第59話 大司教と面会予約
大司教への面会申請は、常識的には、通らない。
大陸に五人しかいない大司教のひとり、王都大聖堂のバレアス猊下。謁見を望む貴族の列は三か月待ちだという。フォルテの野良冒険者が「本の話がしたい」で会える相手では、ない。
——常識的には、である。
「面会、通ったわよ」
翌日の昼、申請に行った沙耶が、書状を手に帰ってきた。
「「「「早っ」」」」
「私も驚いたけど。……申請書の“用件”の欄に、言われた通り書いたら、受付の司祭の顔色が変わって、奥に走っていって、半刻で許可が出たの」
「ちなみに、なんて書いたの」
「これも言われた通りよ。“黒い写本の、雨漏りの件”」
俺の指定した文言である。種明かしを、しておこう。
まず“黒い写本”。あれは、大司教が懐に抱いていた、あの本のことだ。存在を知る者は、本人のほか、ほとんどいない。この一語が書けるだけで、「あなたの懐の本を、視た者がいます」と伝わる。
次に“雨漏り”。検分の日、聖堂騎士に呼び止められた俺は、「雨漏りの水筋を目で追っていた」と言い抜けた。あの言い訳を知っているのは、あの場に居合わせた者だけ。つまり、こちらの正体の指定だ。
二つ並べれば、意味はひとつになる。「写本を視たのは、検分の日の、あの雨漏りの作業員です」。……名乗らずに名乗る、署名代わりの文言である。
「向こうがこれで動くってことは、だ。大司教は、写本を“誰かに視られること”を、警戒してた。そして、視た奴と“話す”ことを選んだ。突き出すのでも、握り潰すのでもなく」
「……つまり、どういう人なの?」
「分からん。だから、会う」
面会に備えて、宿舎では、緊急の礼法特訓が行われた。講師は、意外にも、ヴィクである。
「いいか。大司教への拝謁の礼は、三歩、止まって、浅い礼。深すぎる礼は逆に無作法だ。……圭吾、やってみろ」
「うむ。三歩、止まり、そして我が漆黒の敬意を込めて、翻——」
「マントを翻すな。礼だけしろ」
「翻しは敬意の最上級だが!?」
「お前の最上級は、世間の圏外なんだ」
「……ちなみにヴィク。お前、なんで大司教への礼法なんて知ってるんだ」
「ば、ばあやに、習った。いろいろ、な。……ほら、次!口上の禁止事項を暗唱しろ!」
「一、深淵。二、漆黒。三、封印。四、眷属。五、我が魂。って、俺の語彙の全部が禁止では!?」
「だから特訓なんだ!!」
——面会は、翌夕。大聖堂の、鐘楼裏の小さな庭で、と指定された。
謁見の間ではない。記録に残らない場所、ということである。
同行はヴィクと俺の二人(他の三人は「近くの回廊で虫干しの残作業(という名の待機)」)。夕暮れの庭で、バレアス大司教は、供も付けず、一人で待っていた。
白と金の法衣。深い皺。そして、あの静かで読めない目。
「来たか。“雨漏り”の」
「お目通りを感謝します、猊下。フォルテの冒険者、圭吾と申す。こちらは連れの——」
「名乗りは、要らぬ」
大司教は、ヴィクのフードを一瞥して、静かに言った。
「名乗れば、私は“聞いた”ことになる。聞けば、務めの上で、応じねばならぬことが増える。……ゆえに、名乗るな。よいな」
「「…………」」
食えない爺さんである。詮索しないのではない。“詮索しない形式”を、先に整えたのだ。
「単刀直入に聞こう。検分の日、そなたは何を、どこまで視た」
「奥書庫の棚を、すべて。北方の欠本の在り処を、すべて。そして、猊下の懐の、黒い写本を」
「……その眼は、ギルドの台帳にある“加護”か」
「はい。【変態紳士の加護】と申します」
「…………名は、聞かなかったことにする」
「賢明なご判断です」
大司教は、法衣の懐から、それを取り出した。
黒い革の写本。千切れた留め金。ヴィクの喉が、こく、と鳴るのが聞こえた。
「五十年前。先代の大司教が、大書庫から北方の書をすべて引き上げた。理由を、私は一言だけ聞いて継いだ。“いずれ、これらを取りに来る者がある。渡してはならぬ”と」
「取りに来る者……それは、誰です」
「知らぬ。先代も、知らなんだ。ただ“渡してはならぬ”、それだけが遺言……いや、遺命だ」
「(今、噛んだな)」
「(笑うな。猊下の前だぞ)」
ヴィクが、俺の肘を小さく突いた。
「だが、先月から、妙なことが続く。奥書庫の錠が、二度、“試された”形跡があった。触れた者は、いない。なのに、錠の術式だけが、削れておる。……ゆえに私は、検分の日、最も古いこれ一冊だけ、手元に引き上げた」
錠が、試された。触れずに。
隣のヴィクが、フードの下で、息を呑んだ。
「そこへ、だ。そなたらが現れた。奉仕に励み、書庫を敬い、そして“これ”を視た。しかも、盗まず、忍びこまず、正面から面会を申し込んできた。……五十年待って、初めてだ。この本に、まっすぐ歩いてきた者は」
大司教の静かな目が、初めて、ヴィクを正面から見た。
「フードの御仁。そなた、これが読めるか」
ヴィクは、長く、迷った。
読める、と言えば、素性ににじり寄られる。北方古語を読める者など、この大陸の南側には、まず、いない。
だが——五年だ。五年、探したのだ。
「…………読める」
小さく、しかしはっきりと、ヴィクは言った。
「北方古語は、僕の……“ばあや”が、教えてくれた。読める。全部」
「そうか」
大司教は、それ以上、何も聞かなかった。
代わりに、写本を、庭の石卓に、静かに置いた。
「明日の夕、同じ刻限、この庭で。“写し”を許す。私の目の前で、一枚ずつ。持ち出しは、ならぬ。それが、五十年の遺命と、そなたの五年の、間を取る形だ」
「い、いい、のか。俺たちが“渡してはならぬ者”では、ないと?」
大司教は、ふ、と息だけで笑った。
「五十年、人の懺悔を聞いてきた。目を見れば、分かる。——奪う者の目と、“返したい”者の目の、違いくらいはな」
夕暮れの庭に、鐘の音が降った。
面会は、それで終わった。帰り道、ヴィクは一言も喋らなかった。喋らなかったが、フードの下で何度も目元を拭っていたことは、俺の眼でなくても、視えていた。
明日の夕。五年ぶんの答え合わせが、始まる。




