第55話 夜会と紳士の沈黙修行
「夜会に、来てほしいんだ」
ユリス卿は、宿舎の食堂で(なぜか一緒に朝飯を食いながら)、そう切り出した。
「断られた腹いせに社交界へ売り飛ばす気か、御曹司」
「人聞きが悪いなあ!逆だよ、逆。派閥の勧誘は諦めた。ただね、僕の母上が、君たちに会いたがっている」
「母上。……侯爵夫人が?なぜ」
「王盤の一件が、社交界の今月一番の話題でね。母上は“面白いもの”に目がない人で……頼むよ!母上のご機嫌がいいと、僕の小遣いが増える!」
「動機が正直すぎるんだよ、あんたは」
報酬は、出席料として銀貨5枚+料理食べ放題。俺たちの円卓会議は三十秒で可決した(ひなたの挙手が最速だった)。
出発前、我が家……ではなく宿舎では、礼服会議が紛糾していた。
「ヴィクの設定を最終確認するわよ。“東方の異国から来た、旅の楽士の弟子”。フードは民族衣装。以上」
「が、楽士?僕は楽器なんて弾けないぞ」
「弾かなくていいの。“師匠に禁じられてる”って言えば、貴族は勝手に納得するから」
「貴族の納得の仕組み、雑すぎないか?」
「“異国の”と“師匠の教え”は、社交界の二大免罪符なのよ。ユリス卿の受け売りだけど」
「ちなみに俺の設定は」
「“変わり者の観察眼の主”。……素のままで通じるのが、あんたの怖いところね」
——かくして、夜会である。
メルヴィル侯爵邸の大広間は、シャンデリアと絹と香水でできていた。着飾った紳士淑女が百人。楽団の調べ。俺たちの五人は、ユリス卿が手配した「そこそこの礼服」で末席に立っていた。
ちなみにヴィクは、フード付きの外套を「異国の民族衣装です」で押し通した。貴族というものは「異国の」と付くと大抵納得する、とはユリス卿の弁である。
そして、俺は開始三十秒で、悟った。ここは、大陸最高難度の、紳士の修行場である。
断っておくと、俺の加護は、成長した。今では、視る相手を絞れる。転生したての頃のように、視界に入った端から流れ込んでくるわけではない。
仕組みは、こうだ。加護が働くのは、俺が“紳士として観察している”間だけ。普段の俺、すなわち漆黒の存在として振る舞っている間は、何も視えない。視る時は、内心で一拍、切り替える。
“拝見する”と。
ただし、だ。
視ようと思えば、視えてしまう。この会場の、誰でも。何でも。絹のドレスの海の真ん中で、引き金に指をかけたまま、笑顔で歩き続ける。それが、夜会である。
そして、挨拶をした相手は、視る。それが俺の中の礼儀である。敬意なき素通りこそ、紳士の恥。ゆえに、挨拶のたびに、来る。
伯爵夫人。年齢。体重。コルセットの締め付け、限界。下着は、絹の白。
男爵令嬢。婚約者と不仲。下着は、薄紫のレース。攻めておられる。
「(言わぬ!!言わぬぞ!!墓まで!!——だが令嬢、その薄紫は、ご婚約者への宣戦布告か何かか!!)」
「(圭吾、挨拶のたびに汗が増えてるわよ)」
「(視るか視ないかを俺が選べる、というのが、こんなに辛いとは思わなかった!!視ないのは無礼、視れば地獄!!礼儀と煩悩の板挟みだ!!)」
「(絞れるようになったのに、自分ルールで絞らないの、世界一馬鹿よ)」
だが、逃げ場は、なかった。
「まあ、あなたが噂の!王盤を黙らせた!」
「ぜひお話を!ねえ、私の絆値、視てくださらない?」
淑女がたが、扇を揺らして集まってくる。視線を逸らせば無礼。視れば、加護が仕事をする。紳士の進退、ここに窮まれり。
「(どうする気?あんた、寸止めできるの?)」
「(ふ。沙耶よ、見ておけ。今夜の俺は、ひと味違う)」
俺は、覚悟を決めた。すなわち、“視えた情報を、一切使わず、褒める”修行である。
「マダム。その扇の所作、見事の一言。長年の茶会で磨かれた手首とお見受けする」
「あらまあ!お上手!」
「ご令嬢。歩幅が正確だ。良い舞踏の師に恵まれましたな」
「まあ、どうして分かりますの!?」
視えている情報(スリーサイズ等)は、金庫の底に沈める。使うのは、所作、指先、歩幅。公開可能な観察だけ。冷や汗の量に反して、評判は、うなぎ登りだった。
なお、途中で一度、酔った子爵に「あの令嬢の“数値”を視て教えろ」と絡まれた。俺は、襟を正して、宣った。
「残念だが子爵。我が眼は今宵、深淵の彼方にて眠りについている。……起こせば、世界が困る」
「な、なんだこいつ」
子爵は引いた。物理的に三歩引いた。視たくない依頼は、中二で断る。新運用の、記念すべき初戦果である。
「(便利ね、その切替)」
「(紳士と漆黒の、二刀流だ)」
「(……あれ?あんた、今日、まともじゃない?)」
「(まともに視えるか?俺は今、沈黙修行の真っ最中だ。一度視た情報は、忘れられん仕様なんだ!!男爵令嬢の薄紫が、頭から消えん!!忘却も紳士の技能であってくれ!!)」
「(頭の中、大変なことになってるのね)」
——そして、事件は起きた。
「お前様が、王盤の?」
人垣が割れて、現れたのは、白髪を結い上げた老婦人だった。侯爵夫人。ユリス卿の母上である。齢七十は超えていよう。だが背筋は槍のようで、目は少年の色をしていた。
俺は、正面から、お迎えした。視線を、逸らさずに。内心で、深く、一拍。
拝見する。
加護が、流れ込む。古傷、右膝。若い頃の、乗馬の傷。今も雨の日に疼く。それを誰にも言わず、五十年、背筋を伸ばし続けてきた人だ。
気づいたら、口が動いていた。
「お美しい」
「あら。世辞なら聞き飽きて」
「世辞ではありません。……その背筋です。五十年、痛みに勝ち続けた背筋だ。当家の若君は、良い母上をお持ちになった」
大広間が、しん、とした。
侯爵夫人は、目を見開いた。それから、少女みたいに、からからと笑った。
「ユリス!この者、気に入ったよ!膝のことはお前にも言うてなかったのに!」
「は、母上、膝!?」
「褒美じゃ。皆の者、この五人組に今宵は好きなだけ食べさせや!特にそこの小さいの、遠慮しておるじゃろう、樽で持ってこさせい!」
「ん!!おばあさま、みどころ、ある!!」
「ガッハッハ!良い食いっぷりじゃ!」
シニア層への強さ、王都でも健在である。夜会の残り時間、俺は侯爵夫人の茶飲み相手を務め、社交界における《腐れ縁》の評判は「変だが、礼儀の芯は通っている(あと大食い)」で確定した。
——帰りの馬車で、俺は燃え尽きていた。
「……疲れた。人生で一番、視て、一番、黙った……」
「お疲れさま。今日のあんたは、ちょっと格好良かったわよ。……ちょっとだけね」
「三百三十八件目。いや、今のは空回りじゃないから、ノーカンか」
「素直に受け取りなさいよ、たまの褒め言葉くらい!」
「照れるな照れるな」
「照れてない!!」
そして、馬車の隅で、ヴィクがぽつりと言った。
「……夜会の間、ずっと考えてたんだが」
「ん?」
「お前のその眼、全部視えるんだろ。……なのにお前は、視えたものを、使わない。金にも、脅しにも、笑い物にもしない。褒める材料にしか、使わない。——なんでだ」
「決まっている」
俺は、窓の外の王都の夜を見ながら、答えた。
「視えてしまうのは、加護の仕様だ。だが、視えたもので何をするかは——俺の仕様だ。紳士とはな、ヴィク。“できてしまうこと”と“やること”の間に、線を引ける者のことを言う」
「…………ふうん」
ヴィクは、フードの奥で、それきり黙った。だが、その沈黙は、いつもより、柔らかかった。
(……白状すると、だ)
俺は、口には出さずに、続きを思った。
(視えてしまう方は、慣れた。だが、俺の本音を“見られる”方は————十年経っても、世界で一番、怖い。だから口上で舗装する。……この話は、当分、黙っておく)
「(……いいこと言った風だけど、この男、明日には屋台の看板娘を採点するのよね)」
「(それは修行の対象外だが!?)」
「(線、引き直しなさいよ)」
明日は、いよいよ潜入準備である。




