク。……あれは、お前の“同類”か)」
返事は、すぐには来なかった。
「(分からない。気配の消し方は、似てる。でも……違う。あれは、消してるんじゃない。最初から“無い”んだ)」
ヴィクの声が、微かに、震えていた。
「(どうする?撒く?)」
「(いや。……俺たちの流儀で行こう)」
「(まさか)」
「(正面からだ)」
俺は、くるりと踵を返し、通りの角に向かって、堂々と歩き出した。風呂敷マントを、翻して。
「そこの灰色のお二方!先ほどから我らの後をゆかれるが、道にでも迷われたか!この“漆黒の存在”が、案内して進ぜよう!!」
裏道に、俺の声が響き渡った。
灰色の外套が、二つ、同時に、こちらを向いた。
フードの奥に、顔は見えなかった。影が、深すぎる。ただ、視線だけが、確かに、俺を通り過ぎて、俺の後ろの、小柄なフードに、注がれた。
数秒の、静止。
そして、灰色の二人は、何も言わず、すっ、と裏道の奥へ歩き去った。足音が、しなかった。
「「「「…………」」」」
「……行った、わね」
「ああ。……なあ、みんな、今の視線、気づいたか」
「ええ。……あの人たち、私たちを見てなかった。ヴィクだけを、見てた」
全員の目が、ヴィクに集まった。
ヴィクは、路地の壁に手をついて、フードの下で、荒い息をしていた。顔色が、見なくても分かるほど、白い。
「ヴィク!?おい、大丈夫か」
「……だい、じょうぶだ。……ちょっと、昔のことを、思い出しただけだ」
「昔のこと?」
ヴィクは、しばらく黙って、それから、絞り出すように言った。
「五年前。僕が、探し物の旅を始めた頃。……一度だけ、あれと、会ったことがある」
「なに?」
「北の、山裾の村で。あの灰色が、二人、村を歩いてた。何もしない。ただ、歩いて、去った。……その村は、半年後に空になった。誰も、何も、覚えてないまま。“なんとなく、居られなくなった”って、みんな、笑って言うんだ」
「「「「…………」」」」
なんとなく、居られなくなった。
行商のおっちゃん。赤鼻団の頭目。北から流れる人々。全員が、同じ言葉を使った。その始まりの風景に、あの灰色が、立っていた。
「……あいつらは、何なんだ」
「分からない。名前も、正体も、目的も。……ただ、僕の故郷では、ああいうのを、こう呼んでた」
ヴィクは、フードの奥で、その言葉を、吐き出すように言った。
「“灰色の巡礼”。あれが通った土地は、縁が、痩せる」
宿舎への帰り道は、全員、無言の早足だった。角を三つ曲がったところで、隼人が、ぽつりと言った。
「……なあ。さっきの、正面から声かけた時さ。俺、実は、剣の柄、握ってたんだよ」
「知ってる。視えてた」
「で、思ったんだけど、あれ、斬り合いになってたら、俺、勝てた気がしねえ。……“強い弱い”じゃなくてさ。斬るものが、無い感じがした」
「「「…………」」」
俺たちのエースの戦闘勘は、俺たちの計器の中で、ひなたの鼻の次に正確である。その勘が「斬るものが無い」と言った。……覚えておくべき情報だった。
——宿舎に戻って、緊急会議になった。
議題は三つ。灰色の巡礼とは何か。なぜヴィクを見ていたのか。そして、どうするか。
「情報を整理するわよ。大書庫で北方伝承を探ってた二人組。奥書庫の錠を“触れずに試した”何か。そして今日の、匂いのない二人。……全部、同じ連中だと考えるのが自然ね」
「連中の狙いは、北の記憶と、たぶん、写本だ。大司教の懐の、あれ」
「じゃあ、猊下が危ないんじゃ」
「いや。……たぶん、今夜狙われるとしたら、猊下じゃない」
俺は、卓の上の、写しの束を見た。
「——写しを持ってる、俺たちだ」
部屋の空気が、引き締まった。
「ど、どうするの。焼く?写しを」
「焼かない」
即答したのは、ヴィクだった。
「五年ぶんの答えだ。焼かせない。それに、焼いたって、連中は“僕たちが読んだ”ことを消せない。狙われる理由は、もう、消えないんだ」
「なら、話は簡単だな」
隼人が、剣の手入れをしながら、にやりと笑った。
「持って、逃げる。明日の朝の便で、フォルテに帰る。予定を一日、前倒しだ。王都のど真ん中でやり合うより、慣れた庭の方が、百倍やりやすい」
「賛成。手続きは今夜中に済ませるわ」
「ん。おべんとう、つくる」
「遠足じゃないんだよなあ……いや、今回ばかりは、頼む」
——荷造りの夜、俺は屋上で、最後の見張りに立った。
王都の屋根の海は、今夜も灯りで満ちている。その海のどこかに、匂いのしない灰色が、二つ。
「……交代の時間だ」
音もなく、隣に我が眷属が降りた。定位置である。
「なあ、ヴィク。ひとつだけ、確認だ。あの灰色は、お前の探し物と、敵対する何かか」
「…………たぶん。いや、確実に」
「そうか。なら、俺たちの方針も確定だ」
「方針?」
「“俺の眷属を痩せさせる縁は、全部、俺たちの敵”。単純だろう」
ヴィクは、フードの奥で、長いこと黙って、それから、ぽつりと言った。
「……お前たちを巻き込むのが、いちばん怖かったんだ。ずっと」
「知ってる」
「……もう、遅いんだよな」
「ああ。あの夜の井戸端で、白パンを受け取った時点でな」
フードの奥で、俺たちの眷属が、小さく息を吐いた。
「ばか」
明日の朝、俺たちは王都を発つ。
灰色の視線が、どこまで追ってくるかは、まだ、分からない。




