第60話 見張りの手引き
翌夕。鐘楼裏の庭には、石卓と、灯りと、黒い写本、そして大司教と、俺たちが居た。
今日は、五人全員の同席が許された。「写す者、読む者、そして見届ける者は、多い方がよい」というのが、猊下の弁である。ただし条件は昨日の通り。写しは猊下の目の前で。持ち出しは、なし。
「では、始めよ」
ヴィクが、写本を開いた。
五年、探した本を。両手が、少しだけ震えていた。
——中身は、手引き書だった。
流麗でも、神秘的でもない。むしろ、実務の書だった。日誌と、規則と、申し送り。世代を跨いで書き継がれた、引き継ぎ資料の束。
ヴィクが北方古語を読み上げ、沙耶が写し、俺と隼人とひなたが灯りと見張り(と菓子)を受け持った。
「……“見張りの務め、第一。北の座を、空けてはならぬ”」
「……“第二。座に就く者は、齢と力より、絆の確かなる者を選べ”」
「……“第三。見張るべきは、敵に非ず。ほつれ、なり”」
「(……出たわね、綻び)」
「(遊び歌と、同じ言葉だ)」
読み進めるヴィクの声は、静かだった。静かなまま、少しずつ、熱を帯びていった。
「……“ほつれは、剣で斬れず、火で焼けず。ただ、結び直すことでのみ、繕われる”……“ゆえに見張りの座は、代々、結びの巧みな者が継いできた”……」
「結び直す。……それって、どういう」
「……分からない。比喩なのか、技術なのか。……でも」
ヴィクは、ページをめくる手を止めて、ある一枚に、見入った。
そこには、図が描かれていた。山脈。国境。そして、山のさらに北に、塔のような印と、短い書き込み。
「……“北の門、見張りの塔。座の在り処”……」
「地図だ。……見張り番の、住所だ」
「ああ」
ヴィクの指が、その塔の印を、そっと撫でた。まるで、そこに誰かが、まだ居るみたいに。
俺たちは、何も聞かなかった。聞かなかったが、全員、たぶん、同じことを考えていた。こいつの探し物は、本ではない。本の先に居る、誰かだ。
作業の間、猊下は石卓の端で、静かに茶を飲んでいた。そして時折、思い出したように、口を開いた。
「……そこの、大きい方の御仁。先ほどから、庭の枝ぶりを値踏みしておるな」
「げ。……いや、その、いい庭だなと」
「売れんぞ、教会の庭は」
「考えてないです!!(考えてた)」
「……そこの、小さい御仁。夜食の追加なら、台所に言うがよい。三杯目まで、と伝えてある」
「ん。……えらいひと」
「……皆、よう視ておられる」
「五十年、人を視るのが仕事での。……ああ、雨漏りの御仁。そなたのマントの裾、先ほどから写しの燭台に近い。燃えるぞ」
「聖別された布なので——熱っ!!燃える!!普通に燃える!!」
「聖別より、物理じゃ」
——写しは、夜半までかかった。
最後のページは、日誌だった。書き継がれた筆跡の、いちばん新しい部分。それでも、何十年も前のものだ。
ヴィクは、それを読み上げようとして、止まった。
「……ヴィク?」
「“近頃、ほつれの進みが、早い。結んでも、結んでも、追いつかぬ。……応援を乞う文を、南に三度送ったが、返事は、ない”」
庭が、静かになった。
「“南の者たちは、もう、忘れたのだろう。それでよい。忘れられるほどに、長く、保たせたのだから。……されど、願わくば”」
ヴィクの声が、一度、途切れた。
「“——願わくば、次に座に就く者が、独りで、ありませぬように”」
日誌は、そこで、終わっていた。
誰も、何も言わなかった。灯りの中で、ひなたが、そっとヴィクの隣に座って、無言で、甘い揚げ菓子をひとつ、写本の横に置いた。供物である。誰への、とは、誰も聞かなかった。
「以上だ。写し、終わり」
ヴィクは、写本を閉じ、大司教に、両手で返した。
「……ありがとう、ございました。猊下。五年……いや、たぶん、もっとずっと長い間、これを、守ってくれて」
「守ったのは、先代と、そのまた先代よ。私はただの、錠前の番人だ」
大司教は、写本を懐に納め、それから、静かに言った。
「……ひとつだけ、老人の感想を言おう。“渡してはならぬ者”が取りに来る前に、“返すべき者”が読みに来た。五十年の遺命は、今宵、良い形で果たされたと、私は思う」
「「「「…………」」」」
「行くがよい。……ああ、それと、雨漏りの御仁」
「はい?」
「奥書庫の階段の上の梁の修繕、明日から始まる。そなたの目のおかげだ。礼を言う」
「恐縮です。……あの梁、あと二年で落ちてました」
「二年、保つと思うたのだがな」
「三年目の大雨で、確実に」
「……その眼、書庫番に欲しいものだ」
食えない爺さんは、最後まで食えないまま、夜の聖堂に戻っていった。
——宿舎への帰り道。
夜の学問区を、五人で歩いた。写しの束は、沙耶の胸元に。ヴィクは、列のいちばん後ろを、ゆっくり歩いていた。
「……なあ、お前たち」
ぽつりと、後ろから声がした。
「今日のこと……その、なんだ。……礼を、言う。五年で、いちばん、前に進んだ。お前たちが、いたからだ」
「「「「…………」」」」
「な、なんだよ。茶化せよ、いつもみたいに。礼を言うのは、こっちの調子が狂う」
「いや。……たまには、受け取っておこうと思ってな」
「ん。どういたしまして」
「どういたしまして、よ」
「まあ、いつでも呼べって」
「〜〜〜っ、や、やっぱり茶化せ!!順番に言うな!!恥ずかしいだろ!!」
夜道に、我が眷属の抗議が響いた。いつもの調子である。それでいい。
ただ、宿舎の前で、ヴィクは足を止めて、北の空を見た。
雲の切れ間に、星。その下のどこかに、山脈と、国境と、“見張りの塔”。
「……“独りで、ありませぬように”、か」
小さな呟きは、誰に向けたものか、分からなかった。
分からなかったが、俺たちは全員、聞こえなかったふりをして、聞いていた。
北の座。空けてはならぬ座。結びの巧みな者。そして、独りの見張り番。
——俺たちの眷属の物語の輪郭が、今夜、初めて、俺たちの前に薄く透けた。
詮索は、しない。だが、いつかこいつが「行く」と言った時、荷物をまとめる速さでは、誰にも負けない自信がある。
それが、腐れ縁というものだ。




