第54話 大書庫と欠番の棚
王立大書庫は、学問区の中心に建つ、五階建ての石の殿堂だった。
そして、その正面玄関の前で、俺たちの経理は、震えていた。
「見て。あれが、大書庫。蔵書、推定五十万巻。大陸最大の、知の……知の……」
「泣くな泣くな」
「泣いてないわよ!ちょっと目から水が!」
「それを世間では泣くと言うんだが」
本日の予定は、二手に分かれていた。沙耶(+護衛として俺とヴィク)は大書庫へ。隼人とひなたは市場区の調査(という名の食べ歩きと相場見物)へ。
「はぐれたら宿舎集合よ。ひなた、お財布は隼人に預けなさい。隼人、増やそうとしないで、そのまま持って帰りなさい」
「「はーい」」
「返事のいい二人が、一番信用できないのよね……」
——大書庫の中は、静寂と、紙の匂いでできていた。
吹き抜けの大広間。五階まで続く書架の壁。梯子が滑車で走り、司書たちが音もなく行き交う。
沙耶は、入り口で深呼吸を三回して、それから、水を得た魚になった。
「閲覧証の発行はあちらね。分類法は……なるほど、系統別十進。索引塔が中央。ふふ、ふふふ、どこから読もうかしら。歴史?魔導理論?それとも地誌?」
「(師よ、俺たちの経理が早口になっております)」
「(好きにさせてやれ。今日はあいつの祭りだ)」
ちなみに、俺にも目当てがあった。
「司書さん。“禁書”の棚は、どちらに」
「当館に禁書はございません」
「では“閲覧注意”の棚は」
「ございません」
「“いわくつき”の棚は」
「……五階の奥に、少々。ただし、いわくの九割は“持ち主が返却しないまま亡くなった”です」
「浪漫の解像度がリアル!!」
大書庫の闇は、事務的だった。
俺とヴィクは、はしゃぐ観測官の後ろを、のんびりついて歩いた。ヴィクはフードのままだ。だが、書庫の中は皆うつむいて本を読んでいるので、視線の圧は薄い。心なしか、俺たちの眷属の肩も軽い。
「……本は、いいな。詮索してこない」
「お前の安心基準、一貫してるな」
——事件は、昼過ぎに起きた。
地誌の階で古い北方の地図を眺めていた俺たちのところへ、沙耶が、妙な顔で戻ってきたのである。
「ねえ。ちょっと、変なものを見つけたんだけど」
連れて行かれたのは、四階の伝承・民話の書架だった。沙耶が指したのは、棚の一角。
『大陸伝承集成』全二十六巻。背表紙が、ずらりと並んでいる。
——ただし、十九巻だけが、なかった。
「第十九巻“北方伝承”。……貸出中かと思って司書さんに聞いたら、“欠番”ですって」
「欠番?」
「五十年前の蔵書整理で、除籍。理由の記録は、なし。……でね、ここからが変なの。同じ棚の『北方古謡集』も、『山向こうの昔話』も、『国境の碑文写し』も。北方の伝承関連だけ、軒並み“欠番”か“閲覧制限”なのよ」
俺は、棚を正面から視た。加護は、本の中身までは読めない。だが、埃の積もり方は視える。
「……この棚、十九巻の“空き”だけ、埃が薄いな。定期的に、誰かが触ってる。空っぽの場所を、だ」
「「…………」」
隣のヴィクが、じっ、と欠番の空きを見つめていた。フードの奥の金の瞳が、暗い。
「(……圭吾。沙耶。……これ、偶然じゃない)」
「(だろうな)」
「(北の伝承だけが、五十年前に、まとめて消えてる。誰かが、系統立てて“忘れさせて”る。……僕が探してるものも、たぶん、この消された中に——)」
「お探しものですか?」
背後からの声に、三人揃って、跳ねた。
立っていたのは、小柄な老司書だった。分厚い眼鏡、インクの染みたエプロン、抱えた返却本の山。
「あ、いえ、その、欠番が多いなと」
「ああ、北方の棚……ええ、ええ。昔から、歯抜けでございましてねえ」
老司書は、のんびりと本を棚に戻しながら、世間話の調子で続けた。
「私が勤め始めた頃には、もう、ああでした。先代の司書長は“上の意向”とだけ。教会の意向とも、王宮の意向とも、聞きましたがねえ。……ま、五十年も前の話。今となっては、誰の意向やら」
「その、除籍された本って、処分されたんですか?それとも、どこかに」
「さて。……ただ、除籍簿には“移管”とありましたよ。移管先ですが」
老司書は、眼鏡の奥で、少しだけ声を落とした。
「“大聖堂・奥書庫”と」
「「「…………」」」
大聖堂。奥書庫。
ヴィクの探し物の候補地が、伝聞から、確定に変わった瞬間だった。
「おやおや、脅かしてしまいましたかな。なに、よくある話です。教会は昔から、『世俗に置くべきでない書』を引き取る役目でしてね。……それより、お嬢さん」
老司書は、沙耶に向き直って、にこにこと言った。
「朝から五時間、休みなしで読み通しでしょう。索引塔の使い方も、閲覧規則も、初見で完璧だった。……うちで働く気は、ありませんかな?」
「え!?わ、私!?」
「冗談……半分です。閲覧証を“特別”に格上げしておきましょう。あなたのような読み手は、書庫の誉れだ」
「と、特別閲覧証……!圭吾、聞いた!?特別ですって!!」
「よかったな。……ときに司書さん。その特別閲覧証で、“奥”は」
「大書庫の奥書庫なら、司書長の許可で。大聖堂の奥は」
老司書は、にこにこしたまま、首を横に振った。
「あちらは、司教様がたの領分。俗人は、入れませんよ。……ええ、誰であっても」
——帰り道。夕暮れの学問区を、三人で歩いた。
沙耶は特別閲覧証を宝物みたいに撫でて、ヴィクは黙って足元を見て、俺は二人の間で、今日の収穫を数えていた。
北の伝承の、組織的な欠番。五十年前。“上の意向”。移管先は、大聖堂の奥書庫。
「……なあ、ヴィク」
「……ん」
「潜入計画、変更なしだ。むしろ、確度が上がった。お前の探し物は、あの尖塔の下にある」
ヴィクは、しばらく黙って、それから短く答えた。
「ああ」
「で、だ。ここからが大事な相談なんだが」
「なんだ」
「大聖堂の炊き出しって、あると思うか?教会というものには、だいたい、炊き出しがある。そして炊き出しには、俺たちの最終兵器が刺さる」
ヴィクは、きょとんとして、それから、フードの奥で、ふっと笑った。
「……お前たちの作戦は、いつも飯から始まるんだな」
「俺たちの実績は、全部、飯経由だからな」
宿舎に戻ると、市場区組が帰っていた。隼人は財布を無事に(増やさず)持ち帰り、ひなたは食堂街の全店舗の「おすすめと店主の人柄」を記録した、驚異の食レポを携えていた。
その食レポの中に、こうあった。
『だいせいどうの、にしがわの、ひろば。まいあさ、たきだし。しゅうどうしのひとたち、いいひと。すーぷ、うすいけど、やさしいあじ』
「「「「もう調査済みだった」」」」
「ん。……?なにが?」
台所係の嗅覚は、いつだって、作戦の三歩先を歩いている。
潜入計画、始動である。




