第57話 虫干しと、開かずの扉
外書庫の虫干し作業は、静かで、埃っぽくて、そして、思いのほか、楽しかった。
古い書物を棚から出し、埃を払い、陽の入る回廊に並べ、乾いたら戻す。それだけの作業である。だが、五百年ぶんの書物というのは、触れているだけで、何かの気配がする。
「見ろ、この写本。挿絵の竜が、いい顔をしている」
「作業しなさい、作業。……あら、この家計簿、三百年前の聖堂の食費だわ。興味深い……」
「お前も作業しろ、経理」
虫干しの途中、事件がひとつあった。
俺の担当の棚から、古い紐綴じの束が出てきたのである。表題は『告解の間・修繕記録』。その間に、数枚の古い便箋が挟まっていた。
恋文、だった。百年は前の。修道士になる前の誰かが、置いていったらしい。
「(こ、これは……歴史的資料?それとも覗いてはいけない魂の記録?紳士としてどうすべきだ、視てしまったが、読むべきでは——だが供養としては)」
「圭吾さん?手が止まってますよ?」
「ト、トマ司祭!!これを!!どうすれば!!」
トマ司祭は、便箋を検めて、少し笑って、それから祭壇の方角に一礼し、便箋を綺麗な紙に包み直した。
「“想いの落とし物”は、読まずに、保管箱へ。……そういう規則が、あるんです。三百年前から」
「三百年前から、あるんですか。この事態が」
「書庫は、想いの落とし物だらけですから」
良い規則だった。俺の紳士規範に、一条、追加された。
トマ司祭は、生真面目な監督だった。そして、生真面目すぎて、隙だらけだった。
「皆さんのおかげで、例年の倍の速さです!あ、その棚の本は湿気に弱いので、日陰干しで……って、ひなたさん、なぜ分かったんですか、言う前に」
「ん。かみのにおいが、しめってた」
「か、紙の匂い……!?すごい、書庫番の才能です!」
「ひなた聖女、書庫でも通用するのか」
作業の合間、俺たちは自然に(あくまで自然に)、聖域区画の様子を観察した。
外書庫の奥の扉。その先の回廊。回廊の突き当たりの、下り階段。そして、階段の先にあるという、奥書庫の扉。
「(見えたか、ヴィク)」
「(ああ。回廊の警備は、朝夕の二回、司祭が巡回するだけ。……問題は、扉だ)」
作業三日目、荷運びを口実に回廊の端まで行った俺は、階段の下を、遠目に視た。
黒い、両開きの扉。木ではない。石でもない。表面に、細かい紋様が渦を巻いている。
——俺の眼が、情報を拾わない。
「(……読めない。あの扉、俺の加護が弾かれる)」
「(“目”の魔道具と同系統の、防護の術式だ。錠は、思った通り、印章式。司教の印章を、扉の窪みに合わせる型)」
「(印章か。……盗む、のは無しだぞ。俺たちは奉仕団体だ)」
「(分かってる。盗みは、しない。……僕が知りたいのは、中の記録の“有無”だけだ。開けて、見て、閉める。それだけでいい。何も持ち出さない)」
「(それでも、無断で開ければ罪は罪だがな。……ま、そこは俺たちの流儀で何とかしよう)」
「(流儀?)」
「(“正面から頼んでみる”という流儀だ)」
——その機会は、五日目の昼に来た。
回廊で、トマ司祭と二人、本を運んでいた時である。俺は、世間話の調子で切り出した。
「時に司祭さん。あの階段の下の扉。あれが、奥書庫ですか」
「え?え、ええ。よくご存知で」
「大書庫で聞きましてね。五十年前、北方の伝承書が、あちらに移管されたと。……実は、連れの探し物が、その中にあるかもしれないのです」
トマ司祭は、足を止めた。生真面目な顔が、困った形に曲がる。
「……正直に、申し上げます。奥書庫は、私も入ったことがありません。鍵の印章は、大司教様がたの管理で……開くのは、決まった検分の時だけ。それも、何が納められているか、書庫番の私にすら、目録がないのです」
「目録が、ない?」
「はい。……変だと、思われるでしょう。書庫に、目録がないなんて。私も、着任した時に、変だと思いました。先代に聞いたら、こう言われました。“あそこは、しまう場所ではなく、忘れる場所だ”と」
「忘れる、場所」
「……あっ、いえ、その、妙なことを言いました。忘れてください」
「(忘れる場所の話を、忘れろとは)」
トマ司祭は、慌てて本を抱え直した。それから、少しだけ、声を落とした。
「……その、探し物というのは。フードの、あの方の?」
「ええ」
「そう、ですか。……あの方、作業の合間に、ずっと階段の方を見ておられるから。何か、大事なものなのだろうなと」
生真面目な司祭は、生真面目な目で、少し悩んで、言った。
「来週、月次の“検分”があります。大司教様が、印章で奥書庫を開けて、中を検める日です。私は、外で書類を持って立ち会うだけですが……その日は、扉が、開きます」
俺は、思わず黙り込んだ。
「な、何もできませんよ!?私はただ、事実を言っただけで!扉が開く日がある、という、ただの、事実を!」
「ええ。ただの事実です。感謝します、司祭さん」
「感謝しないでください!!私は何も!!」
トマ司祭は、真っ赤になって行ってしまった。良心と親切の間で引き裂かれる音が、聞こえるようだった。良い人である。この借りは、いつか必ず返そう。
——その夜の会議は、短かった。
「来週。検分の日。扉が開く」
「開いている扉なら、忍び込む必要はない。“見る”方法だけ、考えればいい」
「大司教の検分に、どうやって混ざるのよ」
「混ざらん。俺たちの布陣で行く。すなわち」
俺は、指を折った。
「検分の日、外書庫では虫干しの最終日作業。俺たちは全員、正規の作業員として、堂々と聖域区画の手前にいる。あとは、扉が開いている数分の間に、階段の上から“視える”角度を、一つ確保するだけだ」
「……視える角度?覗くってこと?それ、僕の目でか?」
「いや。——俺の眼だ」
全員の視線が、集まった。
「俺の加護は、視線が通れば、細かいものまで視える。距離があっても、だ。……検分には灯りを持ち込むはずだ。棚に“何が在るか”くらいは、階段の上からでも視える。ヴィク、お前の探し物の特徴を、俺に教えておけ。俺が、お前の代わりに視る」
ヴィクは、しばらく、黙っていた。
フードの奥の金の瞳が、揺れた。それから、小さな声で、言った。
「……“黒い、留め金の壊れた写本”。北方古語で、表紙に“見張りの手引き”と書いてある」
「見張りの、手引き」
「それが、あるかどうか。……あるなら、僕は、次の手を考える。ないなら——五年間の手がかりが、また、ひとつ消える。それだけだ」
「了解した。……座して待て、我が眷属よ。汝の五年に、答えを持って帰る」
「頼んだ、圭吾」
素直な「頼んだ」は、たぶん、初めてだった。
検分の日まで、あと五日。




